web版アニメ批評ドゥルガ

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アニメに纏わる記事を書いています。毎月第四水曜日に更新。担当者が異なります。

成瀬つながりで 『乱れる』『心が叫びたがってるんだ。』

たまたま成瀬巳喜男監督の『乱れる』長井龍雪監督の『心が叫びたがってるんだ。』を借りて見たら、『ここさけ』のヒロインが成瀬順だとは、知りませんでした。

 

 

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『 心が叫びたがってるんだ』も『乱れる』も家庭に問題があり、本音を言えない人たちのお話で、どちらも単なるハッピーエンディングというわけではありません。男女の恋愛の結果という点でも案外似ているかもしれません。

 

『ここさけ』の成瀬順は無口キャラとカテゴライズされるのでしょうが、後天的な無口キャラというのはあまりいないのではないかと思います。

無口キャラといえば、例えば『エヴァ』の綾波レイや『涼宮ハルヒ』の長門有希が有名ですが、彼女たちは先天的に無口なのであって成瀬順の場合とは異なります。属性とは基本的に物語の端緒や中心事にはならず、それ一個で独立しているものである方が好まれます。なので実は成瀬順は厳密には無口キャラとは言わないのかもしれません。キャラクターと実存という点でみれば変わりゆく属性は実存的であり、その限りでそれは非属性と言える、とややこしいことを書きますが簡単にいえば、成瀬順は単なる無口キャラではないという事です。例えば『リトル・マーメイド』のアリエルが無口キャラとカテゴライズされないようにです。しかし、成瀬順のキャラデザはどう見ても無口キャラの典型的なものであり、無口キャラをすでにメタ的に捉えて物語に組み込んでいるのが面白いです。『森田さんは無口』なども同様にキャラの概念を前提に組まれているのだと思います。

 

この作品にもありましたが、最近のアニメはSNSを作中に登場させることも多く、その時の言葉と声優の演技の声の違いも考える対象になりそうですね。

 

成瀬巳喜男はここでは多く書きませんが、スピード感もあり、構図もよく、向き合わせるカットの多用や日本家屋の使い方、前景後景の動作などクオリティの高い日本映画でしたので是非。

(鯵)

 

いろいろなアニメの序盤だけを見る

こんにちは。

ブログを書くのは人生で初めてなので少し緊張します。指が滑る。

 

先日友人二名と夜通しでTVアニメの序盤だけ(一話か二話まで)を観る会をやってみました。

当然作品ごとの深いところには入れないのですが、並べてみることで何かわかることがあるかもしれない、ということで(実際のところそこまで誠実な理由があったわけではないのですが……)。

 

薦めたい作品から試しに観たい作品、(こう書くと失礼ですが)いまいち質に納得がいかなくて確認したいと思った作品まで、ジャンルもバラバラに6作品を選択。

見た順に、『ゆゆ式』『フリクリ』(これはOVAですね)『B型H系』『Wake Up, Girls!』『Re:ゼロから始める異世界生活』『たまゆら~hitotose~』となりました。アニメ(あるいは「深夜アニメ」)と一口に言っても幅があるよなあという当然のことを思わされます。

『WUG』と『たまゆら~hitotose~』はこれの前に劇場版やOVAがあるので正確には「序盤」とも少し違うのかもしれませんが、たまたま録画されていた新アニメを見るような気持ちで、という感じです。確かに前作を見ないと多少理解に穴は生じてしまうのですが、作品のねらいのようなものは伝わってきたのではないかと思います。

2010年代前半のものが中心ですが、その中で2000年の『フリクリ』の作画の質の高さがむしろ異彩を放つように感じます。画面比さえいまのものと違う作品ですが、会話のテンポやカットのキレは飽きることがなく、16年後の『リゼロ』と並べてみると両者の高質な作画が好対照をなしているのではないかと思います(双方質が高いのですが、2000年には2000年の見せ方が、2016年には2016年の見せ方があるのだろう、と思いました)。

 

取り立てて言うことではないのかもしれませんが、すべての作品に高校生が登場し、特にゆゆ式』『B型H系たまゆら~hitotose~』では高校入学が物語の契機となっていました。思い当たる作品はいくつもあるかと思います。メインの視聴者層を高校生ぐらいと仮定しているのか、高校生の微妙な関係・視野の広さ(狭さ)が物語を生むのか、たぶんどの方向へも進まない議論ですが、とにかく『ゆゆ式』の三人と『B型H系』の山田と『たまゆら~hitotose~』の四人が同い年に見えねえ……(笑)という話になりました。

 

なぜか写真(またはカメラ)の登場する作品が多かったです。たまゆら』シリーズは写真が物語の中核をなしていますが、『リゼロ』では主人公スバルがガラケーの写真機能を駆使して状況を打開しようとする場面がありました(『リゼロ』の異世界の文明は写真以前のようです)。『B型H系』ではヒロイン山田が「初体験の相手」にしようともくろむ男子小須田が自分の一眼レフを持っている描写がありますが、2話まで見た限りでは今後カメラがどういう形で使われるかはわかりませんでした。

常に流体であるアニメーションのなかであらわれる写真(として描かれる一枚絵)は不思議な感触を残します。当然、一枚絵の集積であるアニメーションと画像の集積である一般的な動画とは原理や関係は同じであるはずですが、実写動画のなかに写真があらわれるのとはまた違うものが生まれているように思います。アニメーションのなかで写真とされる絵は、絵でありながら写真であるという二重の要素をはらむところに糸口があるのかもしれないと感じます。

化物語』のような、果敢に「実写の」写真(画像)をアニメーションの画面に取り入れた作品などとも比べてみると面白いのかもしれません。

 

 

愚にもつかないことを書きました。私の方ではゆるめの日記に近い文章を今後書ければいいなと思っています(他の担当者におこられなければ……)。なにとぞよろしくお願いします。

 

(奈)