web版アニメ批評ドゥルガ

web版アニメ批評ドゥルガ

アニメに纏わる記事を書いています。毎月第四水曜日に更新。担当者が異なります。

日常系のなかの人間関係

前回の担当者が書いた記事の追補あるいは応答としていろいろ書いてみたいと思います。(前回記事はこちら↓)

durga1907.hatenablog.com

 

お仕事アニメと呼ばれる作品はたくさんあります。日常系との関連で言えば、たとえば現在2期が放送中の『NEW GAME!』はゲーム制作会社の日常を描いた作品ですね。

newgame-anime.com

WORKING!!』はファミレスのアルバイト同士の物語でしたが、こちらは専門性の高い業務を社員として人物達が行う様子が描かれており、主人公の青葉は会社や先輩社員に憧れをもって入社し、また青葉や若手社員がそれぞれの得意とする分野の業務の技術を磨いていくことでその代替不可能性を維持しています。芸術的なニュアンスを含むものの場合、物語中でそれぞれのキャラクターに固有性を付与するのはおそらく難しくはないでしょう。当然これは部活ものの『けいおん!』などでもあてはまることです。放課後ティータイムのメンバーは替えはきかない(少なくとも作中人物たちにとってそれがまずありえない選択肢であることを視聴者も自ずから了解する)でしょう。

もっとも、彼女たちにおいて、というよりほとんどの女性キャラクターしか登場しない日常系作品の人物たちにおいては、友情が主要登場人物相互に代替不可能性を担保しているということがほとんど前提としてあるので、いま述べた能力による固有性は補足的なものと言ってよいかもしれません。その友情が崩壊しないことが日常系の平和な所以であり、物語性の薄い要因である(人物の人間関係が決定的な変化を起こさないゆえに物語の変化に乏しい)といえるでしょう。『WORKING!!』のように男女のキャラクターがいる作品においては、友情に加え恋愛要素が盛り込まれ、ラブコメ的様相を帯びることも多くあります。

ところで、女性キャラだけの空間が友情に満ちているのにそこに恋愛要素を投入し、人間関係の間の網目を濃く煮詰め、しかしその関係がまったく変化しないという、こう書くと日常系のひとつの極点とも思えてしまうような作品が『ゆるゆり』です。

yuruyuri.com

(上のリンクからキャラクターの相関図を確認できます)

友情と恋愛、あるいはどちらともいえないような好意、またはクラスメイトといった環境による関係がほとんどの人物同士の間にあることによって、どのキャラ同士で場面を構成しても面白く会話を作ることに成功していると思います(これはたくさんエピソードを作ろうとするときには大きな強みです)。ただし、恋愛関係において主要キャラとの関係がないことで人間関係の網目の比較的薄いところに立っている赤座あかりは、たとえば歳納京子のような強烈な個性をもっていないことも相まって頻繁に空気になります。主人公なのに……。

ほかの日常系作品でも、いわゆる百合要素のある作品はたくさんあります。『桜Trick』(来月で原作が終わってしまうらしいですね)はいちばん過激な例だとは思いますが、もっと微妙な感情まで拡張すると、『きんいろモザイク』の綾から陽子への「特別な感情」(公式がこのような言い方をしたことがあります)、あるいは『ご注文はうさぎですか?』のシャロからリゼへの、『Aチャンネル』のトオルからるんへの感情なども含まれてくるかもしれません。恋愛かどうかということはともかく、あるキャラが誰か特定のキャラに対して強い感情を抱くということは日常系の中の関係でときどき起こります。そのとき重要なのが、感情を向けられている相手は必ずしも感情を向ける側「だけ」を見ているわけではなく(つまり片思い的)、したがって往々にして感情を向ける側が自分の代替可能性への不安にさらされることになるということです。その宙づり状態が変化するわけでもなく継続することによって(不安とその解消という狭い振幅をもった変化がくりかえされることによって)、展開がなくても物語の流れが成立している、というのが恋愛(あるいは百合)要素のからんだ日常系のひとつの本質ではないでしょうか。

ただし、あくまでその関係には変化・進展がない(前回担当者の言う「関係を進めない関係」)ので、成就や破局までを描きその間の関係の変化・進展を楽しむ恋愛ものとは一線を画します。そこが、日常系作品に百合要素があっても真に恋愛的な意味での百合は存在しにくい所以だと思われます。百合に関してはサークル員にもっと詳しい者がいるのでいつか記事を書いてくれるかもしれません。

もうひとつ、もとの論点に立ち返って付け加えるならば、人物の代替可能性に対する危機が展開のない物語の推進力になっている作品もある一方、それは必ずしも絶対に必要な条件ではないようにも思われます。代替可能性が人物の心情に変化を及ぼすことで物語の起伏ができあがる一方、四季の変化、学年や年齢の変化、ある目標までの進捗状況の変化といった外的な変化によっても物語の起伏は作られうるからです。

 

ここまでだいぶ書いたんですが、まだもうちょっと述べたいことがあるので(内容は別の話です)、次回の担当回に書くか定期更新以外の機会に投下するかしたいと思います。

 

(補足)

片思い状態が解消せずに継続するのがかなり凝った構図で展開されている作品として『この美術部には問題がある!』があげられますが、こちらの作品はデータ無料配布中の『ドゥルガ』一号にて当サークル員が論考を執筆しましたので、よろしければご覧になってください。以上の話と関連する箇所もあるかもしれません。

ux.getuploader.com

 

(奈)

秋文フリと日常系について

水曜日の定期更新を始めて九週目になります。

このブログはアニメ批評同人誌ドゥルガという零細サークルのweb版で、今回は私たちの本誌二号の話と日常系アニメについて書きます。

前回の『ドゥルガ』は製本をしていないフリーペーパーでしたが、今回はきちんと印刷所に出し、それなりに質を上げたいと思います。ブースは『二人称 東京 彷徨』製作委員会(新興文芸サークル pabulum)と同じ場所になります。

twitter.com

魔法少女・日常系アニメ」という緩い特集ですが、例えば『魔法少女まどか☆マギカ』のキャラクターデザインの蒼樹うめは『まんがタイムきらら』という日常系を担う雑誌に書いている方だそうで(先日サークル員から聞いたのですが)魔法と日常という一見すると対義語のように見える二つの要素が『ドゥルガ』のなかでどのように捉えられるのか私自身興味があります。

日常系とは構造が決定的に変化してしまうことのない物語だけで構成される作品を指すように思われます。言い換えれば決定的な変化は終わりに向けて起こります。

たとえば『WORKING!!』はその点で戦略的な漫画です。すこし込み入った話ですが簡略的に考えてみます。

現代はあらゆる物が交換可能な商品になっています。労働者もその対象で交換可能な商品です。つまりアルバイトというのは誰でもいいわけです。しかし登場人物が誰でもいいのでは作品になりません。その為『WORKING!!』ではファミリーレストランのなかでキャラクター同士が関係を持ちます。関係を持つことによってキャラクターは互いに交換不可能な固有名詞を得ます。キャラクターが交換可能な商品であるのと交換不可能な固有名詞を持つこと、この二つの条件が日常系には必要です。固有名を持つというのは比喩ですが、つまり決定的な変化が起きにくい基盤を作るという意味では日常系の条件をひとまずクリアします。しかし完全に変化が起きない物語などありません。関係が絶対化(たとえば恋人になるだとか)してしまうと物語が硬直し、終わってしまいます。そのために交換可能な商品という条件が必要です。『WORKING!!』にはそのような「関係を進めない関係」として職場の同僚を選んでいます。こちらが日常を担い、交換不可能な関係は恋愛関係であり、それが作品の終わりに向かう決定的な変化になるわけです。

もちろんこれは学園ものでも同じです。『みなみけ』において保坂は南春香と絶対的な関係を築きたいと思いながらも、「関係を進めない関係」である速水やマキ、アツコと関わることで決定的な変化を迂回します。彼らが同じバレー部に所属していて同僚といえるのは類似していると思います。

恋愛ものの多くは三角関係に巻き込まれたり、恋人の絡みばかりになってしまうことが多い気がします。ですが日常系はそのどちらにも属さない関係を描く点で恋愛ものとはかなり違います。最近の女性のキャラクターしか固有名を持たない作品はこの点で先鋭的なのでしょうか。

 

私がこの夏に見たいのは

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー

日常系と魔法少女に示唆的な作品だと思います。見返したいと思います。

Air

奇跡=魔法という観点を抜きに夏なので見返したいです。

ARIA

日常系と夏って感じです。

 

ですかね。他にも『まんがタイムきらら』系列の作品も見たいと思います。

 

『あの花』『ここさけ』脚本岡田麿里初監督決定

https://s.fashion-press.net/news/31912

 

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 (C)PROJECT MAQUIA

「あの花」「ここさけ」脚本家の岡田麿里、初監督のアニメ映画が18年2月公開決定 : 映画ニュース - 映画.comより引用

 ↓以前『ここさけ』に触れた記事

 

 

先日『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』(以下『あの花』)と『とらドラ!』を見ました。

岡田麿里といえば私個人では『true tears』や『花咲くいろは』のP.A.WORKSのシリーズ構成というイメージでしたが、同スタジオ制作で初監督、来年の冬に『さよならの朝に約束の花をかざろう』を公開するそうです。

キャラクターデザイン&総作画監督石井百合子美術監督東地和生というP.A.WORKSの作品風土を形作っているお二方と音楽の川井憲次と音響監督の若林和弘という押井守作品を想起させるお二方がタッグを組んでます。ですから岡田麿里脚本の恋愛を主軸にした青春譚のファンも、P.A.WORKS凪のあすから』のような綺麗な美術やさっぱりしたキャラクター造形、クオリティの高い作画などのファンも、最近話題になった『攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』の1995年の音響ファンの方々にも必見の作品でしょう。私個人にはどんぴしゃですね。

気になるのは誰が絵コンテを切るのかだと思います。絵コンテというのは映画でいえばカメラみたいなものですから作品全体としての良し悪しが決まると言っても過言ではありません。今敏監督は絵コンテの天才とも言えるでしょうし、正反対の作り方で成功してるのは宮崎駿監督でしょう。自分の描きたいシーンのために辻褄を合わせるやり方は、しかしカットの流れを計算しなければ効果的に見せることはできません。

『あの花』『ここさけ』などの長井龍雪監督の絵コンテのクオリティは高いと思います。長井龍雪監督はOPやEDの絵コンテをよく切っていて『とらドラ!』の最初のOPでいえば縦方向と横方向の移動をうまく組み合わせ、止め絵を効果的に見せたり、俯瞰カメラやクローズアップからの引き、すばやいカットの移動、そして弧を描く運動の反復といった映像的な愉しみを与えてくれます。まさに演出出身という感じの絵コンテだと思います。原画出身や漫画出身など、絵コンテはその人の個性が作品全体に出ますから、もし岡田麿里監督が脚本出身として絵コンテを切ったらどんな物が出来るか気になります。

キャラクター原案、吉田明彦は『タクティクスオウガ』『FFⅦ』『ニーア・オートマタ』のキャラクターデザインだそうですよ。これは劇場に行くしかありませんね。

 

観たいアニメタイトルを羅列する その一

もうすぐ夏休みですね。課題とテスト勉強で死にそうです。というわけで、夏休みに見たいアニメを妄想して、現実から逃げようと思います。

『観たいアニメタイトルを羅列する』……タイトルだけ見ると禁じ手のような気がしないでもないですね。その一としたのは適当な時期にまた誰かがその二をやるかもしれないという意味で付けたものなので、来週以降も続くということは無いでしょう……多分。では、早速。

 

・『きんいろモザイク

 所謂「きんモザ」ですね。きらら系列の日常系マンガとしては結構人気のようで、日常系に並々ならぬ関心を持っている自分としては見ておきたいタイトルです。きらら系列は傾向として若干百合要素が入っていることが多いですがこの作品ではどうなのでしょうか? 『桜Trick』はど真ん中ストレートの百合を日常系に持ち込んでいますが、いくつか触れている他のきらら系列作品との比較という意味でも是非見てみたいと思っています。

 

・『魔法科高校の劣等生

 「俺tueee」系の元祖とも言える作品のようで、先日この作品を観たという別のサークル員から熱心に勧められました。あまりバトル物が好きではないのですが、そんな先入観をふっ飛ばしてくれるような主人公の(ネタとも言える?)並外れたハイスペック。テンプレートではなく、若干芯を外したようなオイディプス構造……等々バトル物特有のストーリー以外に、楽しめそうな要素がありそうです。

 

・『めぞん一刻

 観たいアニメは最近のものだけとは限りませんね。この作品は長いので中々手を出せずにいましたが、ラブコメの権現として君臨する作品であると思うので一度は観ないといけない作品ではないかと思っています。実を言うなら、高橋留美子作品はマンガ、アニメに関わらず摂取したいのですが、もれなく長いので中々手が出しにくい存在で、ついつい後回しにしがちです。

 

・『月がきれい

 これは最近のアニメです。つい最近最終回が終わりました。この作品は既にサークル員によるエッセイが挙げられていますね。もしかしたら日本最速かも知れません。この作品がきになるのは、上記の『めぞん一刻』との対比です。実はこの作品は断片的にではありますが少しだけ見ていて、主人公とヒロインが「Line」らしきアプリでやりとりをする場面があり、連絡手段として「スマホ」を使えるストーリーと、連絡手段が家の電話か公衆電話しかないような時代のラブコメのストーリーが違うというのは当たり前ですが、その違いを様々な点からつぶさに検討してみるのも面白いと今思いつきました。

 

・『AIR

 言わずと知れたKeyの伝説的作品で、周りから「まだ見てねぇのかよ」と怒られてしまうような、それくらい有名な作品です。観て来なかったのは単にAmazon Primeで配信していた時、まあいつでも見れるだろうと思って視聴を後回しにしていたら、いきなり作品が配信停止になってしまったという海より深い事情があります。停止するなら予告くらいしてくれてもいいんじゃないでしょうかね。とにかく、この作品は某有名思想家も批評の対象にしているくらいで、2000年代を代表するアニメの一つ、と言っても過言ではないですし、一見の価値があるアニメだと思います。

 

・『キミキス

 元はエンターブレインから発売されたゲームです。後続作品に『アマガミ』があり、私はオタクとしての立ち位置を言うなれば『アマガミ』主義者なので、『キミキス』も勿論プレイして、おおよそのストーリーを把握しているのですが、アニメ版は見たことがありませんでした。いいや、見るのを避けていたという方が正しいでしょう。それはギャルゲーというジャンルが持たざるを得ないマルチシナリオを、アニメーションの単一のリニアなシナリオへと移植することの困難さが如実に現れてしまった、ある意味で「悲劇的」な事態が原因なのです。

キミキス』も、様々なギャルゲーの例に漏れず、何人ものヒロインが登場します。ゲームであれば、それぞれのシナリオでそれぞれのヒロインを攻略すればいいのですが、アニメではそうはいかず、『キミキス』のアニメでは、主人公が様々な女の子と仲良くなって、最終的に「ゲス」な男と化してしまう……という情報を事前に知ってしまっていました。某掲示板の『キミキス』スレでは「キミキスのアニメなんて無かった」と存在そのものすら否定される始末で、一体どこまで酷いシナリオなんだと以前から考えていました。確かに、ゲームの販促という側面もあるギャルゲーのアニメ化において、二股をしてしまうというギャルゲーの負の部分を前面に押し出すことは、ファンどころかゲーム会社さえ求めていないでしょう。これ以降、『アマガミ』『フォトカノ』『セイレン』といった姉妹作においては、それぞれのヒロインにそれぞれのエンディングを与えるというオムニバス形式を取ることでこの問題を回避したようです。このギャルゲーのアニメ化の形式そのものを変えてしまった問題作に、そろそろ対峙してみてもいいかも知れません。

 

 以上6作品のタイトルを並べてみました。最近自分のアニメリテラシーの無さに愕然とする機会が多いので、夏は引きこもってアニメを観ようと思います。

(錠)

『きららファンタジア』配信決定に寄せて

次号のドゥルガでは日常系と魔法少女について扱う予定なのですが、今年、日常系が魔法のほうへ歩み寄ったようなコンテンツが誕生するようです。

 

kirarafantasia.com

 

すでにご存知の方も多いと思いますが、日常系まんがを中心に掲載した雑誌『まんがタイムきらら』シリーズの作品のキャラクターがRPGの世界に大集合するというスマホアプリ『きららファンタジア』が今年配信予定であることが発表されました。

たくさんの人気があるタイトルがクロスオーバーするということで、きらら作品が好きな人にはたまらないでしょう(筆者もだいぶテンションが上がってしまいました)。キービジュアルを見るだけでも、「あのキャラとあのキャラが並んでいる……!」という感慨があると思います。ドリームチーム感といいますか、オールスター感といいますか。それぞれの作品の作家が書き下ろしたキャラクターの絵は元の作品・キャラの面影がしっかりと残っており、特に『きんいろモザイク』九条カレンのユニオンジャック柄や『Aチャンネル』トオルのバットなど具体的な要素も維持されていますが、衣装がRPG風に統一されることで(というより、もしかしたらきらら系列の作品の絵柄に傾向のようなものがあるのかもしれませんが)、違和感なく連帯感が生まれていると思いました。

現時点で参加が決定しているタイトルは近年アニメになったもの(『うらら迷路帖』『ステラのまほう』)や、二期・劇場版・OVAが最近制作されたもの・制作予定のもの(『ゆゆ式』『きんいろモザイク』『NEW GAME!』)が中心になっているようです。『Aチャンネル』もアニメのBlu-ray BOXの発売が決定したり、原作者黒田bbさんの画集が発売されたりしているので根強い人気があるのでしょう。根強い人気といえば、『ひだまりスケッチ』が長いあいだ「きらら」の看板であり続けているのはすごいですね……。『がっこうぐらし!』は主にストーリーの内容的な面で他作品と異彩を放っていますが、2015年にアニメ化されて話題に(騒然と?)なりましたね。現在人気や知名度のあるタイトルを起用したのだと思いますが、『ご注文はうさぎですか?』など人気のある作品はまだありますし、アニメになっていない作品も今後参戦していくのでしょう。

「大集合」してそこから何が始まるのか、つまりゲームシステムなどはまだつまびらかにされていませんが、RPGということですし、トレーラーやビジュアルを見る限りいわゆる剣と魔法のファンタジーなのだろうと察せられます。それゆえ記事の冒頭で「日常系が魔法のほうへ歩み寄ったような」と紹介したのは語弊があるかもしれません。日常系の作品が非日常の典型のようなRPG=冒険に移入されるのは面白いですが、両者を混ぜても乖離するどころかあまり違和感がなさそうというのも興味深い点ではあります。

STAFFの項目を確認したら、アニメに準拠した声優さんがキャスティングされていました。やはりスマホゲームという媒体だと、企画のベースになっているのが漫画とはいえ声が必要なんですね。茅野愛衣さんが大活躍されていますが、ひとり二役三役(あるいはそれ以上)兼ねる状況になるのはクロスオーバーだからこそという感じがします。きらら作品では、ともに『まんがタイムきららMAX』で連載中の『きんいろモザイク』の綾と『ご注文はうさぎですか?』のリゼが、容姿が似ていてしかもキャストが同じ種田梨沙さんということで、綾とリゼがふたりで『きららMAX』の創刊10周年号の表紙を飾るということが行われたりしました(もともと仲のいい作品なのでそれまでにも何度かコラボはありました)。いわゆる「中の人つながり」でキャラクター同士の関連が生まれることが今後はより起こりうるかもしれません。

 

『きららファンタジア』の動向をこれから期待しつつ見守っていきたいと思います。ドゥルガ二号もよければ楽しみにお待ちください、たぶん秋の文学フリマ東京で出しますので……!(ただ乗り感がすごい)

 

(奈)

『月がきれい』には、無口キャラは存在できない。

 

 

 

 

durga1907.hatenablog.com

 『心が叫びたがっているんだ。』で少し触れた、台詞を「声」ではなくてメールやSNSなどの「文字」で伝える方法は、今季では『月がきれい』でかなり組織的に用いられています。岸誠二監督作品であり、オリジナル作品で、セルルックアニメでCGを多用している『月がきれい』はアニメーションというメディアから見ても面白い作品で度々、話に挙げてきました。

実写作品と異なりキャラクターの顔はすぐに意味(喜び、笑い、怒り、悲しみ、無表情などなど)に回収されてしまいがちなので、キャラクターは都度、繊細な心を言葉で説明してしまいます。モノローグがアニメに多いのは表情の運動を描くのに非常に高いレベルのセンスが必要になるから、と言えると思います。(例えばエヴァンゲリヲンの有名な台詞に「どういう顔をすればいいかわからないの」というのがありますが、あの表情は意味に回収されないがゆえに名シーンなのだと思いますし、2000年代の京都アニメーションの作品は表情の運動がとても繊細です)

つまり実写作品では表情で心情を表象できますが、アニメーションでは表情と言葉によって心情を表現しようとするので、アニメーションは映像でありながら言葉に溢れています。

それゆえに「無口キャラ」というのが流行るわけで、また『心が叫びたがっているんだ。』はこれらの文脈を踏まえて戦略的に「無口キャラ」の物語を作っています。成瀬順は台詞を喋ることは禁じられていますが、「歌」と「文字」で自分の心を表現しようとします。これはどちらも言葉です。それゆえ成瀬順はそれさえも禁じられるのですが、同時に坂上拓実との対峙では彼は本音を言えない自分を成瀬順と重ねます。声がキャラクターにとって借り物であるというのはドゥルガ一号に拙いながらも書いたのですが、つまり言葉=心という図式がそこでズレて坂上拓実は自身の名前を呼ぶ成瀬順の声に涙を流すのです。

月がきれい』では「歌」は挿入歌で音楽教師を演じる東山奈央さんが歌っています。しかしそれは音楽教師が歌っているという描写ではないので、より「文字」のほうに重点を置いています。先日、高野文子著の『黄色い本』読書会を文芸サークルpabulumの方で開きましたが、あれも漫画という媒体に台詞ではなく文字として言葉がでてきますが、もちろんアニメーションでの文字とはまた異なる役割を果たすと思います。それはやはり沈黙でしょう。『月がきれい』はとても静かなアニメーションです。そのためこの作品には「無口キャラ」が存在する余地が殆どありません。会話も実に単純なもので、そのために度々引用される文学者の言葉が差異化され、小説家志望の安曇小太郎が書く文字がどのように描かれるかで、この作品の印象がだいぶ変わるのではないかと思います。

(鯵)

 

超歌舞伎『花街詞合鏡』

先日、Eテレ『にっぽんの芸能』で超歌舞伎『花街詞合鏡』が放送されていたので観てみました。これはニコニコ超会議2017において、中村獅童さん主演で上演された新作歌舞伎です。特色としては、舞台上にスクリーンを配置し、その中で、初音ミクや重音テトといったボーカロイド達が、「初音太夫」や「重音」として、舞台の上で俳優たちと一緒に「共演」するという所にあるでしょう。

昨今のCG技術の発達は、確かに目を見張るものであると思いますが、その活用という点で言えば、まだアニメーションという一つのジャンルの中に留まっているように思われます。その意味で、キャラクターが舞台の上で歌舞伎俳優と共演する、ということはとても意味あることだと思います。

通常、アニメーションの場合、スクリーンの内部で保たれる同レヴェルの虚構空間、すなわち「絵であるもの」が虚構の一つの階層を成しており(シャフトが制作した幾つかの作品など一部例外もありますが)、その内部において「絵ではないもの」、例えば実写映像(画像)は、その虚構空間の中で「絵であるもの」と並置することは出来ても、虚構のレヴェルにズレが生じるでしょう。いくらアニメーションにおいて、リアリズムを追求したとしても、背景や人物は「限りなく実写に近い絵」であり、「実写」とは明確に区別されるのであって、その虚構レヴェルにいきなり外部の実写を挿入すれば、虚構空間を階層化するような作用を及ぼすと思われます。(明らかに実写の写真を挿入しているような場面でも、恐らく違和が生じないように画像には何らかの加工が施されているはずですし、挿入される箇所も作品の虚構空間を維持する為に細心の注意が払われると思われます)むしろ、実写を挿入しやすいのは絶えずメタレヴェルについて言及しているような作品(『銀魂』など)だと思います。すなわち、キャラクターと俳優の共演は、アニメーションという表現媒体にこだわるのであればとても難しいことである、ということです。(これは、キャラクターの実存の発生、及びそれの認識プロセスの問題でもあるので、拙著『プロセスとしてのキャラクター』(ドゥルガ一号所収)を参照して頂くと、さらに以下の論点が明確になると思われます)

しかし、歌舞伎になると若干話が変わってきます。歌舞伎は女性が舞台に上がることが出来ませんから、女性は「女形」として男が女性を演じることによって舞台に登場します。女形の俳優は、化粧であったり、身振りであったりという「仮装」、「装い」によって女性になります。つまり、その俳優の本質は問題ではなく、その表層にある化粧や身振りが「女性」を形作り、役の性格(キャラクター)までも形作り、そして観客は、実際に演じる俳優の実存を通して登場人物を見るのではなく、舞台上で装われ、演じられる諸々の「しるし」を読み取ることによって舞台上の登場人物を認識するのです。無論、これは男性が男性の役を演じる場合にも、同様に起こることですが。

キャラクターも同じく「人間ではない」ものが人間を演じるために、装われ、人間と同じような身振りを行うという「しるし」を我々が読み取ることで初めて、そのキャラクターを認識することが出来ます。声優は、キャラクターの実存を担いはしますが、それはキャラクターに人間の「身振り」としての「声」を与えているという点においてのみであって、それは「演じる」ことであり、「装い」である以上、声優の個人的本質(実存)があまり重要ではありません。ここは混同してはならない点でしょう。

そのため、「キャラクター」と「歌舞伎における登場人物」は、それらが「装い」によって担われるという点において共通していることが明らかになります。初音ミクは「俳優」として、舞台で女形の俳優が花魁を演じる時と同じように身振りをすることによって、そこで初めて「女性」になるのです。それ以前の、概念としての「初音ミク」ではなく、我々が舞台の上で見るべきは、歌舞伎俳優達と同じように装い、演じるときに初めて現れる「初音太夫」なのです。

私は簡単に「舞台で女形の俳優が花魁を演じる時と同じように身振りをすること」と言いましたが、それは簡単ではないことで、キャラクターと俳優が違和感無く共演するためにスクリーンの配置に気を配らねばならないでしょうし、CGで滑らかに舞い踊る「初音太夫」は現在のCG技術の発達が可能にしていることでしょう。このような技術の発達と、「歌舞伎」という表現媒体をつねに発展させようとする熱意が、このような新しい表現手法を誕生させているのだと思いますし、このような試みは、アニメーションの側に還元され、新たなアニメーションのかたちを生み出してくれるのではないか、と密かに期待せずにはいられませんでした。

 

(錠)

 

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