web版アニメ批評ドゥルガ

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アニメに纏わる記事を書いています。毎月第四水曜日に更新。担当者が異なります。

「明日の入り口」に残されたのは――『けいおん!』をめぐって(5・終)

時間という概念がきわめて重要なプルースト失われた時を求めて』では頻繁に文章の上にあらわれる細部がいくつもあるのですが、そのなかの代表的なものとして「窓」と「光」があります。窓はある隔たりを保ちながら外界を見るためのものであり、またプルーストにおいては人物を窓越しに見ることで物語の展開の契機にもなっているものです。そこから差し込む光が場面を照らしもします。

同じように、というわけではまったくないのですが、実は『けいおん!』のシリーズでも窓と光はかなり意識して書かれているように見受けられます。時間や天候、季節、あるいは場面の情景によって繊細に変化する京都アニメーションの光の描き方は特筆に価しますが、窓を使った演出もきわめて細やかです。音楽室の窓から外をのぞくカットはよく見かけられますが、『映画けいおん!』においては飛行機の楕円形の窓を唯がのぞくといったことで反復され、卒業式の日、梓に曲を披露する前に四人で屋上に集まったとき、唯が指で作る窓を空に向けてのぞくという印象的な場面へつながっていきます。

ほとんど最後のシーンでも窓はかなり隠喩的な意味合いを含んでいると言えます。梓に向けて四人が演奏したあと、画面はすぐに窓の外側からの視点に切り替わります。

 

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(『映画けいおん!』から)

 

このカットでは構図の中心に据えられた柱が画面のなかで大きな幅を占めています。人物の立ち位置に注目すると、梓だけが柱の左にいるのに対し、三年生は全員柱の右にいます。ここでも梓は三年生四人から切り離されているのであり、その分断を画面の上で担っているのが窓でありその柱なのです(ちなみに、これ以降本編では梓は出てこず、三年生四人が歩くシーンで本編が終わります)。さらに言えば、彼女たちはそれを見るこちらの視点とも窓によって分断されているとも言えます。

直線による分断は実は映画のなかで何度か映ります。その役を担っているのは飛行機雲です。『映画けいおん!』では飛行機雲は遠くに小さく描かれるのではなく、画面の上下を縦断し画面(空)を左右に分けるように(別の言い方をすれば、長方形の画面を台形ふたつに分割するように)描かれます。飛行機雲は当然海外旅行という物語の軸と関連をもち、さらに翼というモチーフとつながることによって最後に梓に向けて披露される曲の歌詞に影響してもくるのですが、構図から考えたとき、飛行機雲は何かとの――おそらく、卒業していく四人との――境界線となっているようにも見えてきます。

円的な時間の作用と対照されるように、線は時間の流れのなかに引かれる指標ともなっています。上の画像の窓のカットのあと、歩いていく三年生四人の足を視点は追って行くのですが、彼女たちの足は横断歩道の線を渡り、橋の柵の縦の線をいくつも通り過ぎていきます。やがて彼女たちは、橋の反対側へと歩いていきます。

映画けいおん!』では、前回記事で述べた吉田健一的な「ただ現在が流れていく」ような時間、円周のなかにいるような時間と、そこから抜けて別の反復へと移行するようなリニアな=線的な時間が共存しているように思われます。そこが、特に後者が存在するということが、ただ同じような毎日を反復するだけの日常系作品、あるいは永遠に時間がループしてしまういわゆる「サザエさん時空」の作品と『けいおん!』が一線を画しているところである所以ではないでしょうか。特に『映画けいおん!』ではおそらくシリーズ中で初めて人物が「過去」「未来」に言及する場面があり(唯が「日本から(時差で日本より時間が遅れている)イギリスに向かって送ったメールは過去に向かって送ってることになるの?」というような疑問を思いつく場面があります)、その意味でも基本的に現在が中心になる日常系の枠から一歩進んでいるように思えます。

しかし作中の人物たちは、卒業といった日常の終わりが訪れても今の日常と同じことが続くことを望んでいるかに見えます。それがいちばんはっきりわかるのは二期20話(最後の文化祭の回)ですが、『映画けいおん!』でも唯が「大学行ってもみんなでお茶できるよね?」と言ったり、最後の場面で四人が冗談交じりに来年の梓の卒業旅行でどこに行く?という話をしたり、といったところにそれが垣間見えます。

日常それ自体は彼女たちがある限り続くでしょう。しかし梓と分断され、あるいは観客と分断されて自立した四人の日常が本編で描かれたのと同じままに続くとは思われません。そこで行われるのはまた別の日常であり、別の物語であるはずです。梓という存在を視聴者のアバターにすることに成功した『けいおん!』において、視聴者が四人の新しい物語にふたたび参入するときの方法はかなり大幅に形が変わることが想定されます。それこそ卒業という日常の終わりに取り残された感覚になる視聴者もいるはずであり、それゆえに本編を繰り返し見ることによって何度もまた同じ日常の現在に戻ろうとする人や、いわゆる「ロス」になる人も多いはずです。

もちろんこうした見方は人物相互の関係やキャラクターの実存性に重きを置いている面が大きく(つまりファン心理が多分に入っているとも言えます)、キャラクターの実存性をとりあえず留保する場合や、あるいは桜高軽音部という「場」を主軸として見た場合はかなり見方が変わってくるだろうと思います。しかし日常系が関係(の不変性)に立脚した物語であることを考えると、批評的ではないかもしれませんが一定の説得力を有しているのではないでしょうか。

 

けいおん!』について断片的に長く書いてきました。余計なこともたくさん書いたような気もしますが、ここまでの議論が他の日常系作品や日常系そのものについて考えるときに何か役に立つことを願って、ここでいちど筆をおくことにします。

 

 

《補足》原作の『けいおん!』連載が終了したあと、新しく『けいおん!college』(大学生編)と『けいおん!highschool』(梓高3編)が始まり、双方とも次の文化祭を成功させるまでの様子が描かれました。「あずにゃんお元気ですか?」「唯先輩お元気ですか?」というモノローグがたまに挿入されるほか、梓に関してはかなり先輩達(特に唯)のことを気にかけている節がありますが、新しい人物たちとも新しく関係を作っています。

 

 

◆以上で連載を終わります。ありがとうございました。これからもドゥルガの定期更新は毎週水曜日に行われます。

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(奈)

流れていく現在のただなかで――『けいおん!』をめぐって(4)

時計を見慣れた我々にとって、時間というものに循環性があることはすぐに了解されると思います。長針が一周することで一時間が経ち、短針が二周することで一日が経過します。あるいは太陽が昇っては沈むことで一日が経ち、一週間、一ヶ月と経っていって、春夏秋冬が一巡りするとまた新しい一年がやってきます。その繰り返しのなかを我々は生きています。

しかしもちろん、その繰り返しはずれを伴います。まったく同じ一日は存在せず、我々は刻一刻と死へ向かって変容し続けているからです。我々の日常における時間には、円環性と線状性が同時に存在しています。

けいおん!』のキャラクターたちの日常もまた、放課後のお茶とおしゃべりの反復と、卒業によるその終焉でできあがっていることはもはや言うまでもないでしょう。そしてそれに対する隠喩として画面にあらわれるのはやはり円なのです。

映画けいおん!』において円のモチーフは冒頭から反復されています。音楽室での日常のシーンにはティーカップ、バウムクーヘンが並びますし(もちろんこうした風景は『けいおん!』全編を通して常に見ることができます)、オープニングの曲のあいだに流れる映像はタルトがイメージされています。ロンドンに着いてからもいくつか円いものは見て取ることができますが、それらはみな、帰国直前に行うライブの最中に見えるビッグベンの時計につながっていきます。五人は帰国の飛行機の時間を気にしながら急遽参加することになったイベントで曲を披露するのですが、ここでロンドン滞在の期限が円形の時計によって表象されるわけです。

時計の針が回転するのと同じように、円はしばしば回転の運動をもたらします。澪が怖がりなのは今に始まったことではないのですが、『映画けいおん!』ではその対象が「回るもの」になります。ロンドンの空港に着いたとき、預けた手荷物を受け取るコンベアーがいくら回っていっても澪の手荷物が出てこず(実はわきによけられていたのですが)、それ以降澪は回転寿司を見ても観覧車を見ても「嫌な予感」を覚えるようになります。

しかしその観覧車に半ば強引に乗せられたとき、澪から「嫌な予感」はふっと去っていきます。なぜなら律の言うように「乗ったらぐるぐる回るのは見えないから」です。つまり循環を外から見ているのはおそろしいけれども、自分がその循環のなかに入ってしまえばただ楽しいばかりなのです。

この対比を時間の流れの考え方と対照させると、時間が流れている(流れていた)ことを見つめる在り方と、いま刻々と流れていく時間に常に身を任せる在り方との対比という風にも言えます。それは言ってみれば時間の「外側」に立つか、それとも時間の「内側」に立つかということでもあります。

時間の内側に立って常に現在性のただなかに身を置き続けるような存在の在り方を示したのは作家で英文学者の吉田健一でした。最晩年の書『時間』では彼の時間論が存分に展開されています。冒頭を引用してみます。

冬の朝が晴れていれば起きて木の枝の枯葉が朝日という水のように流れるものに洗われているのを見ているうちに時間がたって行く。どの位の時間がたつかというのでなくてただ確実にたって行くので長いのでも短いのでもなくてそれが時間というものなのである。(『時間』Ⅰ)(※1)

ここで書かれている時間の在り方は、過去も未来もなくただ現在が我々の前にあるというものです。吉田健一は一秒前が過去になり一秒先が未来となって現在をまさしくいまこの瞬間だけに限定するような時計の時間の在り方を否定します。時間というのはただ流れていくものであって、たとえ我々が歴史を紐解き史実を参照している場合においてさえ、その個としての人間の視点から考えれば、そこで流れているのはやはり常に現在なのです。

日常系の作品の世界を考えたとき、そのなかで流れている時間の在り方はまさしくこういうものなのではないでしょうか。なぜなら日常系には過去や未来との因果関係から生まれる物語はほとんど存在せず、人物たちの行動は過去や未来を起点にしたものよりも「いま、そのとき」を楽しむようなものの方が多く描かれるからです。現在の日常を称揚しているからこそ、日常系は「日常」系たりうるのです。

ちなみに、こうした時間観念と対になるような考えをもっていた作家として吉田健一が『時間』のなかで挙げたのはやはりプルーストでした。『失われた時を求めて』では当然、長く続くセンテンスによって時間の流動性はどのページにおいても担保されており、無数に描かれる日常行為の反復(および過去の反復を示すフランス語の半過去時制)がその場面場面の現在を産みだしてもいるのですが、しかしプルースト特有の「無意志的想起」によって、『失われた時を求めて』の本文にもある「時間の外に出る」ような感覚を語り手の「私」が得ていることも確かなのです。プルーストの語り方は極めて時間的な意味で重層的です。あるひとつの光景の裏にはいくつもの過去の時間が流れ、しかもそれを「私」は思い出し、あるいは書きつけているわけです。これは常に現在というひとつの流れのなかにいる吉田健一的存在とは対照的と言えるでしょう。(※2)

 

(※1)吉田健一『時間』の底本は、講談社文芸文庫の版(1998)に拠りました。

(※2)吉田健一プルーストの時間観の対比については、松浦寿輝プルーストから吉田健一へ」(鈴木道彦訳『失われた時を求めて1 第一篇 スワン家の方へⅠ』(集英社ヘリテージシリーズ、2006)所収)を主な参考としました。

 

 

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(奈)

円形を見つめるあずにゃん――『けいおん!』をめぐって(3)

二期13話「残暑見舞い!」でも、梓は夢を見ます。

 

(二期13話の紹介ページ↓)

www.tbs.co.jp

 

夏休み、三年生四人が勉強で忙しくしているなか、梓は暇を持て余していました。夏の熱に浮かされたように梓は憂や二人の同級生の純と遊びに出掛けた先でも居眠りを繰り返し、そのたびに三年生が登場する奇妙な夢を見てしまいます。

例えば今敏監督の作品ほど夢と現実の間が曖昧になるわけではありませんが、工夫の凝らされたカット割りや演出によって現実から夢への移入が極めてシームレスになっており、気づいたら夢のシーンに入っていたと一回目に見たときに感じる人は多いのではないかと思います。逆に夢から目覚めるときにも、細部同士の連関によって夢と現実のあいだはスムーズな連続性が保たれていきます。一つ目の夢では梓が唯の家にスイカを持っていくのですが、夢から目覚めたときにソファーで居眠りをしながら手に持っていたのはスイカバーでした。あるいは映画館で前に座った澪の携帯が鳴りやまないという夢の場面から、音楽室のテーブルの上に置いてあった携帯のバイブレーションで目を覚ますという風に場面がつながったりもします。

夕方、思いっきり遊んだあとの帰り道を歩いていると梓たち三人は三年生四人に偶然出くわし、七人は一緒に夏祭りに行くことになります。やっぱり先輩たちといると楽しいな、と梓がぼうっと考えていると、向こうの方で花火が始まります。唯が梓の手をとり、三年生たちと音の鳴る方へ走り出します。しかし梓は唯たちとはぐれてしまい、花火は終わってしまいました。梓と合流した憂と純は少し唯たちを心配するのですが、大丈夫だよ、きっと、と梓は答えます。

この話数で一貫しているのは三年生四人を梓が見るという視点の位置です。一人称的な梓の夢が繰り返される一方、三年生たちについては外面的な描写のみがなされます。モノローグがあるのも梓だけです。ここで梓は視点人物としての立ち位置を得ていることになります。

特にこのエピソード以降、梓は四人を横から見つめるような存在として描かれることが多くなっていくように思います。当然梓の視点ですべての物語が構成されているわけではありませんが、やがて卒業していってしまう四人の横顔と後ろ姿を見つめる位置は、『けいおん!』を観る視聴者の位置とも一致します。つまり、梓は視聴者のアバターとしての役割を物語のなかで担うことになっていくのです。

映画けいおん!』でも梓は特権的な位置に立っています。梓のために三年生四人がサプライズのプレゼント(楽曲)を贈ることが物語の主軸になっているからです。四人が何かしているところへ最後に梓が加わるという場面はとても多いのですが、劇中で特に繰り返されるのは、梓がいないときにこっそり四人がサプライズの計画や歌詞を考えているところへ梓が入ってきてしまって、四人がばれないように慌ててごまかすという場面です。その行為はもちろん梓への愛ゆえにということではあるのですが、ここで三年生四人は四人だけで自立した行動をとっており、梓はそこへ入らない(入れない)という構図になっています。そして最後の卒業式の日の演奏場面において、梓は四人と一緒に音を奏でるのではなく、四人の音を受け止める側に回ることになります。それはもちろん、ただ彼女たちの声をきく観客=視聴者の位置でもあるのです。

卒業によって、五人だった放課後ティータイムの関係は四人と一人に分かれます。四人は軽音部を去り、舞台の上から去っていきます。観客席には梓がひとり残り、また視聴者がひとり残るのです。

 

ところで、先の二期13話「残暑見舞い!」では、かなりたくさんの円のモチーフがカットのなかで使われています。夢のなかで唯の家に持って行ったスイカ、音楽室から見下ろせる前庭(校門と後者の間のスペース)にある大きな円形の噴水、また別の夢のなかで登場する福引のガラガラ(抽選器)、打ち上げ花火など円形のものが20分のなかでよくアップになります。こうした細部同士のつながりがこの話数をたゆまずに最初から最後まで見せる力を持っていることはもちろんなのですが、この円のモチーフは最後の場面でより深い意味をもつことになります。

夏祭りから帰ったあと、梓はシャワーを浴びながら一日の出来事を思い返していました。身体を洗った泡がシャボン玉のように丸く浮かんで上へのぼっていくのを目で追いながら、梓は一連の出来事がひょっとしてまた夢なのではないかとぼんやり考えます。そして梓は、「そっか、私、もうすぐひとりになっちゃうんだ」と気づくのです。円を目で追うことと三年生たちの卒業を目で追うことが、この場面ではぴったりと重なっています。

映画けいおん!』でもまた、円は重要な細部として画面のなかに頻繁にあらわれます。そのテマティックな演出はTVシリーズのなかでも特にこの「残暑見舞い!」を踏襲しているのではないかと思わされます。なぜなら、その形とつながっていくのはやはり、日常の時間とその終わりだからです。

 

 

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(奈)

逆の物語としての「解散ごっこ」――『けいおん!』をめぐって(2)

映画けいおん!』をめぐる議論のなかで(それはもちろんTVシリーズにも波及しますが)、重要だと思われることがらの一つとして「模倣」が挙げられました。

冒頭、前回言及した唯が目覚める場面のあと、シーンは三年生四人が音楽室で(彼女たちらしくもなく)メタルの曲を演奏しているところへ切り替わります。そこへ梓が入ってくると、四人はいがみあいをしています。梓が不審に思って尋ねると、どうやら四人は音楽性の違いで対立しているようでした。しかし実はメタルの音楽はカセットテープから流していたもので彼女たちはそれに当てふりをしていたのであり、いがみあいも結局「ごっこ」だったのでした。

ここにはいくつかの模倣を見て取ることができます。一つは「バンドが音楽性の違いによって対立・解散することの模倣」であり、また一つは「メタル音楽の当てふり=模倣」です。

前者はバンドのイメージの模倣として描かれます。イメージの模倣という意味では、「何か先輩らしいことをしよう」という考え方や、劇中歌「ごはんはおかず」の歌詞の前提が「お好み焼きとごはんを一緒に食べる関西人」のイメージに依拠しているところも関係があるかと思います。あるいは、バンドの解散の模倣はそのイメージを産みだした物語の模倣でもあります。「ごっこ」というのはある虚構の物語のなかに自己を組み込むことであり、すなわち虚構を借りて自己を物語化することだと言えます。理論立てるのが難しくそもそも何かに肩入れしすぎているかもしれないのですが、人物が他の物語に言及することでメタレベルがやや上がるといいますか、いわゆる普通の物語よりも人物が「こちら側」(視聴者側)にいるような印象を受けます。適当な例が出てきませんが、他の日常系作品でも時おりこうしたことが散見されるような気がします。

メタという意味で言えば、彼女たちは作中である種の「メタ聖地巡礼」をしているといえます。彼女たちが行き先をロンドンにした理由のひとつはUKロックの聖地巡礼でした。こうしたことは『けいおん!』が純粋な虚構よりも現実に近いように見えるのに一役買っているようにも思われます。京都アニメーションのある種の現実主義ともうまくかみ合っています。

けいおん!』に関してはまた、人間としての在り方から逸脱していないキャラクターは人間の模倣という要素が強いと言えます。そもそもアニメーションや絵という媒体はある対象の模倣です。あるいは前回記事で触れたようなキャラクターを写した写真についても、その初期が鏡としての役割をもっていることや、人間の鏡としてのキャラクターという考え方を鑑みれば、ある種鏡の前に立つ人間の模倣とも呼べるものです。

後者については、実は作中人物の模倣になっています。上述のシーンで使われたメタルの曲は、部の顧問である山中さわ子がかつて唯たちと同じ高校の軽音部に所属していたときに演奏していたものだからです。物語後半でもかつてさわ子がやったのと同様に卒業前の登校日にゲリラ的にライブを行う場面がありますが、ここでもやはり軽音部の過去の出来事が模倣されています(作中では軽音部の「伝統」という表現が使われます)。こうした出来事の反復は、「放課後ティータイム(唯たち五人のバンド)の物語」(人物の物語)が主軸である『けいおん!』に、「桜高軽音部の物語」(場の物語)を付与し、時間の流れに深みをもたせる作用も含んでいます。

さわ子と放課後ティータイムの関係は、先生と生徒の関係であるだけでなく、バンドとマネージャーの関係の模倣になってもいます。たとえロンドンという遠いところであっても、放課後ティータイムが演奏する場所にさわ子は居合わせています。回転寿司屋で演奏する場面や卒業式の日の梓に向けて演奏する場面など必ずしもさわ子が近くにいない場合もありますが、さわ子はバンドとは監督者の関係にあるとは言えると思います。

過去の記事でも触れましたが、日常系では人物同士の関係が維持されたまま時間が流れていきます。だからこそ「音楽性の対立ごっこ」がユーモアになりうるのです。逆に言えば関係の変化は作中の人物にとって一大事になります。『映画けいおん!』では中盤に、唯が留年してしまう夢を梓が見る場面があるのですが、そのなかで梓は唯をどう呼ぶべきか悩みます(「唯」と呼び捨てするのがしっくりこないのです)。先輩・後輩の関係が同級生の関係へと変質してしまうことは、彼女たちにとってはなおのこと困惑すべき事態となってくるのです。

もちろん、三年生四人が卒業によって桜高軽音部という場から離れ、放課後ティータイムのなかの関係が大きく変わることでこの物語が閉じられることは無関係ではありません。日常系にとってある関係の終焉は物語の終焉であり、いちど関係が変化してしまったらまた新しい別の物語を始めるほかないのです。

 

 

◆前回記事はこちら↓

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(奈)

細部の連関、写真と目覚めという契機――『けいおん!』をめぐって(1)

昨日、ドゥルガとしては初の勉強会を行いまして、いろいろと議論することができました。

扱ったのは『映画けいおん!』(2011)です。

 

映画 けいおん!  (Blu-ray 初回限定版)

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 ご存知の方も多いと思いますが、『けいおん!』(アニメ版一期2009、二期2010)は女子高生五人(唯・澪・律・紬とひとつ後輩の梓)の軽音部での日常を描いた作品で、いわゆる「日常系アニメ」と呼ばれるカテゴリーに入るものです。日常系作品うち多くの割合を占めるのは芳文社の『まんがタイムきらら』系列の雑誌に掲載された漫画が原作のものなのですが、『けいおん!』も『まんがタイムきらら』を中心に連載されていました。

(『まんがタイムきらら』系雑誌の作品にどのようなものがあるかについては以前『きららファンタジア』について紹介した記事(↓)をご参照いただくとよいかもしれません)

 

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次号の冊子で扱うテーマが日常系なので有名作のひとつをと思って選んだのですが、結果として日常系でありながらそこだけに収まらないような要素(クラスメイトや父母との関わりがあって中心人物だけの関係に収束しないこと、日常の「終わり」=卒業による関係の変化まで描き切ったことなど)を含んでおり、勉強会の題材としては好適だったと思います。

映画けいおん!』は、三年生四人が受験を終えて卒業も間近になった頃に卒業旅行として梓を入れた五人でロンドンに行くという出来事と、卒業旅行を挟みながら四人がひとり高校に残ってしまう梓のために楽曲を作っていく経緯が物語の中心となっています(出来上がった曲は卒業式の日に梓に披露されるのですが、その様子は二期のTV放送最終話とこの映画版の終盤で描かれます)。110分ありますが、あらすじにめくるめく展開といったものはやはり存在しません。TVシリーズで描かれていたのと同様に、音楽室兼部室でまったりお茶とケーキを味わい、機会を得て演奏し、最後に卒業を迎えるだけです。しかし細部において京都アニメーションおよび脚本の精髄がTVシリーズにも増して発揮されており、じゅうぶん完成度の高い作品と言えるものでした。

質の高さのひとつには、映画向きの凝ったカットが(特に序盤で)多用されていたことが挙げられます。例えば三年生四人が渡り廊下で「梓に何かをあげたい」と会話する場面であったり、あるいはそれに続く平沢家の食卓の場面で、唯の妹の憂が食事を用意しているテーブルがさまざまな角度で映され、そのカット同士が憂と唯の視線がつながることによって連続するところ(何というか言葉でお伝えしにくいので映像をご参照いただければ幸いです。冒頭から12分のあたりです)などに、平均的なTVアニメでは見られないようなコンテの技術があったように思われます。脚本も、ヘンゼルとグレーテルのように飴を落としておく場面、ドライヤーを変圧器なしでプラグに差してショートする場面、はさみにいたずらが仕掛けられていることに気づく場面など、一見他愛ない光景が間隔をおいて反復されており、物語全体がばらばらの断片にならずにうまく接続し合うようにできている印象を受けました。同じ吉田玲子さん脚本の作品では、例えば『劇場版ガールズ&パンツァー』などでもその丁寧な伏線の張り方に驚いた記憶があります。

映画のなかの場面同士の連関だけでなく、これまでのTVシリーズの場面との連関もかなり意識したつくりになっていました。それにより、TVシリーズを見てから映画版を見ると彼女たちの文脈というものを強く感じさせられます。二期の卒業式回との対照を抜きにしてもこれは挙げればきりがないのですが、いちばん強く意識されているのは、冒頭、写真のカットから始まり目覚まし時計が鳴って唯が起きるという一連の流れではないかと思います。一期および二期の冒頭でもほとんど同じように物語が始まっており、このパターンはほとんど物語の契機とも呼べるものです。

ただし、写真に写る光景や人物は、それぞれの場合で異なっています。写真に写る人物によってそれまでの人物関係および時間の流れが視聴者にすぐ了解されるという効果をこの冒頭は持ってもいます。卒業式回以後の話数(二期#25-27、TV未放送話)でも写真は多用されるのですが、それもやはりこれから語られる物語が時間軸のどの位置にあるのかを示しつつ視聴者にその時空間へ向かわせる方法として使われています。

けいおん!』の作品を通底する時間の問題や人物関係の問題が、この冒頭場面にもすでに象徴的に表れているといえます。それについて、次回以降の記事では詳しく書いていきたいと思います。

 

◆これからしばらく連載のような形で『けいおん!』について更新していきたいと思います。今週土曜日(8/5)には完結する予定です。お付き合いいただければ幸いです。

 

(奈)

「最強」の条件――『グラップラー刃牙シリーズ』について

 「最強の格闘技」とは何か、と問われて一体何を思い浮かべるでしょうか。恐らく各々様々な競技を思い浮かべるのでしょうし、格闘技を実際にやっているとなれば、いささかの自負と共に、自分やっている競技がそうだ、と答えるのかも知れません。

 しかし、あらゆるスポーツ化された格闘技は、エンターテイメントとしての性質上、身体に過大な影響が及ばないように(要するに死なないように)、様々なルールが課されています。ルールは各格闘技によって様々であり、勝利の基準からして異なるのですから、どの格闘技が「最強」であるのか、という絶対的な判断は、本来不可能なはずです。ですから、ボクシングの世界チャンピオンが、相撲で横綱に勝てるかどうかは甚だ疑わしいですし、その逆もまたそうです。つまり、各競技において与えられる「世界最強」の称号は、あくまでもその競技における括弧付きの最強であり、絶対的な基準としては不十分です。

 しかし、そのようなルールの制約を取り払い、己がそれぞれの競技で培ってきたものを、ルールが存在しない場で――古代ギリシアの「パンクラチオン」のように――発揮しあったら、誰が一番強いのだろうか、という疑問は当然生まれて然るべきものであると言えます。

 しかし、各格闘技は、その制約の内部で発達してきたものですから、各格闘技にはルール上の弱点がある、と言えます。例えば、ボクシングはルール上、攻撃範囲を上半身のみに限られていて、投げ技は禁止されています。さらに拳に装着したグローブによってものを掴むことも出来ません。従って下半身を狙う攻撃や、投げ技に対しては無防備であると言えます。さらに柔道や合気道などの投げ技中心の競技では、打撃による痛みに対する耐性が、打撃系の格闘技よりも少ないことが、ルール無用の戦いにおいては弱点となりそうです。

 そうなると、元々ルールなどの決まりごとが少ない格闘技が強いということに気づくのはそう難しいことではないでしょう。実際、『グラップラー刃牙』における「地上最強の男」として登場する範馬勇次郎は何か特別な流派に属しているというわけではありませんし、主人公の範馬刃牙も同様です。

 格闘技マンガであるのに、あらゆる名を持つ格闘技が二人の下におかれてしまうという奇妙な事態が『グラップラー刃牙』においては起きています。最強なのは「無名の」格闘技なのです。

 

 というのも、二人が目指すのは、その競技内におけるチャンピオンではなく、「地上最強の男」であるからなのは明らかでしょう。この「地上最強」という表現もミソで、これがもし「世界最強」と表されるならば、その対象は、人間に限られるでしょうが、前述の表現だと、この地球上のあらゆるものの中で「最強」である(を目指す)というテーゼを示すことになります。だからこそ、勇次郎はホッキョクグマを殺しもしますし、刃牙はゴキブリやカマキリやトリケラトプス(!?)をも自身の格闘スタイルの中へ取り入れ、ゴキブリに対しては土下座さえします。地上最強を目指すならば、確かに花山薫の言う通り、格闘技に頼ることは「女々しい」ことであるのかも知れません。強くなるには、ルールを減らすこと、つまり自身の格闘スタイルを制限し、規定するものから解放されなくてはならないということが、至上命題となることがわかります。相手に対峙した時、自身を規定する格闘スタイルをもってしてではなく、常に変化し、成長するようなスタイル、そのためにもはや彼らの固有名においてしか名付けることができないようなスタイルでもって戦うこと、それこそが「最強」の条件となります。

 そのため、物語において特権的な立場を与えられている二人の格闘士(グラップラー)名付出来ない「無名格闘技であり、格闘技ルール否定スタイルすででいであろうような、格闘技におい無限内包ち、外延ような、存在作品内制圧め、二人最強という排他的述語性」において必然であると言えます。つまり、お互いは格闘技において、あらゆるスタイルを内包に含んでいる存在(含むであろう存在)として、特権的であるため、刃牙は、「範馬勇次郎」という神の如き内包=∞、外延=1の武神を倒さぬ限り、「地上最強」にはなれないのです。しかし、刃牙は元々「地上最強」に興味はなく、「父を倒す」ことにのみ、専心してきたのですが、この場合、「父を倒す」ということは、単なる「父殺し」としてオイディプス構造に還元できるような単純な問題ではありません。問題は、範馬勇次郎を「概念上」倒すことは出来ないということにあります。

 

 概念上倒すことは出来ないとはどういうことか。それは既に範馬勇次郎は地上最強の男と定義されている作品内では一国の軍事力にも等しいと言われています)ために、彼を倒すには、彼以上の存在でなければなりません。しかし、すでに最強である(格闘技において内包が無限である)範馬勇次郎を上回るには、最強「以上」である必要がありますが、「最強」はそれより上位概念がないという意味においてのみ使用出来るものです。しかし、「最強」として定義された存在は、自分と同等の力を持つ存在が他のものとして現れた時に「最強」ということが出来ないばかりか、自分より最強であることが「最強」という言葉の定義上不可能であるために、最強の存在はその同等のものに負けもしなければ勝つこともできない、つまりどちらも「最強」であるがゆえにどちらも「最強」ではないという決定不可能性に陥ることとなります。そのため、『範馬刃牙』における「地上最大の親子喧嘩」において、最終的に刃牙が「範馬勇次郎拳」として範馬勇次郎を模倣した時、すでに「地上最強」は二重化され、親子喧嘩の決着は「共倒れ」か、「和解」である他ありません。しかし、勇次郎は最終的に刃牙に対して「地上最強」を名乗ることを認めさせます。それは最強「である」という「定義」によって最強となるのではなく、最強「になる」という刃牙のこれまでの不断の運動性に敗北したのであり、静的な「である」ものとしての「最強」を、最強「になる」という意味に読み替えることによって、刃牙は父を乗り越えるのです。

そのため『刃牙道』以降、刃牙は最強「である」のではなく、常に最強「になる」運動性を保持し続けるという意味において「最強」と名乗ることができるでしょう。思えば、あまりにも有名な作者の板垣恵介のコメント「本部が強くて何が悪い」は、物語の構造上、「かませキャラ」として読まれていた「本部以蔵」でさえも強く「なる」ことが、すなわち自身の質的なものを変化させることができる生成の力を有していることを示すと同時に、板垣は、説話的構造によって回収されないような潜在的な力をキャラクターが持っていることに気づいていたのかも知れません。

 

(錠)

日常系のなかの人間関係

前回の担当者が書いた記事の追補あるいは応答としていろいろ書いてみたいと思います。(前回記事はこちら↓)

durga1907.hatenablog.com

 

お仕事アニメと呼ばれる作品はたくさんあります。日常系との関連で言えば、たとえば現在2期が放送中の『NEW GAME!』はゲーム制作会社の日常を描いた作品ですね。

newgame-anime.com

WORKING!!』はファミレスのアルバイト同士の物語でしたが、こちらは専門性の高い業務を社員として人物達が行う様子が描かれており、主人公の青葉は会社や先輩社員に憧れをもって入社し、また青葉や若手社員がそれぞれの得意とする分野の業務の技術を磨いていくことでその代替不可能性を維持しています。芸術的なニュアンスを含むものの場合、物語中でそれぞれのキャラクターに固有性を付与するのはおそらく難しくはないでしょう。当然これは部活ものの『けいおん!』などでもあてはまることです。放課後ティータイムのメンバーは替えはきかない(少なくとも作中人物たちにとってそれがまずありえない選択肢であることを視聴者も自ずから了解する)でしょう。

もっとも、彼女たちにおいて、というよりほとんどの女性キャラクターしか登場しない日常系作品の人物たちにおいては、友情が主要登場人物相互に代替不可能性を担保しているということがほとんど前提としてあるので、いま述べた能力による固有性は補足的なものと言ってよいかもしれません。その友情が崩壊しないことが日常系の平和な所以であり、物語性の薄い要因である(人物の人間関係が決定的な変化を起こさないゆえに物語の変化に乏しい)といえるでしょう。『WORKING!!』のように男女のキャラクターがいる作品においては、友情に加え恋愛要素が盛り込まれ、ラブコメ的様相を帯びることも多くあります。

ところで、女性キャラだけの空間が友情に満ちているのにそこに恋愛要素を投入し、人間関係の間の網目を濃く煮詰め、しかしその関係がまったく変化しないという、こう書くと日常系のひとつの極点とも思えてしまうような作品が『ゆるゆり』です。

yuruyuri.com

(上のリンクからキャラクターの相関図を確認できます)

友情と恋愛、あるいはどちらともいえないような好意、またはクラスメイトといった環境による関係がほとんどの人物同士の間にあることによって、どのキャラ同士で場面を構成しても面白く会話を作ることに成功していると思います(これはたくさんエピソードを作ろうとするときには大きな強みです)。ただし、恋愛関係において主要キャラとの関係がないことで人間関係の網目の比較的薄いところに立っている赤座あかりは、たとえば歳納京子のような強烈な個性をもっていないことも相まって頻繁に空気になります。主人公なのに……。

ほかの日常系作品でも、いわゆる百合要素のある作品はたくさんあります。『桜Trick』(来月で原作が終わってしまうらしいですね)はいちばん過激な例だとは思いますが、もっと微妙な感情まで拡張すると、『きんいろモザイク』の綾から陽子への「特別な感情」(公式がこのような言い方をしたことがあります)、あるいは『ご注文はうさぎですか?』のシャロからリゼへの、『Aチャンネル』のトオルからるんへの感情なども含まれてくるかもしれません。恋愛かどうかということはともかく、あるキャラが誰か特定のキャラに対して強い感情を抱くということは日常系の中の関係でときどき起こります。そのとき重要なのが、感情を向けられている相手は必ずしも感情を向ける側「だけ」を見ているわけではなく(つまり片思い的)、したがって往々にして感情を向ける側が自分の代替可能性への不安にさらされることになるということです。その宙づり状態が変化するわけでもなく継続することによって(不安とその解消という狭い振幅をもった変化がくりかえされることによって)、展開がなくても物語の流れが成立している、というのが恋愛(あるいは百合)要素のからんだ日常系のひとつの本質ではないでしょうか。

ただし、あくまでその関係には変化・進展がない(前回担当者の言う「関係を進めない関係」)ので、成就や破局までを描きその間の関係の変化・進展を楽しむ恋愛ものとは一線を画します。そこが、日常系作品に百合要素があっても真に恋愛的な意味での百合は存在しにくい所以だと思われます。百合に関してはサークル員にもっと詳しい者がいるのでいつか記事を書いてくれるかもしれません。

もうひとつ、もとの論点に立ち返って付け加えるならば、人物の代替可能性に対する危機が展開のない物語の推進力になっている作品もある一方、それは必ずしも絶対に必要な条件ではないようにも思われます。代替可能性が人物の心情に変化を及ぼすことで物語の起伏ができあがる一方、四季の変化、学年や年齢の変化、ある目標までの進捗状況の変化といった外的な変化によっても物語の起伏は作られうるからです。

 

ここまでだいぶ書いたんですが、まだもうちょっと述べたいことがあるので(内容は別の話です)、次回の担当回に書くか定期更新以外の機会に投下するかしたいと思います。

 

(補足)

片思い状態が解消せずに継続するのがかなり凝った構図で展開されている作品として『この美術部には問題がある!』があげられますが、こちらの作品はデータ無料配布中の『ドゥルガ』一号にて当サークル員が論考を執筆しましたので、よろしければご覧になってください。以上の話と関連する箇所もあるかもしれません。

ux.getuploader.com

 

(奈)