web版アニメ批評ドゥルガ

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アニメに纏わる記事を書いています。毎月第四水曜日に更新。担当者が異なります。

11月23日文学フリマ東京出店のお知らせ

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明日の11月23日の文学フリマ東京にて、ドゥルガは第二号となる冊子を頒布します。価格は恐らく二百円。場所は『二人称・彷徨・東京』という冊子を頒布予定のサークルPABULUMと同じB‐49です。詳しい情報は明日の朝、Twitterでお知らせいたします。
今回は「魔法少女と日常系」という特集で、三本の記事が収録されています。若干魔法少女度は少なめです……。

各記事を読み返してみると、全く異なる作品をそれぞれの方法で論じているにも関わらず、私たちの関心が「時間」という問題に向けられていることに気づきました。勿論、アニメーションは視覚芸術であると同時に時間芸術としての側面も持ち合わせているのですから、このことは至極当たり前のことであるのかも知れませんし、「日常」という語が、ある種の滞留としての時間性を私たちに想起させたのかも知れません。しかし、「時間」という問題は一元的なものではなく、虚構内における時間や画面の上で流れている継起的な瞬間の集積としての時間が考えられるように、複数の次元において考察されるべきものでしょう。私たちの記事をそのような時間論として読むこともできるのかな、と思いました。それ以外にも様々な視点を取って作品が論じられているので、是非とも各記事を読み比べてみて欲しいと思います。もし購入された方がいらっしゃれば、ご感想を頂ければ幸いです。

それでは、明日ブースにてお待ちしております!

(錠)

ある演出的到達点としての映画『聲の形』

先日、『心が叫びたがってるんだ。』に引き続いて映画『聲の形』の勉強会を行いました。

 

koenokatachi-movie.com

 

作中には花や植物がちりばめられています。しかもかなりの種類にのぼり、それぞれアップで映されたりするのです。名前を確認できたものだけでも(花についてそこまで詳しくないので漏れがありますが)、桜/つつじ/シクラメンマリーゴールドシュウメイギク/銀杏/ススキ/コスモス/川の水草カタバミシロツメクサ青いバラのリース/ヒマワリ/ヒメジオンシロツメクサペチュニアサフィニア?)、等々。キク科植物が多い印象です。花言葉の分析を行うと面白いかもしれませんが、ともあれこれだけの種類の植物を精細に描きわけたのは、これまで京都アニメーションが積み重ねてきた写実主義に対する追求のひとつの到達点であるかもしれません(これまでの記事で『涼宮ハルヒの憂鬱』『けいおん!』『響け!ユーフォニアム』について書いたものがありますのでよろしければ参照ください)。

アップで花を画面に収めるには必ず接写する必要があります。つまり対象に近接しなければなりません。そこで問題になるのは遠近法です。『聲の形』においては、カメラを強く意識させるようなピントの切り替え(『聲の形』のなかには写真が登場するので内容面とも無縁とはいえません)やある人物の視点からのカットが多用されることによって遠近感のある空間的な画面がつくり出されました。冒頭と終盤で反復される飛び降りと花火の連関が映えるのも遠近法がそなわっているゆえのことです。それは写実主義的であると同時に、柄谷行人が『日本近代文学の起源』でいうような近代的な場の創出(風景の発見)であり*1、あるいはその遠近法のみで物語を進行させうる、奇蹟が起こらなくても日常的な空間のみでひとつの物語が作られうることを示しています。このことはメタSFとしての『涼宮ハルヒの憂鬱』から、徹底して日常を描写しつづける『けいおん!』を経て現実主義的展開を前面に打ち出した『響け!ユーフォニアム』に至る京都アニメーションの遍歴を考えるうえで重要なものです。

あるいは山田尚子監督に特徴的な演出を考えるうえでも『聲の形』は重要な通過点になったともいえます。それはすなわち手足の描写です。聴覚障がいを扱った作品ということで手話が必然的に描かれることになり、手や腕の精確な描写の技術がいかんなく発揮されているのですが、むしろここで重要なのは足のほうにあります。『けいおん!』などにおいても重要な場面で首から下、あるいは足(脚)が感情を表現してきたわけですが、『聲の形』においてはそれに内容的な必然性が生まれます。主人公・石田将也は自分がヒロイン・西宮硝子をいじめ、因果応報的に同級生からいじめられたことによって、屈折した自意識を抱えてしまい「下ばかり見て歩く」ようになります。画面のカットが石田将也の視点を映すとき、そこには必然的に足が映されるわけです。つまりここで足を映すという表現手法と内容的な要請が一致したことになります。

もっとも、『聲の形』の内容面のみを抽出してとらえたときには賛否が分かれるだろうと思います。物語的にいえば、登場人物たちは誰かを特権的な中心にすることで連帯を維持しているわけですが、その中心たりうる性質とはすなわちマイノリティー性だからです。いじめによるクラスカーストの頂点にいる者、底部にいる者がここでは多数派から逸脱した者になり、頂点にいた者が都落ち的転落を果たすというきわめて原始的な物語の欲望の因果によってすべてが始まります。その具体的な背景にあるものはもはや言及するまでもありません。要は西宮硝子以外にも耳の聞こえない人物が登場したならばこの物語がどのように変質したかを考えるべきなのではないか、という意見が勉強会の中でも出されました。しかし、いじめの問題や身体障がいの問題に真っ向から向き合った作品があらわれたこと自体は歓迎すべきなのかもしれません。難しいところです。

アニメにおけるマイノリティー性については田中ロミオ『AURA~魔竜院光牙最後の闘い~』について考察した記事がありますので、よろしければご参照ください。

 

durga1907.hatenablog.com

 

ともあれ、映像的にとても質が高く声の演技もすばらしい作品だったと思います。青と緑を基調とした映像のなかで無条件に淡い空の色と協賛のみずほ銀行のブルーがよく映えます。今後の京都アニメーションあるいは山田監督の作品でこれまで積み上げてきた演出技法がどのように発展・変質をとげるのか楽しみです。『リズと青い鳥』が公開されたらまた記事を書くことになるでしょう。

 

(奈)

*1:ごく簡単にいえば柄谷は、日本近代小説における内面・自我が、小説において遠近法的な風景が描写され、その風景を見る主体が風景と対置されることによってはじめて見出される、と述べています。詳しくは文フリ販売冊子『ドゥルガ2号』でサークル員が執筆した『ひだまりスケッチ』『魔法少女まどか✩マギカ』の論考をご覧いただければ幸いです(上述した柄谷の理論及びそれの上述二作品への応用という形です)。また、日本アニメーションが日本近代文学の文脈を汲んだものであるかぎり、ドゥルガの論考において柄谷行人は引かれつづけるのかもしれません。

玉子と王子・声と文字の『心が叫びたがってるんだ。』

心が叫びたがってるんだ。』のネタバレ注意!

 

先日、三回目の勉強会を行いました。

A-1 Pictures制作 超平和バスターズ原作の『心が叫びたがってるんだ。』を一緒に見ていきました。

わたしがレジュメをつくったのですが、話すことを念頭においていたので、大幅に改稿して図とともに説明していこうと思います。

www.kokosake.jp

 

 

 

 

 基本的には、お話の分析です。

 

 

物語論的アプローチ

ナラトロジー分析などがある物語論のなかの説話論ですが、たとえばウラジミール・プロップの『昔話の構造分析』や精神分析科医オットー・ランク『英雄神話の誕生』などに代表される一種の構造分析です。彼らは多くの物語に共通される要素を見つけ、一つながりの物語を分節化して、キャラクターやアイテムなどを一定の機能に還元する見方をとりました。日本だと蓮實重彦『小説から遠く離れて』や大塚英志『物語の体操』が有名です。

ここで採用したのはネットでも有名なグレマス行為者モデルです。グレマスはリトアニア生まれのフランス文学研究者で、主著に『意味について』があります。

 

 

意味について (叢書 記号学的実践)

意味について (叢書 記号学的実践)

 

 

小説から遠く離れて

小説から遠く離れて

 

 

 

 

 

ですがここでは最も単純な図式を『心が叫びたがってるんだ。』にいれて考えていこうと思います。

王子様とお姫様を見送る少女

心が叫びたがってるんだ。』は少女・成瀬順が小学生の時分に、山のうえにあるお城(=ラブホテル)から出てくる父親と見知らぬ女性を目撃するところから始まります。

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↑高校生になった成瀬順(出典:アニメ映画『心が叫びたがってるんだ。』

ここで成瀬はこのように妄想します。父親が王子様、不倫相手の女性がお姫様、母親が魔女である、と。昔話のキャラクターの役割に代入しているのです。

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↑グレマスの行為項モデルに当て嵌めた図。

主人公は対象を欲望し、それを援助者や敵対者が手助けあるいは阻止します。主人公の行為によって送り手は対象を受け手に渡します。

つまり

父親が不倫相手を愛していて、母親はその欲望に対する障害です。しかし成瀬の無意識的な告発によって父親はお姫様と一緒になることになります。

ここで重要なのは援助者と敵対者は主人公の受け取り方に応じてどちらにも転化するということです。

成瀬は、父親に「お前のせいじゃないか」と言われてしまいますが、成瀬は物語の構造上においては父親を冒険へと旅立たせる賢者としての役割を果たしているのです。

そしてこの父親と不倫相手の物語から成瀬は締め出されることになります。

以降作中に、父親は現れませんし、上記の行為項モデルは完全に変形されてしまいます。

見送る=賢者=援助者の立場から一転して成瀬順は、主人公の役割を担うことになるのです。

偽装されたマイノリティとしての成瀬

durga1907.hatenablog.com

以前、うえの記事で挙げた偽装されたマイノリティである「中二病」「ドリーム・ソルジャー」を扱った作品『AURA~魔竜院光牙最後の闘い~』を折口信夫貴種流離譚の概念から見ました。

心が叫びたがってるんだ。』の成瀬順も偽装されたマイノリティ性によって主人公たる権利を得ている、と考えらえると思います。

たとえば『ハリー・ポッター』のハリーの額の傷は、悪い魔法使いヴォルデモートが放った死の魔法を母の愛が守ったというエピソードの痕跡・聖痕として機能しています。彼はこの傷によってヴォルデモートとリンクし、主人公として定立されるのです。

しかし、成瀬順は、もともと主人公という立ち位置ではありません。

だからこそ自分が主人公であるために聖痕をつくらなくてはなりません。

その聖痕として、無口属性が選ばれたのです。

疾患化・問題化された無口属性

ここで傍流ではありますが、無口属性について。

無口属性で代表的なのは

エヴァ』の綾波レイ、『涼宮ハルヒ』の長門有希だと思われます。両者とも人気なキャラクターです。そしてどちらも活発なキャラクターがメインヒロインあるいはダブルヒロインになっていることが共通しています。ここから分かる通り、無口属性のキャラクターがメインヒロインになるケースは少ないのです。

もちろん『Darker than Black』の銀や『これはゾンビですか?』のユークリッドなど、メインヒロインになることはありますし、『涼宮ハルヒの消失』では長門有希が一時的にメインヒロインとして扱われます。

しかし無口属性のキャラクターがメインになる場合はいずれもその属性もしくはその原因が問題化されます。それはたとえば疾患のような扱いでです。

長門有希ならヒューマノイドインターフェース、銀ならばドール、ユークリッドなら異常な量の魔力という形で発話することの困難が問題化されます。

成瀬はこの典型のようなもので、発話障害の解消が物語の対象になります。

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成瀬はこのように援助者の立場から主人公になったのです。

不倫をする王子様 変形する行為項モデル

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(↑坂上拓実)

成瀬は歌を手段に発話を取りもどそうとしますが、そこで歌を教える存在として坂上拓実が選ばれます。その過程で成瀬は、坂上を自分の王子だというふうに、ふたたび昔話の役割に代入し、それをミュージカル上の配役と一致させます。

そこで先ほどあげた行為項モデルは即座に変形します。

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成瀬がお姫様で、王子様が坂上拓実、それを見ているのが仁藤菜月というふうに物語はつくりかえられます。

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(↑仁藤菜月 手前の人です)

坂上と仁藤は中学生のときに付き合っていました。坂上の両親が離婚し、落ち込んでいたときに彼を慰めてあげられなかった仁藤は負い目から関係をうやむやにしてしまいました。しかし依然として好意を持ちつづけていて、野球部の元エースである田崎大樹に告白されても付き合っている人がいると断ります。仁藤と付き合っている坂上を、成瀬は自分の王子様に据えている。このことから上の図は、父親と不倫相手、母親の関係と類似していると言えます。

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(↑田崎大樹)

田崎大樹は野球部のエースでしたが、けがで休部し、担任兼音楽教師の勝手な人選によりこの四人を「地域ふれあい交流会」の実行委員に任命し、クラスで成瀬原作のミュージカルを行うことになります。

ふれあい交流会前日の準備中に、坂上と仁藤が昔付き合っていて今も思いあっていることを立ち聞きしてしまった成瀬は、実は自分が主人公ではなく、敵対者である魔女であるのだと気づいてしまい、山のお城に逃げてしまいました。ふれあい交流会当日、坂上は成瀬を迎えに行きます。

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成瀬の告白を拒絶し、同時に和解。学校へ連れもどし、舞台を成功させ、片づけのさなか田崎大樹は成瀬に告白し、顔を赤らめる成瀬。そして坂上は仁藤に告白しようとするも、中断され、映画は終わります。

声・文字・身体からのアプローチ

ここまで物語の大枠を見てきました。長編アニメーション制作の多くは集団制作で、脚本からつくられることが多く、表現を先に決めることは稀です。

あの今敏も脚本から先につくり、映像に耐えられるまでに練り上げていったそうです。

心が叫びたがってるんだ。』は脚本:岡田麿里の個性(サークル員によれば癖の強い)に監督・絵コンテ:長井龍雪が合わせているという印象がありました。

そこでみてきた物語がどのようにアニメーション表現と関わっているかを考えていこうと思います。

玉子と王子の混同

成瀬の発話障害の原因となったトラウマにあたり、王子と玉子の類似をあげることができます。この類似は以下のように展開できるでしょう。

食べることと話すこと 成瀬の身体と「心」

まず玉子は彼女の口を二重にふさぎます。

母親によって玉子焼きをつっこまれ、玉子の妖精によって口をチャックされます。

口→食物・口→声宮崎駿作品のおおきな主題で、『この世界の片隅に』にも表れていて、現在の日本アニメーションに通底する問題ですが(フランスの現代思想ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは舌、言語、食べ物の系列を指摘しています)『心が叫びたがってるんだ。』においては成瀬のメモ帳の中身や、暗い食卓が町会集金とのコミュニケーションの不可能と重なって描かれることから、同じ問題系を共通していることがわかります。

成瀬が声を発すると腹痛がするのは、まさに声と食物がつながっているからです。そして声は心につながっているのです。

声→食物→心という連鎖です。

たとえば宮崎駿は食べることを重要視し、ある時点から職業声優を起用しなくなります。それがどちらも「人間性」をキャラクターに付与するのを目的としていることは明白です。

もう少し詳しい話と『この世界の片隅に』に関してはドゥルガ一号に書いてます。http://ux.getuploader.com/durga_anime/download/2/

 

 

メールと歌 「心」に変換するツール

そこで音声は文字と対置されます。しかし対置といっても二分法ではなく、二つによって「心」を描いているのですが、

しかし音声とは異なり、文字は画面内の表象、つまり絵です。

成瀬がメモ帳に書くのは買わなくてはいけないものと、レシピ、玉子の絵です。

これは前回のフーコーともつながると思いますが、カリグラフィーをしなくとも文字を絵とみなすことは一般的です。たとえば書道やフォントなど文字そのもののアート作品が挙げられます。

durga1907.hatenablog.com

しかし、そこまで考えなくても、

文字は可視的ですが、音声は不可視的

だと分けることができるでしょう。

そしてまた

身体は可視的心は不可視的

なものであり、

心が叫びたがってるんだ。』ではまさに

文字と声が一致する場もしくは文字が声になる場において心が表現されている

と考えられます。

声が腹痛になったのとは逆に、身体が心に、文字が音声に。

坂上が歌う「玉子の歌」を聞いて自分の考えが読み取られてしまったと勘違いし、屋上に立つ成瀬の「心の中を見られてしまった」というモノローグと暗転の白文字の一致は切実な心内語として機能しています。

そしてこの一致は主に

メールを歌にすることによって成功し、文字→声→心を叫ぶことができるようになるというわけです。

メール→歌・玉子→王子

そしてこの可視的な文字=絵は「王子」と「玉子」を混同させます。玉子が手のひらに示した「、」を隠すと王子になっているように、成瀬は王子を玉子だと錯覚してしまいます。舞台上で玉子の役を務めた田崎大樹が、最終的に成瀬に告白し、王子様になることを示唆して終わるように、玉子の声をした坂上を王子だと錯覚してしまいます。

グレマスの行為項がずれる原因は文字上のずれ、玉子と王子を取り違えることなのです。そのため本当に物語が欲望しているのはこのずれの解消ということになります。

坂上は文字上のずれとともに、音声上のずれも引き受けてしまいます。田崎は坂上のことを坂崎と呼びまちがえ、内山昂輝の声はナレーション、玉子、坂上とずれていってしまいます。DTM研の仲間が彼のことを、殻にこもったというのがそこではむしろ一般的な慣用句ではなく、字義通り玉子・王子の連関という殻にこもっていることを示唆します。

この文字のずれ・音声のずれを引き受けるからこそ彼は成瀬の打ったメールを歌に変換する役割を負うことになるのです。

そして成瀬が舞台に戻ってきてお姫様の声として登場するとき、彼女は心そのものになっていると言えるでしょう。

身体であり文字、音声であり、心です。しかしそれは依然として仁藤菜月と成瀬順の確固とした別の人物であり、歌は二重化するのです。坂上とは反対です。

固有名=キャラクター

坂上は玉子や王子、坂崎など文字や音声の同一性によって自発的なキャラクターではなく、受動的な存在となっています。

彼は基本的に巻き込まれるだけで自発的に行動することはなく、アバターとして扱われます。アバターとは探偵小説やライトノベルに多く見られるワトソンやキョンのような役柄です。

しかし坂上は前述のような他のキャラクターの声や田崎による名前の呼び間違い・音のズレ、成瀬による偽の主人公への措定など様々な別のものとの同一性を与えられキャラクター化されていきます。たとえば玉子がはなす「君」と「黄身」、「王子がおじゃんになる」などの「王子」「玉子」のずれ、キャラクターを指示する言葉の対象がずらされることで。

私たちの共感を担うアバターでありながら

キャラクターデザインされるアバター

と言ってもいいかもしれません。

すこし込み入った話ですが今度の文フリの雑誌に『冴えない彼女の育てかた』を対象にして書きましたのでぜひ。

そのような多様な同一性をもってしまうアバターが、確固とした自己を定立するのに、

成瀬に名前を呼ばれる必要があるのです。

固有名は言語体系上で特異な位置を占めます。柄谷行人の『探求』の一つのテーマです。しかし固有名はここでは、むしろ同じ著者の「内面の発見」につながっていると思われます。

発見された内面 坂上拓実の涙

内面がもとからあるから告白するのではなく、告白しようとするから内面が発見されるという転倒によって近代的自我が生まれると柄谷は言います。

坂上は玉子や王子、坂崎ではなく成瀬順に「坂上拓実、坂上拓実、坂上拓実、坂上拓実」と呼ばれることによって固有の「坂上拓実」になり、玉子の変な臭いは、腋臭という身体的な問題に回収され、彼の瞳からは涙が溢れるのです。そして彼は、自分が本当の気持ちを伝えたかったけれど、それができなくなっていたのだと告白します。しかし、それはむしろこの場において初めて昔話の役割から逃れ、近代的な自我を形成したのだと考えることができると思います 。

探究(1) (講談社学術文庫)

探究(1) (講談社学術文庫)

 

 

***

 

勉強会ではシンメトリーの構図や、電車、自転車、バス、車のCGを確認し、舞台と現実の描写の差異を見ました。

劇とアニメーションの立場から『ひなこのーと』や『クラナド』『結城友奈は勇者である』について話しましたが、『ガラスの仮面』をはじめ劇とアニメーションの主題は面白いと思いました。

また吉浦康裕『アルモニ』の装われたマジョリティとの対比を見たり、と間アニメーション性に触れました。

 

 

わたしがこの映画で最も好きなシーンは、表札が変わった玄関の扉が開いてゴミ袋を持った成瀬がカギを掛けようとして、やめて、髪を撫でながら、見上げると、風景を映すカメラが上昇して、タイトルロゴがインする、初めの場面です。

次に好きなのが、舞台の斜め後ろから見ているアングルで手前に人影がポーズを取っているところから仁藤菜月がスポットライトのなかへ登場するシーンと劇に戻って来た成瀬が歌いながら入場し、ステージに昇って、暗転するシーンです。

 

次回の勉強会は11月12日、『聲の形』です。

 

「心が叫びたがってるんだ。」オリジナルサウンドトラック

「心が叫びたがってるんだ。」オリジナルサウンドトラック

 

 

 

 

 

秋文フリ記事紹介に代えて――ミシェル・フーコー『これはパイプではない』を読む

 黒板に書きつけられた「これはパイプではない(Ceci n’est pas une pipe)」という文はどこに向けられているのだろう。同じく黒板に描かれたパイプに向けたものなのか、あるいは黒板の上方に浮かんでいるようにみえる大きなパイプに向けたものなのだろうか。雄弁に自己の存在を主張している二本のパイプの、その雄弁さをあざ笑うかのような否定文は、我々が無意識のうちに期待している明瞭なイメージの到来を裏切ろうとする。しかし、その「裏切り」は言葉とそれによって指し示される対象との間にある不均衡を意識させ、そのせいで落としどころの見つからない居心地の悪さを感じてしまう。この居心地の悪さの背景には、絵と言葉を分離するような制度、あるいは絵が沈黙のうちに内包する断言=肯定(この絵は○○である)の制度がある。ルネ・マグリットの「これはパイプではない」の画は、このような西洋絵画が隠蔽してきた画像と文のあいだの関係を遊戯的に脅かすのだ、とフーコーは言う。
 その時に引き合いに出されるのは「カリグラム」である。カリグラムはアポリネールが同名の詩集で行ったように、あるテクストの文字をそのテクストが表そうする対象の形態に合わせて配列したものである。もっとわかりやすく、文字によって絵を描いたものと言っても差し支えないだろう。フーコーは「カリグラム」が修辞学的なトートロジーとは別のトートロジーであるという。修辞学に基づくトートロジーは、言語の過剰さのもたらす、「寓意(アレゴリー)」的な価値によって可能になる。*1対してカリグラム的なトートロジーは物の輪郭を保つ「線」としての価値、さらに言葉がひとつならりの連鎖によって展開されることによる記号としての価値によって可能になる。すなわち、「カリグラム」は言語を用いて何かを「言うこと」と、絵によって何かを「表象すること」との対立を遊戯的に抹消する。しかし、カリグラムはそれを読んでしまえば画としての形態を保つことが出来ず、線的な語の連なりへと還元されるし、画のままであれば、それが何であるかを言明することが出来ない。そのためカリグラムにおいては「決して時を同じくして言いかつ表象することは出来ない」のだ。
 そのため、二本のパイプの画は、「これがパイプである」ということを「言う」ことが出来ず、黒板に書かれた文は形態的に何かを「表象」してはしない。「言うこと」と「表象すること」とのあいだにはこのようなせめぎ合いがある。そのため「これはパイプではない」という文の否定は、「パイプの画」とそれを名指すことの出来る「文」とが相補関係にあることに向けられていたのだ。このことは同時に、「文」と「画」が存在することができる「共通の場」の消滅を意味する。
 この「共通の場」は、古典西洋絵画の二つの原理によって担保されてきた、とフーコーは言う。まず、「造形的表象=再現(類似を前提とする)と言語的対象(類似を排除する)との分離を確立する」ことによって、「絵」と「言語」の役割を制度的に分離する。*2 つまり絵画は類似に基づく対象の視覚的(形態的)再現であり、言語は何かを指し示すという機能へと中心化され、言語からは言語がかつて持っていた表意的な要素(類似)を排除される。そのため、絵画はそれが「何か」を明確に指示はしないし、「言語」はそれが何であるかを表象出来ないため、「絵画」と「言語」との間には何らかの従属関係がなくてはならない。しかし、その主従の方向が問題なのではなく、むしろ問題であるのは「「言語的記号」と「視覚的表象=再現」とは決して一挙に与えられることがない」ということである。
 さらに「似ているという事実と、そこに表象=再現のつながりがあるということの肯定=断言とのあいだの等価性を定立する」という原理によって、絵画は、モデルとなる事物と「似ている」という事実がすぐさま事物の「再現」として認知され、「絵画」は沈黙のうちに、「それは○○である」という肯定=断言の言表と等しくなる。このとき、モデルが実在するか否かは問題ではない。「これは○○である」という肯定=断言が、実在しないモデルとの類似関係を創出することも可能である。そのため、類似関係と肯定=断言とは分離することが出来ない。つまり、第一の原理によって言語的要素が入念に排除されたかに見える絵画の中に、「肯定=断言(これは○○である)」という言説が再導入されてしまうのだ。このように、第二の原理に遡行することで明らかになるのは、古典西洋絵画が言説の空間に依拠していたという事実であり、画像と文の相補関係が成立するような同質性を持つ場を前提としていたということである。
 フーコーマグリットの絵画を分析する過程で強調するのは、「絵画」においては、「似ている」ことを保持しつつ、そこから言説としての「肯定=断言」を排除するという方法である。その方法は「似ている」という事実において、「類似」と「相似」を明確に区別する。
 「類似」は一個の母型(パトロン)を持ち、常にコピーは母型からの距離によって序列化されている。類似は、コピーとモデルとの間の距離を測ることによって言葉と物の関係を秩序化するような「思考」と不可分である。一方で「相似」はある物とある物の関係であり、いかなる「モデル」にも従属しない。相似に基づく反復は始まりも終わりもない可逆的に広がる関係であり、そのような関係のもとで描かれた画はコピーではなくシュミラークル(模像)となる。そのため、物と物との相似関係は「同一平面状での連続性、ひとつらなりの移行、一方から他方への連続的な溢出」という運動性として捉えられる。こうして絵画は単に言説に依拠するものから、「お互いが相似の関係であるような場と、類似の様態に基づく思考とが垂直に交わる地点」となる。
 この観点から「これはパイプではない」を再び見てみると、パイプの画はあるモデルに従属するものではなく、描かれた画同士は物と物とが織りなす相似関係の網の目を構成していることがわかる。しかし、この絵画は言説の空間をイロニックに再導入しているように見せかけることで、言説への従属をも模倣する。しかし、「共通の場の不在」の只中において、もはや言語は絵画との相補関係を保ちえない。だが、そこには新たな言語と物との関係が示唆されている。

(錠)

 

ミシェル・フーコー『これはパイプではない』(豊崎光一、清水正訳、哲学書房、一九八六年)

 

 

これはパイプではない

これはパイプではない

 

 

これはパイプではない

これはパイプではない

 

 

*1:例えば隠喩や換喩は一つの「物」についての多様な表現の仕方を可能にするだろうし、そのような幅のある表現が幾つもの「物」に当てはまってしまうこともあり得る。

*2:ここで言われる言語的対象における類似の排除とは、ヒエログリフのような画と言語が未分化であるような状態から、言語がそれを指し示す画と類似してしまわないように形態的な区別をするということであろう。

吹奏楽曲を紹介しながら『響け!ユーフォニアム』について語る

きのうドゥルガのサークル員と一緒に『劇場版 響け!ユーフォニアム~届けたいメロディ~』を観てきました。

 

anime-eupho.com

 

「届けたい」というフレーズはたとえばJポップの歌詞などでよく見られますけれど、『きみの声をとどけたい』などもありましたし、近年流行ってきているのでしょうか。予告編で京都アニメーションの新作映画が告知されていましたが、片方の副題は "Take On Me" (『映画 中二病でも恋がしたい!』)かたや "Take Your Marks" (『特別版 Free!』で、やはり言葉にも流行があるんじゃないかと思いました。もっとも水泳アニメの『Free!』で "Take Your Marks" (スタート直前の「用意」の掛け声)というフレーズが採用されるのは必然ですし何よりtakeという基本動詞でそんなこと言ってもしょうがないのでほとんど冗談のようなものです。

「届けたい」という言葉がえてして含意するものはコミュニケーションの一方向性です。相手がまだ知らないこちらの意思や感情を知らせようと思う過程があってはじめて「届けたい」という考えが生まれます。それは場合によっては自分のことをさりとて特別だとは思っていない相手を振り向かせたいという欲望にも結びつきます。

この劇場版は二期の総集編ですが、特に主人公・黄前久美子ユーフォニアム)とその先輩・田中あすか(同)の関係に焦点を絞って描かれています。ある種「みんなの副部長」であり部全体に対してもかなりの影響力をもっているあすかと、部内ではあくまで一介の新入部員であるのみでただ同じ楽器であるがゆえにあすかと接する機会の多い久美子という非対称的な関係が軸となっていることがよりはっきりするわけです。そうした関係は家族を置いて自分の目的へ向かう久美子の姉と彼女から大きな影響を受けた久美子という関係などとも重なるわけですが、総集編という形で短い尺に収めることの難しさを感じたのは、それを暗示していた二期前半の傘木希美(フルート)と鎧塚みぞれ(オーボエ)の関係、誰とでも仲良くする希美と彼女のことを一心に考えて楽器を吹き続けるみぞれの関係にまつわる物語がどうしてもカットされざるをえない(あるいは別枠でやられざるをえない)ということでした。

吹奏楽部のなかの人間関係は濃淡のつきかたが運動部などよりはっきりする印象があります。同期であること以上に同じパートであれば当然関係は濃くなります(とにかく接点が増えるので仲良くなるということだけでなく嫌いになることまで含みます)し、隣接したパート(たとえば木管楽器どうし)ではその次に濃く、逆に関係の薄いパートどうしだと関係が薄くなったりします。しかし関係の薄いひととも同じ曲を同じ場で演奏するので決して無関係でいることはできません。結局、学年・役職(部長・副部長とか)だけでなくパートの配置が関係しながら、部内のひとりひとりのあいだに濃淡の違った無数の関係の線が引かれることになります。したがって、ひとりの人間から複数の線がのびている以上、吹奏楽部の人間関係のどこを切り取ったとしても、非対称でないつりあった関係はほとんど見られないことになりますし、芋づる式に関係の糸がどこまでも続いていくことになります。そう考えていくと、吹奏楽部を描くにあたってある二人の関係に絞るというのはわりあい難しいことのようにも感じられるのです。

 

さて。

もと吹奏楽部員にとって『響け』を感情的に見ないのはきわめて難しいものです。吹奏楽部とひとくちに言っても、どれぐらいの規模か、強いのか、共学なのか、顧問はどれくらい練習にくるのか、外部指導員はどうなのか……ということで雰囲気がかなり変わると思うのですが、このシリーズは多くの吹奏楽部経験者の体験(あるいはトラウマ)を見事に抉っていると思います。私も二期の前半でかなり抉られました(オーボエだったこともそうなんですが、似たような体験もありまして、ね……)。こういうことってよくあるんだなあと思いましたし、ああ物語になっちゃうんだなあと思いました。

というわけでここからは批評から遠ざかって趣味に振り切り、吹奏楽の有名曲を紹介しながら思いついたことを雑記的に書いていこうと思います。もはやこのブログの趣旨を見失いそうですが許してください。ぜんぶ聴くと長くて大変ですから気になった曲ひとつだけでもいいのでぜひ。文章もやたら情報量が多いので読み飛ばしてください。あくまで私は強豪でもない学校で三年だけやった身なのでにわかっぽかったりときどき間違っているかもしれません。

 

・天国の島/佐藤博昭


2011年度吹奏楽コンクール課題曲Ⅱ 天国の島

毎年コンクールのために課題曲が近年は5曲(だいたいマーチ=行進曲が2曲とそれ以外が3曲)発表され、一番編成の大きなA組(上限55人)のコンクールに出場する場合(全国を目指すならA組になります)はその中から一曲選んで演奏することになります。劇中では(おそらく『響け』一期の放送時期に合わせて)2015年度の課題曲『マーチ「プロヴァンスの風」』が演奏されていました。

この「天国の島」は2011年度の課題曲で、日テレの番組『ザ!鉄腕!DASH!!』のコーナー「DASH島」のBGMとしても使われています。課題曲ですべての楽器が活躍するというのは実際難しいなか(オーボエファゴットの譜面には"option"=いなくてもOKとか書いてあったりします)、この曲ではほとんどどの楽器にも見せ場があり、各楽器の役割や音色がわかるという意味でもおすすめしたい曲です。

ほかの課題曲では、たとえば1977年度の「ディスコ・キッド」がいまなお根強い人気があります。

 

・宝島/和泉宏隆作曲、真島俊夫編曲


宝島

吹奏楽部にいると、コンクールなどで演奏するクラシックな曲のほかに、定演(定期演奏会)・学園祭・その他イベント等でポップス曲を演奏する機会があり、そのとき流行っているJポップの吹奏楽アレンジを振りをつけながら演奏してみたり、ディズニーやジブリのメドレーをちょっとしたお芝居をつけながらやってみたりします。そうしたなかで流行に左右されずに演奏され続けているのが「宝島」です。吹奏楽経験者ならおそらく一回は吹くと思いますし、好きな人もきっと多いはずです。聴いていると楽器を吹くときのあの楽しさをいつも思い出します。

劇中では駅ビルコンサートの場面で使われており、テンポの揺らぎや音のバランス、緊張した指回しが伝わるようなバリトンサックス(小笠原晴香)のソロなどがある写実的な意味でそうしたイベントのクオリティなのですが、この曲が演奏の場や団体によって変わる(まあこの曲に限らずですが)のがこの動画からも分かるかと思います。演奏機会は多い曲だと思いますので中高生のコンサートに何回か行けばおそらく生で聴けると思います。

ポップス曲としては同じくT-SQUARE作曲・真島俊夫編曲の「オーメンズ・オブ・ラブ」や、「吹奏楽ポップスの父」とも呼ばれる岩井直溥編曲の「シング・シング・シング」「コパカバーナ」・高校野球応援でおなじみの「エル・クンバンチェロ」「アフリカン・シンフォニー」などが定番です。

 

・ハーレクイン/フィリップ・スパーク(P.Sparke)


Harlequin of Philip sparke by Bastien Baumet and the Taichung philharmonic Wind Ensemble

ユーフォニアムの魅力をもっと知りたいあなたに。優雅なメロディーの前半部と軽妙な超絶技巧の後半部によってユーフォの長所が存分に発揮されているのがこの「ハーレクイン」です。ユーフォのソロ奏者と吹奏楽団が共演する形になっています。ほれぼれしますね。

劇中で久美子はとても「ユーフォっぽい」とあすかに言われますが、どういう意味で受け取ろうかとずっと考えていました。物語にひきつけて考えるなら、中音域という吹奏楽において中間的な位置(中心というのとはまた違います)に立ち、低音楽器としての役回りもメロディや対旋律も幅広くこなすところが、部内であくまで中心には立たずに各パートで起こるいろいろなことに関わる(ほぼ傍観しているだけかもしれませんが)久美子の立ち回りと近いのかもしれない、と余計なことを考えました。余談ですが楽器の名前はユーフォニアムユーフォニウムもどちらも使われています。

ところでユーフォニアムトロンボーンのマウスピースって同じなんですよね。ユーフォニアムの子の姉がトロンボーンをやっていたというのはとても親族って感じがしますね。

「ハーレクイン」の作曲者フィリップ・スパークは、「オリエント急行」「宇宙の音楽」「ドラゴンの年」などで有名な、吹奏楽界で屈指の人気を誇るイギリスの作曲家です。ユーフォニアムのための作品としては「パントマイム」なども知られています。スパークはいいぞ。

 

・フェスティヴァル・ヴァリエーション/クロード・トーマス・スミス(C.T.Smith)


【吹奏楽】 フェスティヴァル・ヴァリエーション

コンクール自由曲の定番、と呼ばれるような曲はそれこそ無数にあり、年によって流行りがあったりもして一曲だけ挙げるのは難しいです。というわけでコンクールでの演奏頻度はとりあえず措き、コンクールで演奏されることも多い曲、として独断でこの「フェスティヴァル・ヴァリエーション」を選びました。華やかで聞いていて楽しい曲なのですが難易度は尋常でなく、特に冒頭は「ホルン殺し」として知られています。

劇中のコンクール自由曲「三日月の舞」はこのアニメのために作られたのではなく既成の曲なんじゃないかと思うくらいに何か「吹奏楽っぽい」です。確かに急・緩・急の三部構成の曲は吹奏楽では多いのですが、それにしてもすごく研究されて作られていると感じます。なぜか「アルヴァマー序曲」を思い出しました。

原作小説ではコンクールの自由曲はナイジェル・ヘスの「イーストコーストの風景」という曲で、確かにコンクールで演奏されている印象があります。私がコンクールでやったのはヴァーツラフ・ネリベルの「二つの交響的断章」という曲でした。ネリベルなんかだと完全に現代音楽という感じですがコンクールではそうした色調のものも好まれます。あとは二期の劇中で使われたボロディンダッタン人の踊り」をはじめ、ラヴェル「ダフニスとクロエ」、レスピーギ「ローマの祭」といった管弦楽の曲の吹奏楽編曲版もよく聴かれます。

 

吹奏楽の曲はたくさんYouTubeにあがっているのでよければ挙げた曲を検索してみたり関連動画からいろいろご覧になったりしてみてください。元オーボエ吹きとしてはほかに紹介したいような曲もあるのですがそれは(今回の記事が怒られなかったら)来年四月に公開される『響け』シリーズの新作『リズと青い鳥』のときにしましょう。フルートの希美とオーボエのみぞれの関係が描かれるということでまた何か抉られて精神が崩れない自信がないのですが、二人の関係だけじゃなくて「ダッタン人の踊り」でオーボエソロとからむ木管楽器、とりわけイングリッシュホルンオーボエ属の楽器)の子との関係が見られるんじゃないかと期待しているのはたぶん私だけなんでしょう。

それでは!

 

(奈)

『ラブライブ!サンシャイン!!』第二期、第一話を見て

 

 

ラブライブ!サンシャイン!!』の二期が放送開始となり、早速第一話を見ました。前作と同様に、もはや不可避となったかにみえる母校の統廃合という事態に対して、Aqoursによるスクールアイドル活動を通じて、どうにか「奇蹟」を起こそうと奮闘する物語が始まったのだということを改めて感じました。第一期では、彼女たちがスクールアイドルを始める契機であり、彼女たちの目標としてあったμ’sに近づきたいと思いながらも、彼女達自身が「輝く」ために、あえてμ’sとの差異を受け入れるという物語を経ています。そのせいもあってか、二期の一話においてμ’sの影は見当たりません。彼女たちは既にして彼女達自身の物語の時間を生きています。
サンシャイン!!の第一期を見た時、μ’sの物語を見ていた時とは明らかに違う何かを感じていましたが、第二期の一話においてはこの「何か」がごっそり欠落しているように私は思います。この「何か」を正確に言い表すことは出来ないのでしょうが、そのことを考えるヒントとして、先程挙げたμ’sAqoursの間にある「模倣」の関係に注目してみましょう。
ラブライブ!』と『ラブライブ!サンシャイン!!』は共に中心となるメンバーが「スクールアイドル」と出会うということが、物語の契機となっています。しかし、同じような説話論的構造のように見えて、両者には隔たりがあります。それは「模倣」を志向するか否かです。前者においては高坂穂乃果が「A-RISE」というスクールアイドルと出会うことによって物語が始まりますが、このときに彼女が出会うのは「スクールアイドル」という制度であり、ここでは「スクールアイドル」という言葉は物語上いかなるコンテクストも持たず、A-RISEという特権化されたスクールアイドルが、その語の使用に対して絶対的な権威を保持しているという構図が示されるのみです。このとき、「スクールアイドル」という制度はまだ母校を救う手段として適切であるかはわかりません。そのため、物語の冒頭においては模倣の対象であったA-RISEは、メンバーが揃うとすぐさま母校を救う手段としての「スクールアイドル」という物語を書き込んでいくために、倒すべき敵対者(ライバル)へと変化します。その結果、ラブライブでA-RISEを倒したμ’sは劇場版において、「スクールアイドル」の象徴的存在となった後解散し、μ’sの物語は神話化されます。
ラブライブ!サンシャイン!!』はこのような「スクールアイドル」が廃校になりかけた母校を救うための手段として示された物語の上に成り立っています。そのため、高海千歌μ’sを初めて見る場面の意味は、高坂穂乃果がA-RISEを見た場面と説話論的機能は同じであっても、その効果は異なると言えます。サンシャイン!!においては既に「スクールアイドル」という言葉は、μ’sという強度の強い物語のコンテクストの中にあります。そのため、Aqoursは、μ’sが辿った道を模倣することによって、「スクールアイドル」のコンテクストに巻き込まれていこうとするのです。
しかし、強烈な「スクールアイドル」のイデア的存在であるμ’sに近づこうとすればするほど、Aqoursμ’sの差異は際立っていきます。このとき、Aqoursは「スクールアイドル」のイデアとしてのμ’sから、「スクールアイドル」としての正当性を無言の内に無底化しようと彼女たちに迫ります。つまり、何が真の「スクールアイドル」なのか、自分たちは悪しきコピーに過ぎないのではないかという問いが、μ’sとの距離において顕在化するのです。このようなプラトン的な問答法(弁証法)に対して、Aqoursはモデル‐コピーの関係から自らの固有性を発見することによってそこから逸脱し、「スクールアイドル」の同一性を堅持するイデアとしてのμ’sの絶対性を揺るがせにするような「スクールアイドル」のシュミラークルとなることによって、自らの「スクールアイドル」としての正当性を担保するのです。恐らく私が感じていた「何か」はこのμ’sとの距離にあるのではないかと思っています。一期の冒頭において示されたように、彼女たちもまた、視聴者と同じようにμ’sが築き上げた物語を認知し、そのコンテクストの元で共に生きているという感覚を与えることが出来るような「近さ」がある種の「リアリティ」を彼女たちにもたらしていたのではないでしょうか。
しかし、μ’sからの逸脱が果たされたはずの第二期の一話においては、μ’sの影が消え、彼女たちの「スクールアイドル」としての物語を生き始めたという点において、彼女たちは我々からは遠ざかりはじめています。その意味において、彼女たちはμ’sと再び接近しつつあると言えるでしょう。しかし、「奇蹟」の物語は既にしてμ’sによって語られている以上、再びその物語を語り直すのであれば、単に何度も消費可能な「奇蹟」のシュミラークルとなってしまう可能性を否定することは出来ません。そのため、彼女達がどのようにして一回きりの物語を強く生きてゆくのかについてを今後楽しみに見ていきたいと思います。

(錠)

 

ラブライブ!サンシャイン!!TVアニメオフィシャルBOOK
 

 

眼球=視線の導き――長井龍雪『とらドラ!』第一OP

よく言われる事、キャラクターにとってよく口にされることは、このようなものです。

こんな人間いる訳ない。身体は小さくてやたらと頭は大きいし、長すぎる足は栄養失調みたいに細いし、髪の色がピンク、青、緑で、それで優等生や地味な性格なんて成り立つわけない。顔だって鼻と口がほとんどないし、呼吸もできやしないだろう。などなど。

それに「可愛いキャラクター」は「目一杯可愛く」しないといけないのか、仕草まで目一杯可愛くして「被写体からの制約がなくて緊張感がない」「あれは映画に似て映画にあらざるも」のではないか、とは俳優兼映画監督・伊丹十三の『うる星やつら』(押井守監督)の評価です。(『映画狂人、語る』p177)三四年前と現在でキャラクターデザインは大きく変化していますが、おおよそ上のことは違う言葉で、あるいはまったく同じ言葉で反復されてきた紋切型な批判で、目一杯に「」が大きいという解剖学的にはまっとうな批判がその最たるものだというのは周知の事実でしょう。

しかし問題は「眼球の大きさ、その移動がどんな空間を生み出して(捏造して)いるか、ということであって、ヒトとの身体的構造の差異ではありません。伊丹の言葉を借りればアニメは実写映画ではないのだから、そんなことに態々説明責任を持ってあげる必要はないでしょう。

前回の記事から引き続きOP・ED特集ですが、前回の記事にも名前が挙がった長井龍雪監督『とらドラ!』の第一OP「プレパレード」を対象にします。コンテは同監督です。

さっそく見ていきましょう。

以下画像の出典もとはJ.C.STAFFとらドラ!』です。

とらドラ! Blu-ray BOX

とらドラ! Scene1 (通常版) [DVD]

まず初めにピンク色の円が白い背景に広がります。それと同時に橙色ついで空色ついで黄土色ついで肉桂色ついでピンク色ついで橙色の円が広がり、最後に空色の円が広がる前にソックスを履きかけの足がそこに降ろされると円は茶色のシーツの掛かったベッドにすり替わって背景になります。

 

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カメラは弧を描きながら上昇し金髪の少女がソックスを履く姿と彼女の起きたばかりで不機嫌そうな眼球を収めます。しかしこの時、彼女の視線はカメラを捉えているのではなく、斜め手前を睥睨するのですが、その視線を反映したかのようなアングルで先ほど彼女を撮っていたカメラの動きに連動するかのように弧を描いて上昇し、青い髪の少年の後姿を映します。彼は野菜炒めを作っているのかフライパンを振り上げる動きに合わせてソーセージやニラのようなものを油とともに浮かび上がらせます。そして少年もまた視線をこちらに向けますが、今度は不意打ちのように彼の目にクローズアップしていきます。画面には点描のトーンが貼られてクローズアップが最大限にまでなされると点は円になって、タイトルロゴの「と」と白く書かれたピンクの円形が少年の目から現れてきます。

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するとその隣を先ほどの金髪の少女が横向きに左へ歩いていきます。その後は順々に「ら」「ド」「ラ」「!」と同じような円形がそれぞれ橙色、空色、黄土色、肉桂色をして右に連なるように出てきて、それに応じて先ほどの青い髪の少年、ピンクの髪色の少女、緑色の髪をした少年、青い髪の少女が行進のように並んで左方向へ歩いていきます。そこをクローズアップし、再び色とりどりの円形が白い画面に広がると金髪の少女のちらかった部屋が映されます。

もちろんここで現れた円の色は主要キャラクターを象徴するもので、この映像のあとに五人の紹介のように名前が現れるところで単色になるのですが、そこで活かされています。

そして円形、点描、眼球という類似の系列で駆動する映像はカメラ目線では停止を、視線を逸らす場合は移動を導きます。たとえばキャラクター紹介で金髪の少女は背後から撮られ、左方向を向いています。青い髪の少年は階段を降りながら、前髪を左に引っ張り、視線は右向きです。その後にピンク色の髪の少女と一緒に少女は右から左へ、緑の髪の少年と一緒に少年は左から右へと移動します。二人が重なり合うところで少年は左を、少女は右を見ます。場面が変わり、右に少しカメラが移動してピンク色の髪の少女が視線をカメラに合わせます。すると固定の俯瞰カメラで緑色の髪の少年がこちらを見上げてカメラ目線で笑顔を向けます。場面が変わり、見上げる動作に呼応するようにカメラが上昇して座り込んでいる青い髪の少女を映します。彼女もカメラ目線で、しかもクローズアップされます。アップされるとお得意の背景のない画面です。まず四人が並びます。緑髪の少年の横に顔を赤らめながら見上げている金髪の少女、スペースを空けて、青い髪の少年が驚いた顔をしながら見下ろすピンク髪の少女。先ほど二人が重なったときの視線をここで同じ画面に取り込んでいます。

同様にクローズアップされた弁当を食べる金髪の少女が慌てた様子でカメラから左へと視線を逸らすと、場面が変わり、住宅街を奥へと走って、カメラが横につき、右から左へと走り抜いた少女がピンク髪の少女へと飛びつくといった視線を左に逸らすと人物が左へと移動するという運動の連関は自然でありながらとても活き活きとしています。さらにクローズアップされたネイルに息を吹きかける青い髪の少女の顔が映ると視線をカメラに向け、しかしそれは先程クローズアップされたときとは異なり(まず視線に軽蔑のような気怠さがあるのですが)空間がその視線によって作られたかのように、カメラが引いて、青い髪の少年が外を歩くのをカフェのガラス越しに見ている青い髪の少女を映します。

そして弧を描く三幅対という一番の見せ場に入る前に五人を俯瞰からクロースしていき、アップしおわると五人全員で視線をカメラに向けます。三幅対で視線を合わせないのとは対照的です。ソフトボールのユニフォームを着たピンク髪の少女が打席でバットを構えるのを横から捉え、煽るカメラにチアリーダーの衣装の少女が青い髪に手を当てて撫で上げ、金髪の少女が今まで下ろしていた木刀を持ち上げ肩に載せます。この三幅対はドラムのリズムとも相まってかなりスリリングです。そして今まで交錯していた視線=眼球が一挙に画面を支配して金髪の少女の目がやっとカメラを捉えると、

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背景のない白い画面に少年と少女は背中合わせに、互いに視線を向けあうようにしながら、その視線のためにカメラは回って、再び五人になるとタイトルロゴが現れて、本編です。

とらドラ!』のOPが眼球=視線によって駆動されていることは此処まで見てきた通りです。

眼球の類似=点描 視線の移動=運動空間をそれぞれ導いています。

ではどうして『とらドラ!』の第一OPが眼球=視線を重視するかといえば、それは主人公である「高須竜二」が目つきが悪いせいでクラスで誤解されているという設定だから、と言えば足ることでしょう。目が口よりもものを言う、目が表情を、心象を示してしまうのですから。同じようにこの作品では多くのキャラクターの本音と建前が交錯しています。ジュブナイルものの定番でもある他者と「向かい合う」という主題を反映しているともいえるのではないでしょうか。

もちろん解釈など無用ですが、一つの細部が複数に分岐してそれぞれ別々の細部を呼び込んできてつくられた映像は音楽と相俟って見ていてとても気持ちの良いものです。ぜひOPは二話からですが、鑑賞推奨です。