web版アニメ批評ドゥルガ

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アニメに纏わる記事を書いています。定期更新は毎週水曜日。毎週担当者が異なります。

「最強」の条件――『グラップラー刃牙シリーズ』について

 「最強の格闘技」とは何か、と問われて一体何を思い浮かべるでしょうか。恐らく各々様々な競技を思い浮かべるのでしょうし、格闘技を実際にやっているとなれば、いささかの自負と共に、自分やっている競技がそうだ、と答えるのかも知れません。

 しかし、あらゆるスポーツ化された格闘技は、エンターテイメントとしての性質上、身体に過大な影響が及ばないように(要するに死なないように)、様々なルールが課されています。ルールは各格闘技によって様々であり、勝利の基準からして異なるのですから、どの格闘技が「最強」であるのか、という絶対的な判断は、本来不可能なはずです。ですから、ボクシングの世界チャンピオンが、相撲で横綱に勝てるかどうかは甚だ疑わしいですし、その逆もまたそうです。つまり、各競技において与えられる「世界最強」の称号は、あくまでもその競技における括弧付きの最強であり、絶対的な基準としては不十分です。

 しかし、そのようなルールの制約を取り払い、己がそれぞれの競技で培ってきたものを、ルールが存在しない場で――古代ギリシアの「パンクラチオン」のように――発揮しあったら、誰が一番強いのだろうか、という疑問は当然生まれて然るべきものであると言えます。

 しかし、各格闘技は、その制約の内部で発達してきたものですから、各格闘技にはルール上の弱点がある、と言えます。例えば、ボクシングはルール上、攻撃範囲を上半身のみに限られていて、投げ技は禁止されています。さらに拳に装着したグローブによってものを掴むことも出来ません。従って下半身を狙う攻撃や、投げ技に対しては無防備であると言えます。さらに柔道や合気道などの投げ技中心の競技では、打撃による痛みに対する耐性が、打撃系の格闘技よりも少ないことが、ルール無用の戦いにおいては弱点となりそうです。

 そうなると、元々ルールなどの決まりごとが少ない格闘技が強いということに気づくのはそう難しいことではないでしょう。実際、『グラップラー刃牙』における「地上最強の男」として登場する範馬勇次郎は何か特別な流派に属しているというわけではありませんし、主人公の範馬刃牙も同様です。

 格闘技マンガであるのに、あらゆる名を持つ格闘技が二人の下におかれてしまうという奇妙な事態が『グラップラー刃牙』においては起きています。最強なのは「無名の」格闘技なのです。

 

 というのも、二人が目指すのは、その競技内におけるチャンピオンではなく、「地上最強の男」であるからなのは明らかでしょう。この「地上最強」という表現もミソで、これがもし「世界最強」と表されるならば、その対象は、人間に限られるでしょうが、前述の表現だと、この地球上のあらゆるものの中で「最強」である(を目指す)というテーゼを示すことになります。だからこそ、勇次郎はホッキョクグマを殺しもしますし、刃牙はゴキブリやカマキリやトリケラトプス(!?)をも自身の格闘スタイルの中へ取り入れ、ゴキブリに対しては土下座さえします。地上最強を目指すならば、確かに花山薫の言う通り、格闘技に頼ることは「女々しい」ことであるのかも知れません。強くなるには、ルールを減らすこと、つまり自身の格闘スタイルを制限し、規定するものから解放されなくてはならないということが、至上命題となることがわかります。相手に対峙した時、自身を規定する格闘スタイルをもってしてではなく、常に変化し、成長するようなスタイル、そのためにもはや彼らの固有名においてしか名付けることができないようなスタイルでもって戦うこと、それこそが「最強」の条件となります。

 そのため、物語において特権的な立場を与えられている二人の格闘士(グラップラー)名付出来ない「無名格闘技であり、格闘技ルール否定スタイルすででいであろうような、格闘技におい無限内包ち、外延ような、存在作品内制圧め、二人最強という排他的述語性」において必然であると言えます。つまり、お互いは格闘技において、あらゆるスタイルを内包に含んでいる存在(含むであろう存在)として、特権的であるため、刃牙は、「範馬勇次郎」という神の如き内包=∞、外延=1の武神を倒さぬ限り、「地上最強」にはなれないのです。しかし、刃牙は元々「地上最強」に興味はなく、「父を倒す」ことにのみ、専心してきたのですが、この場合、「父を倒す」ということは、単なる「父殺し」としてオイディプス構造に還元できるような単純な問題ではありません。問題は、範馬勇次郎を「概念上」倒すことは出来ないということにあります。

 

 概念上倒すことは出来ないとはどういうことか。それは既に範馬勇次郎は地上最強の男と定義されている作品内では一国の軍事力にも等しいと言われています)ために、彼を倒すには、彼以上の存在でなければなりません。しかし、すでに最強である(格闘技において内包が無限である)範馬勇次郎を上回るには、最強「以上」である必要がありますが、「最強」はそれより上位概念がないという意味においてのみ使用出来るものです。しかし、「最強」として定義された存在は、自分と同等の力を持つ存在が他のものとして現れた時に「最強」ということが出来ないばかりか、自分より最強であることが「最強」という言葉の定義上不可能であるために、最強の存在はその同等のものに負けもしなければ勝つこともできない、つまりどちらも「最強」であるがゆえにどちらも「最強」ではないという決定不可能性に陥ることとなります。そのため、『範馬刃牙』における「地上最大の親子喧嘩」において、最終的に刃牙が「範馬勇次郎拳」として範馬勇次郎を模倣した時、すでに「地上最強」は二重化され、親子喧嘩の決着は「共倒れ」か、「和解」である他ありません。しかし、勇次郎は最終的に刃牙に対して「地上最強」を名乗ることを認めさせます。それは最強「である」という「定義」によって最強となるのではなく、最強「になる」という刃牙のこれまでの不断の運動性に敗北したのであり、静的な「である」ものとしての「最強」を、最強「になる」という意味に読み替えることによって、刃牙は父を乗り越えるのです。

そのため『刃牙道』以降、刃牙は最強「である」のではなく、常に最強「になる」運動性を保持し続けるという意味において「最強」と名乗ることができるでしょう。思えば、あまりにも有名な作者の板垣恵介のコメント「本部が強くて何が悪い」は、物語の構造上、「かませキャラ」として読まれていた「本部以蔵」でさえも強く「なる」ことが、すなわち自身の質的なものを変化させることができる生成の力を有していることを示すと同時に、板垣は、説話的構造によって回収されないような潜在的な力をキャラクターが持っていることに気づいていたのかも知れません。

 

(錠)