web版アニメ批評ドゥルガ

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アニメに纏わる記事を書いています。毎月第四水曜日に更新。担当者が異なります。

逆の物語としての「解散ごっこ」――『けいおん!』をめぐって(2)

映画けいおん!』をめぐる議論のなかで(それはもちろんTVシリーズにも波及しますが)、重要だと思われることがらの一つとして「模倣」が挙げられました。

冒頭、前回言及した唯が目覚める場面のあと、シーンは三年生四人が音楽室で(彼女たちらしくもなく)メタルの曲を演奏しているところへ切り替わります。そこへ梓が入ってくると、四人はいがみあいをしています。梓が不審に思って尋ねると、どうやら四人は音楽性の違いで対立しているようでした。しかし実はメタルの音楽はカセットテープから流していたもので彼女たちはそれに当てふりをしていたのであり、いがみあいも結局「ごっこ」だったのでした。

ここにはいくつかの模倣を見て取ることができます。一つは「バンドが音楽性の違いによって対立・解散することの模倣」であり、また一つは「メタル音楽の当てふり=模倣」です。

前者はバンドのイメージの模倣として描かれます。イメージの模倣という意味では、「何か先輩らしいことをしよう」という考え方や、劇中歌「ごはんはおかず」の歌詞の前提が「お好み焼きとごはんを一緒に食べる関西人」のイメージに依拠しているところも関係があるかと思います。あるいは、バンドの解散の模倣はそのイメージを産みだした物語の模倣でもあります。「ごっこ」というのはある虚構の物語のなかに自己を組み込むことであり、すなわち虚構を借りて自己を物語化することだと言えます。理論立てるのが難しくそもそも何かに肩入れしすぎているかもしれないのですが、人物が他の物語に言及することでメタレベルがやや上がるといいますか、いわゆる普通の物語よりも人物が「こちら側」(視聴者側)にいるような印象を受けます。適当な例が出てきませんが、他の日常系作品でも時おりこうしたことが散見されるような気がします。

メタという意味で言えば、彼女たちは作中である種の「メタ聖地巡礼」をしているといえます。彼女たちが行き先をロンドンにした理由のひとつはUKロックの聖地巡礼でした。こうしたことは『けいおん!』が純粋な虚構よりも現実に近いように見えるのに一役買っているようにも思われます。京都アニメーションのある種の現実主義ともうまくかみ合っています。

けいおん!』に関してはまた、人間としての在り方から逸脱していないキャラクターは人間の模倣という要素が強いと言えます。そもそもアニメーションや絵という媒体はある対象の模倣です。あるいは前回記事で触れたようなキャラクターを写した写真についても、その初期が鏡としての役割をもっていることや、人間の鏡としてのキャラクターという考え方を鑑みれば、ある種鏡の前に立つ人間の模倣とも呼べるものです。

後者については、実は作中人物の模倣になっています。上述のシーンで使われたメタルの曲は、部の顧問である山中さわ子がかつて唯たちと同じ高校の軽音部に所属していたときに演奏していたものだからです。物語後半でもかつてさわ子がやったのと同様に卒業前の登校日にゲリラ的にライブを行う場面がありますが、ここでもやはり軽音部の過去の出来事が模倣されています(作中では軽音部の「伝統」という表現が使われます)。こうした出来事の反復は、「放課後ティータイム(唯たち五人のバンド)の物語」(人物の物語)が主軸である『けいおん!』に、「桜高軽音部の物語」(場の物語)を付与し、時間の流れに深みをもたせる作用も含んでいます。

さわ子と放課後ティータイムの関係は、先生と生徒の関係であるだけでなく、バンドとマネージャーの関係の模倣になってもいます。たとえロンドンという遠いところであっても、放課後ティータイムが演奏する場所にさわ子は居合わせています。回転寿司屋で演奏する場面や卒業式の日の梓に向けて演奏する場面など必ずしもさわ子が近くにいない場合もありますが、さわ子はバンドとは監督者の関係にあるとは言えると思います。

過去の記事でも触れましたが、日常系では人物同士の関係が維持されたまま時間が流れていきます。だからこそ「音楽性の対立ごっこ」がユーモアになりうるのです。逆に言えば関係の変化は作中の人物にとって一大事になります。『映画けいおん!』では中盤に、唯が留年してしまう夢を梓が見る場面があるのですが、そのなかで梓は唯をどう呼ぶべきか悩みます(「唯」と呼び捨てするのがしっくりこないのです)。先輩・後輩の関係が同級生の関係へと変質してしまうことは、彼女たちにとってはなおのこと困惑すべき事態となってくるのです。

もちろん、三年生四人が卒業によって桜高軽音部という場から離れ、放課後ティータイムのなかの関係が大きく変わることでこの物語が閉じられることは無関係ではありません。日常系にとってある関係の終焉は物語の終焉であり、いちど関係が変化してしまったらまた新しい別の物語を始めるほかないのです。

 

 

◆前回記事はこちら↓

durga1907.hatenablog.com

 

(奈)