web版アニメ批評ドゥルガ

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アニメに纏わる記事を書いています。定期更新は毎週水曜日。毎週担当者が異なります。

「明日の入り口」に残されたのは――『けいおん!』をめぐって(5・終)

時間という概念がきわめて重要なプルースト失われた時を求めて』では頻繁に文章の上にあらわれる細部がいくつもあるのですが、そのなかの代表的なものとして「窓」と「光」があります。窓はある隔たりを保ちながら外界を見るためのものであり、またプルーストにおいては人物を窓越しに見ることで物語の展開の契機にもなっているものです。そこから差し込む光が場面を照らしもします。

同じように、というわけではまったくないのですが、実は『けいおん!』のシリーズでも窓と光はかなり意識して書かれているように見受けられます。時間や天候、季節、あるいは場面の情景によって繊細に変化する京都アニメーションの光の描き方は特筆に価しますが、窓を使った演出もきわめて細やかです。音楽室の窓から外をのぞくカットはよく見かけられますが、『映画けいおん!』においては飛行機の楕円形の窓を唯がのぞくといったことで反復され、卒業式の日、梓に曲を披露する前に四人で屋上に集まったとき、唯が指で作る窓を空に向けてのぞくという印象的な場面へつながっていきます。

ほとんど最後のシーンでも窓はかなり隠喩的な意味合いを含んでいると言えます。梓に向けて四人が演奏したあと、画面はすぐに窓の外側からの視点に切り替わります。

 

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(『映画けいおん!』から)

 

このカットでは構図の中心に据えられた柱が画面のなかで大きな幅を占めています。人物の立ち位置に注目すると、梓だけが柱の左にいるのに対し、三年生は全員柱の右にいます。ここでも梓は三年生四人から切り離されているのであり、その分断を画面の上で担っているのが窓でありその柱なのです(ちなみに、これ以降本編では梓は出てこず、三年生四人が歩くシーンで本編が終わります)。さらに言えば、彼女たちはそれを見るこちらの視点とも窓によって分断されているとも言えます。

直線による分断は実は映画のなかで何度か映ります。その役を担っているのは飛行機雲です。『映画けいおん!』では飛行機雲は遠くに小さく描かれるのではなく、画面の上下を縦断し画面(空)を左右に分けるように(別の言い方をすれば、長方形の画面を台形ふたつに分割するように)描かれます。飛行機雲は当然海外旅行という物語の軸と関連をもち、さらに翼というモチーフとつながることによって最後に梓に向けて披露される曲の歌詞に影響してもくるのですが、構図から考えたとき、飛行機雲は何かとの――おそらく、卒業していく四人との――境界線となっているようにも見えてきます。

円的な時間の作用と対照されるように、線は時間の流れのなかに引かれる指標ともなっています。上の画像の窓のカットのあと、歩いていく三年生四人の足を視点は追って行くのですが、彼女たちの足は横断歩道の線を渡り、橋の柵の縦の線をいくつも通り過ぎていきます。やがて彼女たちは、橋の反対側へと歩いていきます。

映画けいおん!』では、前回記事で述べた吉田健一的な「ただ現在が流れていく」ような時間、円周のなかにいるような時間と、そこから抜けて別の反復へと移行するようなリニアな=線的な時間が共存しているように思われます。そこが、特に後者が存在するということが、ただ同じような毎日を反復するだけの日常系作品、あるいは永遠に時間がループしてしまういわゆる「サザエさん時空」の作品と『けいおん!』が一線を画しているところである所以ではないでしょうか。特に『映画けいおん!』ではおそらくシリーズ中で初めて人物が「過去」「未来」に言及する場面があり(唯が「日本から(時差で日本より時間が遅れている)イギリスに向かって送ったメールは過去に向かって送ってることになるの?」というような疑問を思いつく場面があります)、その意味でも基本的に現在が中心になる日常系の枠から一歩進んでいるように思えます。

しかし作中の人物たちは、卒業といった日常の終わりが訪れても今の日常と同じことが続くことを望んでいるかに見えます。それがいちばんはっきりわかるのは二期20話(最後の文化祭の回)ですが、『映画けいおん!』でも唯が「大学行ってもみんなでお茶できるよね?」と言ったり、最後の場面で四人が冗談交じりに来年の梓の卒業旅行でどこに行く?という話をしたり、といったところにそれが垣間見えます。

日常それ自体は彼女たちがある限り続くでしょう。しかし梓と分断され、あるいは観客と分断されて自立した四人の日常が本編で描かれたのと同じままに続くとは思われません。そこで行われるのはまた別の日常であり、別の物語であるはずです。梓という存在を視聴者のアバターにすることに成功した『けいおん!』において、視聴者が四人の新しい物語にふたたび参入するときの方法はかなり大幅に形が変わることが想定されます。それこそ卒業という日常の終わりに取り残された感覚になる視聴者もいるはずであり、それゆえに本編を繰り返し見ることによって何度もまた同じ日常の現在に戻ろうとする人や、いわゆる「ロス」になる人も多いはずです。

もちろんこうした見方は人物相互の関係やキャラクターの実存性に重きを置いている面が大きく(つまりファン心理が多分に入っているとも言えます)、キャラクターの実存性をとりあえず留保する場合や、あるいは桜高軽音部という「場」を主軸として見た場合はかなり見方が変わってくるだろうと思います。しかし日常系が関係(の不変性)に立脚した物語であることを考えると、批評的ではないかもしれませんが一定の説得力を有しているのではないでしょうか。

 

けいおん!』について断片的に長く書いてきました。余計なこともたくさん書いたような気もしますが、ここまでの議論が他の日常系作品や日常系そのものについて考えるときに何か役に立つことを願って、ここでいちど筆をおくことにします。

 

 

《補足》原作の『けいおん!』連載が終了したあと、新しく『けいおん!college』(大学生編)と『けいおん!highschool』(梓高3編)が始まり、双方とも次の文化祭を成功させるまでの様子が描かれました。「あずにゃんお元気ですか?」「唯先輩お元気ですか?」というモノローグがたまに挿入されるほか、梓に関してはかなり先輩達(特に唯)のことを気にかけている節がありますが、新しい人物たちとも新しく関係を作っています。

 

 

◆以上で連載を終わります。ありがとうございました。これからもドゥルガの定期更新は毎週水曜日に行われます。

◆前回までの記事はこちら↓

durga1907.hatenablog.com

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(奈)