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マイノリティとしての中二病とドリーム・ソルジャー 田中ロミオ『AURA~魔竜院光牙最後の闘い〜』

※この記事は田中ロミオ著『AURA~魔竜院光牙最後の闘い〜』のネタバレを含みます。

 

AURA ~魔竜院光牙最後の闘い~ (ガガガ文庫)

 

 

 古今東西、物語にはマイノリティの登場が要請される。神々や、王侯貴族、乞食などが昔話には溢れている。『竹取物語』などに見られるそれらは、折口信夫貴種流離譚として発見し直し、後に大塚英志がジョセフ・キャンベルの理論と共に物語の基本構造に据えている。しかし貴族と貧民という階級が隠蔽されて中流社会となった今では、そこにマイノリティが代入され、多くのドラマや小説、漫画、アニメなどに用いられている。

ライトノベルでいえば『十二国記』の中嶋陽子は日本で女子高生をしていたが実は景国の王で謀略により身を追われ、『とらドラ!』では母親と貧乏な二人暮らしの高校生・高須竜二は、実業家の父親と別居する逢坂大河と関わるのだし、『魔法科高校の劣等生』の司馬達也は実際には貴族階級に属しているが、理由あって不遇な身の上である、と黎明期から比較的最近のヒット作(ブログで以前挙げていたものに限っても)に頻出している。そして異世界転生とはまさにその世界のマイノリティであり、特に貴種流離譚の構造を根強く受け継いでいる。

物語が要請するマイノリティについて自覚的な田中ロミオの『AURA~魔竜院光牙最後の闘い~』(以下『AURA』)はその点で異質であり、諧謔的である。

よくこの作品と『中二病でも恋がしたい!』は合わせて語られるが、この二作品は全く異なり、その差異は前述した物語の構造にいかに自覚的か否かである。

『AURA』には座席表が示されクラスメイトごとに名前がつけられている。そのうちの一人、佐藤一郎が主人公(視点人物)であり、元中二病(この作品ではドリーム・ソルジャーと名付けられている)であり高校入学後、「普通」の高校生としてクラスカーストを気にしながらも、新生活を満喫している。ある日、忘れ物を取りに夜中の学校に忍び込むとリサーチャーと自称する魔女姿の少女と出会う。翌日、クラスメイトたちが見ている前で、佐藤は魔女姿のまま登校した彼女と女児アニメの変身道具の音に失神し、設定がすべて妄想で、同時に彼女が同じクラスメイトで不登校佐藤良子であることを知る。それ以降、佐藤一郎はドリーム・ソルジャーたちに囲まれる生活をするのだが、ここでいうマイノリティがドリーム・ソルジャーであるということは説明するまでもないだろう。

しかし『中二病でも恋がしたい!』の場合、このマイノリティ性はより高いものになる。それは佐藤良子の役割を果たす小鳥遊六花の能力が行方不明の父から受け継いだものであるという設定に起因する。つまり小鳥遊六花の場合は彼女自身が本当にマイノリティであり、中二病はそこに介在している付属物=属性に過ぎない。結果、それはキャラ化され、物語の問題として語られなくなる。だからこそサークルという「場」を作り、日常化する。

それに反して佐藤良子は本来的にマイノリティではない。ドリーム・ソルジャーとはいわば自身の虚構化であり、マイノリティ化である。そもそも中二病などに見られる「症状」の一つ一つは新しい病気ではなく、成長過程に表れる行動類型の一種に過ぎない。そこでドリーム・ソルジャーと中二病に差異が生まれる。

ドリーム・ソルジャーは自分の妄想に従属し、戦う=いじめられたり、奇異の目にさらされ、中二病は現実に対しての反抗から妄想する。つまりドリーム・ソルジャーには起源がなく、妄想する・設定を更新することが戦う起源になり、だから決して特権的なものではない。

『AURA』のラストはドリーム・ソルジャーが特権的ではなく、またマイノリティでもないといった諧謔的なラストで終わる。そして佐藤良子は「普通」を志向するようになる。それはロマン的な物語に対して田中ロミオがいかにシニカルかを示唆している、とも言えるだろうし、同時にその特権的ではない凡庸さにおいても人は死を選択しかねない、という虚構化されたマイノリティの薄皮を剥いでみせてもいるのだろう。