web版アニメ批評ドゥルガ

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アニメに纏わる記事を書いています。定期更新は毎週水曜日。毎週担当者が異なります。

主題論的な、あまりに主題論的な『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』

f:id:durga1907:20170823013604j:plain(引用元:https://www.fashion-press.net/news/27685

公式サイト:www.uchiagehanabi.jp

原作:岩井俊二 総監督:新房昭之 監督、絵コンテ、キーレイアウト、美術設定:武内宣之 制作会社:シャフト

 

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』(以下『打ち上げ花火』)には円と四角、回転、投擲と打撃といった細部が反復されて呼応するように物語が進みます。


円は球形といってもいいかもしれません。冒頭の花火や風鈴のあとで自転車や風車が現れ、その次になずながキーアイテムの水晶玉のようなものを拾います。校舎は半円形で階段も奇妙な螺旋階段です。もちろんシャフトのアニメに特有の建物構造ではありますが、たとえば『化物語』一話の螺旋階段とは異なり、こちらではその円状の系列が時計の文字盤と関わり、ループを予期させます。
球形は立体を意味しています。しかし四角の系列、黒板やプールサイドの板、手紙などの平面は半円形の校舎の窓や螺旋階段の踏み面など円形を支える役割もしていますし、反対に円形が連なったコースロープによってプールは幾つもの四角形に仕切られます。それはトンボの目がなずなの像を無数の四角に分けているカットからも自覚的に行われている細部の連関であり、これらの反復によって花火が平面であるか立体であるかという問いを物語上に誘致することになります。
物語を進める細部として「もしも」を叶える水晶玉は掲示板の花火の広告にぶつかることで、つまり立体と平面がぶつかり合うところで効果を発揮するのではないでしょうか。二度目は平面化してしまった花火、三度目は海面に投げています。*1
この立体と平面の関係はアニメーション上の手描きとCGの問題に移行します。それは「もしも」電車に乗ることができていたならと願ったあとの、電車を追う母親のシーンと電車のなかで松田聖子をなずなが歌うシーンです。前者が手描きで後者がCGです。とうとつに歌うなずなの場面にも意図があるんですね。しかし結局、この二つの対比はそのあとで出現しなくなります。それは立体であっても平面であってもなずなにとってはどうでもよく、典道と一緒にいられればいいという灯台での発言に収束するのかもしれません。この時の花火は鳥の羽根を模したものでなずなの登場シーンに飛んでいた白い鳥が関係しているのでしょう。*2
典道が球を「投げる」ことで「もしも」の世界に移行しますが、その一方で大人たちは「打つ」仕草をしています。たとえば典道の母は柱を打ち、光石先生は職員室でエア素振りをして、祐介の父は診察室でパターマットを使ってゴルフの練習をし、なずなの母親の再婚相手は典道を殴ります。そして花火は花火師によって打ち上げられます。これは典道の「もしも」という妄想的な願望とは反対に現実的な決定(お祭でのフリーマーケット、恋人関係の発表、破傷風の否定、再婚と引っ越し)に関連するものであって、能動的な行動です。しかし典道の「もしも」は自分のためではなく飽くまで、なずなのためであり常に受動的です。それはまさに打ち上げ花火を、下から見るにしても横から見るにしても、ただ見ることしかできないという受動性と同じです。それは手描きであれCGであれ、アニメならば見ることしかできないという受動性に似ています。
そこにはキャラクターと観客の結節点があり、最後の花火を見るシーンで再びなずなとともに別れ、厳然と存在するキャラクターと観客の距離を取り戻します。*3
立体と平面、投擲と打撃を扱った極めて主題論的な作品であり、新海誠の作品を想起した人も多いと思います。新海誠は作品を横断して線路や雨を用いて線と円の主題を描く作家という側面を持ち合わせています。『秒速5センチメートル』では遮断機と線路と雲といった二人を妨げる線、『言の葉の庭』では環状線と雨の二人を繋ぐ円環の線、そしてその二つが合わさった『君の名は。』など。しかしそれらの主題は『君の名は。』の回想シーンまでは叙法を変化するまでに至ってはいませんでしたが、『打ち上げ花火』では極めて多様な描かれ方がされていました。『君の名は。』のように見るのはつまらないという意見をよく目にしますが、むしろこの作品ほどシャフトのなかで『君の名は。』に近い作品はないと思います。
ただ反復される細部の単調さを考えると、もう少し短めでも成り立ったかもしれないと思いました。
前述の主題の反復は整除だてられていていますし、音響設備の良い映画館ならば音楽や演技はとてもいいので、広瀬すずの拒絶する演技の洗練されていない感じとか、三木眞一郎の演じる義父特有のいやらしさとか、中学生男子っぽい馬鹿らしさとか、音楽の荘重さとか、物語を抜きに楽しめます。それにしても看護師が斎藤千和だとは気づかなかったなあ。

*1 平面が回転することで立体を作り出すというのはアニメーション自身に対する言及であり、そこには時間性が必須です。

*2 立体が現実で平面が虚構という象徴解釈は退けましょう。なぜなら四角=平面の系列である手紙は現実を宣告するものであり、反対に円=球形=立体の系列である水晶玉は「もしも」の虚構世界をつくるものです。この二つを同時に持っている冒頭の海を眺めるなずなを参照すれば平面と立体は対置されるものというよりは配置されるものであると言えます。それはセルルックアニメという現実においてCGと手描きが配置されているのと同じです。

*3 アバター(視点人物)化されたことによってラストに典道がいなくなるとも言えるでしょうし、内容的にはこの受動性は中学生という設定が条件の一つで、たとえば高校生である『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』では花火を打ち上げる側に回り、むしろ学校に来ます。キャラクターにとって固有名を呼ばれる際に応答するかどうか、たとえば先週の記事で取り上げた『あしたのジョー』のラストではリングの上で「矢吹ジョー」ではなくその亡霊としてチャンピオンから怖れられます。俺は誰と戦っているのだろうか。『心が叫びたがってるんだ。』においても名前を呼ばれることは重要な意味を持っていますし、だからこそ教師=大人の点呼に応答しないことにもキャラクター的な問題は潜んでいると思います。

(鰺)