web版アニメ批評ドゥルガ

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アニメに纏わる記事を書いています。定期更新は毎週水曜日。毎週担当者が異なります。

何故「ファンタジーなんて描けない」のか――認識と一貫性に関する一考察

「高度に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない」というアーサー・C・クラークの有名な文言がある。本人がどのような文脈でこれを述べたかは知らないが、この言葉からは発展に従って人類の手から離れてゆこうとする科学技術に対する戸惑いのようなものを感じずにはいられない。
このとき、科学技術に対置される「魔法」という言葉は、与えられた結果に対して、その原因を説明できない場合に用いられるものであろう。そう考えてみると、今から百年前の人々が今この現在に飛ばされてきたら、それこそ町中が「魔法」で満ちているに違いない。
しかし、今の我々が享受する様々な科学技術を、我々が「魔法」ではなく「科学技術」であると認識するのは、その技術のひとつひとつが理論的に説明可能であること、すなわち原因‐結果のプロセスによって認識することが可能であり、且つそうであると信じることによる。我々はあらゆる事象が科学的に説明可能だと信じる限りにおいて、ある技術を科学技術だと認識するのである。だから、必ずしもある科学技術の仕組みを完璧に説明できる必要はない。ごく簡単な物理法則の幾つかを知っており、世界はそのごく簡単な法則を基盤として説明可能なものであると信じていれさえすれば、人は簡単にある技術を「科学」と思いこむ。そのため、ありもしない間違った結果を捏造し、それを既存の物理化学の法則のプロセスによって説明することで正当化するような「似非科学」が人々の間で簡単に信じられてしまう。つまり、科学も一種の宗教たりうる存在である。宗教が、この世界や生の起源や根拠を与えるように、科学もまた、それぞれの対象を語ることによってその「原因」を明らかにすることによって、様々な事象に根拠を与える。宗教と科学において異なるのは、「原因」を明らかにするプロセスにおける客観性と厳密性である。宗教における「奇蹟」は自由に再現出来ないが、科学に依れば、ある法則はいくらでも同じ結果を再現することが出来るという点において、科学に信を置くという人々が今の社会においては主流である。
しかし、発達するにつれて専門分化した科学は、素人からみると原因‐結果の関係が非常に複雑化したために、容易にそれを掴むことはできなくなった。そのため、原因‐結果の関係が条理を逸しているのか否かの判別がつかないために、先程のような文言が生まれたのだろう。


 さて、前置きがいささか長くなってしまったが、これをフィクションに置き換えるとどうであろうか。一見、フィクションにおいては何事も可能であるように思われるし、実際のところそうである。創作においては科学法則などに囚われる必要性はない。それこそ「魔法」をいくら描いても構わないわけだ。
 しかし、手塚治虫は『ファンタジーなんか描けません』という文章の中で、タイトル通り、「ファンタジー」を日常性や論理性から逸脱した「狂気の産物」であるとした上で、それを描くことの難しさを述べている。

 優れたファンタジー描写が描けるか描けないかということは、その人がどれくらい日常性や論理性を無視できるかのちからによります。どんなに筆力や描写力に富んだ書き手でも、常識人ならばファンタジーの質は乏しく、ごく型どおりのものしか思いつかないでしょう。ことに作家という卓越したインテリジェンスを必要とする職業では、日常的、論理的なドラマトゥルギーに縛られています。(中略)そうなると、ぼくたちがふだんファンタジーと呼んでいる作品は、そのほとんどが擬似ファンタジーで、その実は、きわめて常識性の強い合理的なものが多いというわけになりますが、同様に、映像の分野でも、描写される対象が一見幻想的な空想に満ちた画面にみえても、その基盤が日常的な視野の上にあるものが、いかに多くて、ぼくたちが体験的な規模からいかに逃れられないかということがわかって来て、自分ながらがっかりしてしまいます。 *1

 ここで語られるのは、作品を構築するための想像力と、様々な事象の認識の方法との不可分な関係性である。この引用の後に述べられる、「宇宙人」の描き方が人型になってしまったり、昆虫や猿にどことなく似たような姿形で描いてしまったりする*2 のは、我々が自らの視野の内で、生物をそのように認識する限りにおいてなのであり、一見自由奔放であるようにみえる空想も、人間の認識によって容易に縛られたものになってしまうことを手塚は指摘する。このことは、我々が如何に因果律という認識方法に囚われているかをよく示す好例であるように思う。
そのため、手塚にとってのまんがの面白さはこのような因果律によって導かれるようなものではない。「あのしたたかなウソ、ホラ、デタラメ、支離滅裂、荒唐無稽さに出会ったときの楽しさったら、ないのである」*3 つまり、手塚は因果律がある程度狂ったような「おかしさ」をまんがに求めていた。
しかし、一方で、手塚が求めるそのような「おかしさ」は、手塚自身が読み手の側に立ち、自分の作品を読むということになると、事態が一変する。

 書き終わって見返したとき、今度は読み手としての常識論が頭をもたげてきて、不条理性や即興性のおもしろさが、やたら鼻についてくるのです。そして、そういう部分をどんどん削除し、修正していくうちに、構成や描写は一般化して、誰が見ても一応納得するものにはなりますが、奔放さはなくなってしまいます。 *4

 確かに、手塚の作品をいくつか思い返してみると、空を飛んだり、不老不死になったりすることがあったとしても、それがどうして可能になるのかということは物語の筋を論理的に追うことできちんと説明可能であり、実際登場人物が、そのような事象の説明の役回りを担うこともある。作品の中心には歴史や神話、科学技術が置かれ、全く荒唐無稽な作品は描いていないように思う。つまり、手塚の作品内で、現実世界において明らかに存在できないようなキャラクターが存在することができるのは、我々が科学を信じるような認識の方法と同じような方法でそのキャラクターを認識するからであり、そのように我々を認識させるためには、説話論的構造や、細部の描写を厳密に構築することが求められる。つまり手塚が言うような「リアリティ」とは、自然主義的なリアリズムのことでは当然なく、ほぼ論理性と等置することが出来る。つまり作品が、論理的〔因果的〕一貫性において妥当するか否かが、「読み手」のレヴェルにおいて求められるのだ。そのため、ここにおいては、「高度に発達した魔法は科学技術と区別がつかない」というように言われるべきであろう。
そして手塚は「本物のファンタジー作品があるとして、それを受け手に理解させることはすごくむつかしいと思うのです。また論理的に解釈されるべきものでものでもないと思うのです」*5 と言い、大人の論理性と子供の不条理性を二分法的に対立させようとする。だが、手塚が称揚しようとする子供の不条理性は、あくまでも大人の論理性を前提としたものに過ぎず、手塚自身が説明していたはずの、子供の落書きに見られる一貫性 の側面*6が取捨されている。それに、この文章における「本物のファンタジー作品」なるものが、端的に子供の不条理性によってのみ可能になるのかどうかはいささか疑問であるし、大人と子供という二分法自体が近代的で作為的な対立軸である。それに、一貫性という言葉は必ずしも、論理的な一貫性だけを指すのではないと思われる。
しかしながら、この手塚のファンタジー論はひとつのジャンル論に留まらず、一種のまんが・アニメ批評として示唆に富んでいる。先週取り上げた『打ち上げ花火』や『君の名は。』は、現実世界を想起させるような舞台設定であるが、一種の奇蹟を描いている。
その奇蹟を「リアリティ」のあるものとして視聴者に捉えさせるためには、奇蹟を可能にする根拠が求められるが、それを説話論的構造に依る因果関係に求めることは出来ない。しかもこれらの作品は、想像力を我々の現実世界に限定しているため、手塚のSF作品のように世界をその根拠から構築していくことで、奇蹟を論理的な一貫性をもとに一般化してしまうことは出来ない。そのため、説話論的構造による一貫性だけに頼ると、どうしてもご都合主義的な展開にならざるを得ない。そのため、物語的ではありつつも、そこから逸脱するような展開に正当性を担保するような別の一貫性を作品全体に持たせることによって、作品の「リアリティ」を保証することが出来る。その一貫性を読む方法論のひとつとして、画面に散りばめられたレトリカルな細部の一貫性を作品の構造の根拠としてみるような主題論は可能になるであろう。無論、主題論にこだわらなくとも、精神分析的読解もあり得るし、作品をある思想の反映として読むことも可能ではあるだろうし、それ以外の読みも考えられる。「謎本」や「超読解」などの本を誘発する作品群は、手塚のように、ナレーションや登場人物に世界の根拠を語らせず、隠すことによって、中心がどこにあるのかを人々に語らせるのである。しかし、その中心はたとえ可視的であり、作者によって明示的に示されていたとしても、それが様々な読みを誘引することによってたえず移動をするのである。だが、モーリス・ブランショのいうように、アニメやマンガにおける中心が、書物における「中心への無知と欠如」と同様に語られてよいものであるか否かについては、まだ考察の余地があると言える。

(錠)

 

*1:手塚治虫手塚治虫大全2』(光文社、二〇〇八)二三、二四頁

*2:同書、二五頁参照。

*3:手塚治虫『マンガの描き方 似顔絵から長編まで』(光文社、一九九六)二九頁。

*4:手塚治虫手塚治虫大全2』(光文社、二〇〇八)二六頁。

*5:同書、同頁。

*6:手塚治虫『マンガの描き方 似顔絵から長編まで』(光文社、一九九六)一五、一六、一七頁参照。