web版アニメ批評ドゥルガ

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アニメに纏わる記事を書いています。毎月第四水曜日に更新。担当者が異なります。

秋文フリ記事紹介に代えて――ミシェル・フーコー『これはパイプではない』を読む

 黒板に書きつけられた「これはパイプではない(Ceci n’est pas une pipe)」という文はどこに向けられているのだろう。同じく黒板に描かれたパイプに向けたものなのか、あるいは黒板の上方に浮かんでいるようにみえる大きなパイプに向けたものなのだろうか。雄弁に自己の存在を主張している二本のパイプの、その雄弁さをあざ笑うかのような否定文は、我々が無意識のうちに期待している明瞭なイメージの到来を裏切ろうとする。しかし、その「裏切り」は言葉とそれによって指し示される対象との間にある不均衡を意識させ、そのせいで落としどころの見つからない居心地の悪さを感じてしまう。この居心地の悪さの背景には、絵と言葉を分離するような制度、あるいは絵が沈黙のうちに内包する断言=肯定(この絵は○○である)の制度がある。ルネ・マグリットの「これはパイプではない」の画は、このような西洋絵画が隠蔽してきた画像と文のあいだの関係を遊戯的に脅かすのだ、とフーコーは言う。
 その時に引き合いに出されるのは「カリグラム」である。カリグラムはアポリネールが同名の詩集で行ったように、あるテクストの文字をそのテクストが表そうする対象の形態に合わせて配列したものである。もっとわかりやすく、文字によって絵を描いたものと言っても差し支えないだろう。フーコーは「カリグラム」が修辞学的なトートロジーとは別のトートロジーであるという。修辞学に基づくトートロジーは、言語の過剰さのもたらす、「寓意(アレゴリー)」的な価値によって可能になる。*1対してカリグラム的なトートロジーは物の輪郭を保つ「線」としての価値、さらに言葉がひとつならりの連鎖によって展開されることによる記号としての価値によって可能になる。すなわち、「カリグラム」は言語を用いて何かを「言うこと」と、絵によって何かを「表象すること」との対立を遊戯的に抹消する。しかし、カリグラムはそれを読んでしまえば画としての形態を保つことが出来ず、線的な語の連なりへと還元されるし、画のままであれば、それが何であるかを言明することが出来ない。そのためカリグラムにおいては「決して時を同じくして言いかつ表象することは出来ない」のだ。
 そのため、二本のパイプの画は、「これがパイプである」ということを「言う」ことが出来ず、黒板に書かれた文は形態的に何かを「表象」してはしない。「言うこと」と「表象すること」とのあいだにはこのようなせめぎ合いがある。そのため「これはパイプではない」という文の否定は、「パイプの画」とそれを名指すことの出来る「文」とが相補関係にあることに向けられていたのだ。このことは同時に、「文」と「画」が存在することができる「共通の場」の消滅を意味する。
 この「共通の場」は、古典西洋絵画の二つの原理によって担保されてきた、とフーコーは言う。まず、「造形的表象=再現(類似を前提とする)と言語的対象(類似を排除する)との分離を確立する」ことによって、「絵」と「言語」の役割を制度的に分離する。*2 つまり絵画は類似に基づく対象の視覚的(形態的)再現であり、言語は何かを指し示すという機能へと中心化され、言語からは言語がかつて持っていた表意的な要素(類似)を排除される。そのため、絵画はそれが「何か」を明確に指示はしないし、「言語」はそれが何であるかを表象出来ないため、「絵画」と「言語」との間には何らかの従属関係がなくてはならない。しかし、その主従の方向が問題なのではなく、むしろ問題であるのは「「言語的記号」と「視覚的表象=再現」とは決して一挙に与えられることがない」ということである。
 さらに「似ているという事実と、そこに表象=再現のつながりがあるということの肯定=断言とのあいだの等価性を定立する」という原理によって、絵画は、モデルとなる事物と「似ている」という事実がすぐさま事物の「再現」として認知され、「絵画」は沈黙のうちに、「それは○○である」という肯定=断言の言表と等しくなる。このとき、モデルが実在するか否かは問題ではない。「これは○○である」という肯定=断言が、実在しないモデルとの類似関係を創出することも可能である。そのため、類似関係と肯定=断言とは分離することが出来ない。つまり、第一の原理によって言語的要素が入念に排除されたかに見える絵画の中に、「肯定=断言(これは○○である)」という言説が再導入されてしまうのだ。このように、第二の原理に遡行することで明らかになるのは、古典西洋絵画が言説の空間に依拠していたという事実であり、画像と文の相補関係が成立するような同質性を持つ場を前提としていたということである。
 フーコーマグリットの絵画を分析する過程で強調するのは、「絵画」においては、「似ている」ことを保持しつつ、そこから言説としての「肯定=断言」を排除するという方法である。その方法は「似ている」という事実において、「類似」と「相似」を明確に区別する。
 「類似」は一個の母型(パトロン)を持ち、常にコピーは母型からの距離によって序列化されている。類似は、コピーとモデルとの間の距離を測ることによって言葉と物の関係を秩序化するような「思考」と不可分である。一方で「相似」はある物とある物の関係であり、いかなる「モデル」にも従属しない。相似に基づく反復は始まりも終わりもない可逆的に広がる関係であり、そのような関係のもとで描かれた画はコピーではなくシュミラークル(模像)となる。そのため、物と物との相似関係は「同一平面状での連続性、ひとつらなりの移行、一方から他方への連続的な溢出」という運動性として捉えられる。こうして絵画は単に言説に依拠するものから、「お互いが相似の関係であるような場と、類似の様態に基づく思考とが垂直に交わる地点」となる。
 この観点から「これはパイプではない」を再び見てみると、パイプの画はあるモデルに従属するものではなく、描かれた画同士は物と物とが織りなす相似関係の網の目を構成していることがわかる。しかし、この絵画は言説の空間をイロニックに再導入しているように見せかけることで、言説への従属をも模倣する。しかし、「共通の場の不在」の只中において、もはや言語は絵画との相補関係を保ちえない。だが、そこには新たな言語と物との関係が示唆されている。

(錠)

 

ミシェル・フーコー『これはパイプではない』(豊崎光一、清水正訳、哲学書房、一九八六年)

 

 

これはパイプではない

これはパイプではない

 

 

これはパイプではない

これはパイプではない

 

 

*1:例えば隠喩や換喩は一つの「物」についての多様な表現の仕方を可能にするだろうし、そのような幅のある表現が幾つもの「物」に当てはまってしまうこともあり得る。

*2:ここで言われる言語的対象における類似の排除とは、ヒエログリフのような画と言語が未分化であるような状態から、言語がそれを指し示す画と類似してしまわないように形態的な区別をするということであろう。