ある演出的到達点としての映画『聲の形』
先日、『心が叫びたがってるんだ。』に引き続いて映画『聲の形』の勉強会を行いました。
作中には花や植物がちりばめられています。しかもかなりの種類にのぼり、それぞれアップで映されたりするのです。名前を確認できたものだけでも(花についてそこまで詳しくないので漏れがありますが)、桜/つつじ/シクラメン/マリーゴールド/シュウメイギク/銀杏/ススキ/コスモス/川の水草/カタバミ/シロツメクサ/青いバラのリース/ヒマワリ/ヒメジオン/シロツメクサ/ペチュニア(サフィニア?)、等々。キク科植物が多い印象です。花言葉の分析を行うと面白いかもしれませんが、ともあれこれだけの種類の植物を精細に描きわけたのは、これまで京都アニメーションが積み重ねてきた写実主義に対する追求のひとつの到達点であるかもしれません(これまでの記事で『涼宮ハルヒの憂鬱』『けいおん!』『響け!ユーフォニアム』について書いたものがありますのでよろしければ参照ください)。
アップで花を画面に収めるには必ず接写する必要があります。つまり対象に近接しなければなりません。そこで問題になるのは遠近法です。『聲の形』においては、カメラを強く意識させるようなピントの切り替え(『聲の形』のなかには写真が登場するので内容面とも無縁とはいえません)やある人物の視点からのカットが多用されることによって遠近感のある空間的な画面がつくり出されました。冒頭と終盤で反復される飛び降りと花火の連関が映えるのも遠近法がそなわっているゆえのことです。それは写実主義的であると同時に、柄谷行人が『日本近代文学の起源』でいうような近代的な場の創出(風景の発見)であり*1、あるいはその遠近法のみで物語を進行させうる、奇蹟が起こらなくても日常的な空間のみでひとつの物語が作られうることを示しています。このことはメタSFとしての『涼宮ハルヒの憂鬱』から、徹底して日常を描写しつづける『けいおん!』を経て現実主義的展開を前面に打ち出した『響け!ユーフォニアム』に至る京都アニメーションの遍歴を考えるうえで重要なものです。
あるいは山田尚子監督に特徴的な演出を考えるうえでも『聲の形』は重要な通過点になったともいえます。それはすなわち手足の描写です。聴覚障がいを扱った作品ということで手話が必然的に描かれることになり、手や腕の精確な描写の技術がいかんなく発揮されているのですが、むしろここで重要なのは足のほうにあります。『けいおん!』などにおいても重要な場面で首から下、あるいは足(脚)が感情を表現してきたわけですが、『聲の形』においてはそれに内容的な必然性が生まれます。主人公・石田将也は自分がヒロイン・西宮硝子をいじめ、因果応報的に同級生からいじめられたことによって、屈折した自意識を抱えてしまい「下ばかり見て歩く」ようになります。画面のカットが石田将也の視点を映すとき、そこには必然的に足が映されるわけです。つまりここで足を映すという表現手法と内容的な要請が一致したことになります。
もっとも、『聲の形』の内容面のみを抽出してとらえたときには賛否が分かれるだろうと思います。物語的にいえば、登場人物たちは誰かを特権的な中心にすることで連帯を維持しているわけですが、その中心たりうる性質とはすなわちマイノリティー性だからです。いじめによるクラスカーストの頂点にいる者、底部にいる者がここでは多数派から逸脱した者になり、頂点にいた者が都落ち的転落を果たすというきわめて原始的な物語の欲望の因果によってすべてが始まります。その具体的な背景にあるものはもはや言及するまでもありません。要は西宮硝子以外にも耳の聞こえない人物が登場したならばこの物語がどのように変質したかを考えるべきなのではないか、という意見が勉強会の中でも出されました。しかし、いじめの問題や身体障がいの問題に真っ向から向き合った作品があらわれたこと自体は歓迎すべきなのかもしれません。難しいところです。
アニメにおけるマイノリティー性については田中ロミオ『AURA~魔竜院光牙最後の闘い~』について考察した記事がありますので、よろしければご参照ください。
ともあれ、映像的にとても質が高く声の演技もすばらしい作品だったと思います。青と緑を基調とした映像のなかで無条件に淡い空の色と協賛のみずほ銀行のブルーがよく映えます。今後の京都アニメーションあるいは山田監督の作品でこれまで積み上げてきた演出技法がどのように発展・変質をとげるのか楽しみです。『リズと青い鳥』が公開されたらまた記事を書くことになるでしょう。
(奈)