web版アニメ批評ドゥルガ

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アニメに纏わる記事を書いています。毎月第四水曜日に更新。担当者が異なります。

天空から宇宙へ

紅の豚 [Blu-ray]

機動戦士ガンダム 逆襲のシャア

私たちが空を仰ぎ見るとき、その向こう側に神話の世界が広がっているとは考えないのかも知れない。いくら向こう側に「未知の物質」や「UFO」があるのだと言ってみたところで、それを言わしめる想像力は私たちの足元から地続きで繋がっている。もはや「空」と「宇宙」の違いを、我々は地上からの距離や酸素濃度にしか認めないのだろうか。そうだとすれば、少しばかり寂しいような気がする。

 


 『機動戦士ガンダム』(特に「宇宙世紀」のシリーズ)を見ていると、やはり「宇宙」と「空」に対した違いはないように思える。むしろ、物語的に問題となるのは、「宇宙」と「地球」の対立であるのは明白であろう。それは「宇宙世紀」における中心的なキャラクターである「アムロ・レイ」と「シャア・アズナブル」という対にも現れている。物語はこの二人のキャラクターを同時に中心とする楕円的な構造を持ち、時に物語内に別の中心を引き入れつつ、「戦記」としての一貫性と、それぞれの人物のエピソードを描くという物語の上での膨らみを同時に演出している。
虚構内容に留まって考えるならば、彼ら二人は、二つの貴種流離譚の主人公であるという点において、「物語の嫡子」であるということが出来るだろう。アムロ・レイ*1は、地球連邦軍所属の父を持ちながらコロニー暮らしであり、ジオン軍の侵攻に伴って、「難民」となってしまう。 すなわち、地球に住むための正当な権利を持ちつつも、そこから疎外されている。シャア・アズナブルの場合はもっとわかりやすい。彼は元々ジオン共和国の首相であったジオン・ダイクンの嫡子でありながら、側近であったザビ家によって国を追われた身であり、名前を変えてジオン公国の兵士となるである。
このように、楕円状に形成された物語は、相対化された二つの貴種流離譚を内に含んでいるが、そこで描かれる対立は地球/宇宙という二元的な分割を直接の起源として持つ。
それならば、むしろ地球と宇宙の対立のパラフレーズとしての、空と宇宙の対立は重要ではないかという疑問が生まれるかも知れないが、そのように問いを立てるのはまずい問いの立て方である。地球と宇宙の対立は、背後に特権化された「地球」 の存在*2がある。まさしく、両者の対立は特権化され、制度化した「地球」によって保障された対立であろう。だからこそ、『逆襲のシャア』において、シャアはわざわざ地球が引力を持つということを語り直さねばならなかったのだ。

 


「空」が対立の構図としてではなく、まさしく「底なし」であるということに触れたのは、『紅の豚』のマルコにおいて他ならない。
彼が「豚」になるということは、物語内において、彼が唯一人物語から疎外されているということを示している。『紅の豚』の中での物語的対立は、まずマルコという「賞金稼ぎ」と「空賊」という形で現れる。だが、次第にその対立は、マルコへの陸軍からの取り締まりという形を取って、それが全く正当性を持たないということが明らかになり、今度は「イタリア政府」(空軍)とマルコという対立で現れて物語の表層に現れてくる。しかし、それもまたマルコは自らが「豚」であり、人間の法からは疎外された存在であると表明するのだから、このような対立も見せかけに過ぎない。もっぱら、物語の中心的として、マルコを対立軸の片方に置くことを、基本的に『紅の豚』の作中では許されていない。その意味で、『機動戦士ガンダム』シリーズとはいささか事情が異なっている。
では「マルコ」とは何なのかと問われれば、「キャラクター」であるとしか答えようがないのだから、困ってしまう。マルコというキャラクターは如何にして可能となるのだろうか。
マルコははじめから「豚」であったわけではない。勿論、映画の冒頭では既に豚だったのだが、彼は冒頭の時点で過去を既に縮約した形で保持していて、それが冒頭に豚という形姿を取って現れている。このことが示唆されるのは、中盤においてマダム・ジーナと会食する場面だ。ここで二人の会話に上がるのは、二人の飛ぶことを巡る過去である。このとき、ジーナは飛行機乗りばかりを夫にしていて、その夫となった人物は事故で死んでしまうということや、マルコはそんな中でひとり生き延びて今でも飛んでいる存在だということが明らかになる。この時、若きジーナとマルコを写したと思しき写真では、マルコの顔が黒塗りにされている。このとき、私たちは「飛ぶこと」と「死」が密接にここで関わっていることに気づく。
このことが直接的にマルコの口から語られるのはカーチスとの決闘前夜にフィオへ語った戦争の時に自身に起こった不思議な体験を通してであろう。
彼がその時に見たと語る「天空」は、敵味方がひとつの「星雲」の流れとして混ぜ合わされていく様であり、そこでは全てのイデオロギー的対立が無根拠であることを露呈させるような「底なし」の「天空」である。この空は「飛ぶこと」の限界であると同時に、そこから隔てられている限りにおいて「飛ぶこと」が可能となるような彼岸として示されている。マルコは、このような、「飛ぶこと」と「死」が重なりあう空間の中で、「飛ぶこと」を保証するものは何もない。「飛ぶこと」はどのようなイデオロギーによっても正当化され得ない「無根拠」なものであることに、気づかざるを得ない。マルコにとって、飛ぶことという行為はあらゆる社会的関係から隔絶され、彼の飛行する正当性を保証するものは何も無い。
マルコが「豚」であるのは、彼にとって「飛ぶ」という行為があらゆる人間的、社会的関係から疎外された行為であるからである。「飛べない豚はただの豚だ」というあまりにも有名なセリフで彼が吐露するのは、マルコにとって「飛ぶこと」はキャラクターとしての限界であるのだが、それと同時に彼は「飛ぶこと」によってしかキャラクターたり得ないということである。
紅の豚』において、人間であるということは、飛ぶことに何か目的を持つことだ。国のため、金の為、プライドの為……マルコははじめ、そのような対立からは疎外されているために「豚」なのであって、見た目上の差異は物語的対立によって裏付けることが出来ないものである。だが、その差異の解消、すなわち、マルコの形姿が人間に戻すことは、唯一物語だけが可能である。最後の決闘は、フィオを媒介とした物語への積極的な加担によって成り立っている。

 


 「逆襲のシャア」では、やはり地球と宇宙という対立が物語的な対立であるのだが、それは二つの相対的な貴種流離譚として同時的に描かれているために、『紅の豚』とは異なる形であるが、それらの対立が絶対的なものではないということが明らかになっている。しかし、諸対立がひとつに混ぜ合わせてしまうような彼岸としての境界を、地球と宇宙との間に見出すことは出来ない。
 そのせいで、物語は特権化された地球を中心としながら不断に対立の構図を書き換え続けるしかない。アムロやシャアはその書き換え続けられる制度の変動の中にいる。「宇宙世紀」という年号が付かなくてはならないのは、このような変動を超越的に保証する特権的な地球が要請するものだ。そのために、「機動戦士ガンダム」シリーズでは、変動する制度の中で唯一価値の変わることのない「ニュータイプ」という特権的な属性を置き、彼らが社会的な関係から離脱して物語的な関係へと抽出されてゆくことが求められる。だが、この構図も「地球=オールドタイプ」と「宇宙=ニュータイプ」という対立の構図に回収されてしまう。だが、物語的な対立は常に装われたものであるのだから、そのような対立の中に巻き込まれたアムロとシャアはニュータイプ同士で憎しみ、戦わなくてはならない。二人は物語という「メビウスの輪」に囚われ続ける。

 宇宙から地球を見れば、確かに境界線は引かれてなどいない。境界はいつも人が作るものだ。「物語」はそのような対立を創り出す装置である。しかし、そのような境界の中にあって、ひとつ「死」を巡る限界だけは、いくら人間が新たな「物語」を発明しようと、作為的に定めることは出来ない。物語が「死」を越えることは出来ないのだから。「天空」はそのような彼岸を指し示すように思えてならない。このことは宇宙を描くことによって飛び越せるものではない、ということをアムロとシャアによる「対話」が存分に物語っている。

(錠)

*1:アムロ・レイを「貴種」に大別することに抵抗があるかも知れないが、地球に出自を持つ者が、宇宙において特権的なマイノリティを形成していることは明らかであり、そのような特権的マイノリティを分有するはずの人物が、宇宙においてマジョリティに紛れて暮らしており、且つそこを追われて宇宙を「放浪」することを強いられるのは、充分「貴種流離譚」の変奏であると言える。

*2:「特権化された地球」は惑星としての地球そのものとは異なっている。宇宙に散らばる惑星の中のひとつとしての物質的な地球と、物語的な根拠としての「地球」は「機動戦士ガンダム」シリーズにおいては重ね合わされているが、ここでは別様なものとして考えなくてはならない。