web版アニメ批評ドゥルガ

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アニメに纏わる記事を書いています。毎月第四水曜日に更新。担当者が異なります。

『輪るピングドラム』~石田美紀「3でつながる輪」を読んで~

輪るピングドラム』はウテナで有名な幾原邦彦が監督して2011年に放送されたテレビアニメです。今年になって雑誌「ユリイカ」で幾原邦彦監督が特集されて知った方も多いのではないでしょうか。私は『空の境界』の作者である奈須きのこのインタビューが載っていたので、そこだけ読んで放置していたのですが、先日『ピングドラム』を見て、これはいい評論があるのでは! と思い再読し直しました。

 

 

 

いいタイトルですよね「僕たちの革命と生存戦略

わたしには、ピングドラムに対する奈須きのこの一言に実感めいたものがあって、引用しておきます。

生存戦略という言葉は自然界において当たり前の言葉ですが、それをペンギンの恰好をした美少女が言うと、ものすごいパワーワードに聞こえる。生きるのがどんどん易しくなっているこの世界において、高校生二人に生存戦略を突き付けて、「このままただ生きていると、生きていたことが分からないまま死ぬ。おまえたちは何者にもなれない。でも、何かを探せ」と宣言する。かっこよくて、何十回見ても飽きなくて、それでいて大事なバンクです。 

 バンクというのは、たとえば変身ヒーローものの変身シーンを想像していただければいいと思います。『ピングドラム』の場合は変身するのは司令官的な立場の人で、実働者はそのままなんですが、とてもポップなのに格好いいんです。ARB「Rock Over Japan」のカバーがBGMで、「何者にもなれないお前たちに告げる」と拘束された二人の高校生へ、命令するんですが、それはとても抽象的で殆ど内容がないんです。そう言った意味でも普通のバンクシーンとは全然違うんですね。なくたって成立するはずなんです。だって実際に戦うわけじゃない司令官が変身するのに何の意味がありますか? ジャムおじさんとバタ子さんのバンクシーンを毎回見せられているようなものです。

幾原邦彦セーラームーンや、ウテナでも同様に魅力的なバンクシーンの形成に成功しているわけですが、『ピングドラム』は群を抜いて凄いです。というのも「ユリイカ」に掲載された映像文化論の石田美紀「3でつながる輪」でも指摘されている通り、3が2になるという作品全体の目的=終わりを預言しているからです。本当の意味で「絶対運命黙示録」なわけですが、しかしそれはもう少し込み入った話になります。

 

 

 

 

ここからネタバレ!ですがご了承ください。

 

 

 

石田は『少女革命ウテナ』に現れる様々な表層——「薔薇の花嫁」「ディオスの剣」「世界を革命する力」などの刺激的なフレーズや、リアリズムに囚われない演出など——の複雑さに対して、二者間の対であることを本質に据えている、と指摘する。

たとえば物語が「決闘」という何かを賭けて戦う二人によって形成される形式によって進行し、それに対応するかのように人間関係という内容もまた、王子様とお姫様、兄と妹、婚約者という二者関係を構成し、物語の結末もまたその二者構造を引き継いでいるのだ、と。

しかしむしろここで捉えられるべきなのは三角関係から二者関係への移行ではないだろうか。つまり『ウテナ』の場合においても、『決闘』は単なる二者間の戦いではなく、賭けられた何かによっても形成されているのだ。確かに『ウテナ』における「対」の主題は強調されるが、しかし同時に『ピングドラム』に現れる三角が『ウテナ』においてすでに潜在していたのではないだろうか。この三角というのは、男女恋愛的三角ではなく、「家族」的なものとして『ピングドラム』に出現したのだ、と言えるのではないだろうか。

と書いてみて話がややこしくなってきたのを感じてきました。つまり有名な西洋の排除=選別の理論を凝縮した三角関係とは異なる「家族」という(もちろんオイディプス的ではない)三角関係を描いているといえば一文で済むのですが、何だか『ゲンロン0』的な話になりそうですね。

ここでいう「家族」は、時籠ゆりの「父と母と娘」ではなく、桃果が運命を書き換えた後に形成された「桃果と多蕗と時籠」という括弧つきの「家族」である。もちろんこれは石原が指摘している通り、「冠葉と晶馬と日毬」はもちろんのこと、「真砂子とマリオと冠葉」、「日毬と晶馬とサンちゃん」と増殖していく。その系の一つである眞悧と二匹の闇うさぎ(自分の分身)は閉じた三角であると指摘されているが、それもまた桃果による運命の書き換えの際に起こったことである。

石田も気付きながらあえて書かなかったのはこの作品におけるキリスト教のモチーフで、繰り返される三位一体に加え、運命の果実である林檎(=知恵の実)、運命を記した日記=黙示録などなど。しかし一話の冒頭で『銀河鉄道の夜』を引用しているように運命の果実は宮沢賢治の信奉した法華経の影響も考えられる。

ところで、『ピングドラム』は1995年の地下鉄サリン事件とセットで考えられるわけですが、なんとなく違和感があるのはどうしてなんでしょうか。オウム真理教の「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という自身の死と世界の死を重ねるような終末論に対して『ピングドラム』ではそのような世界観がどのように描かれているかが重要だと私は思います。

銀河鉄道の夜』の解釈をする二人の少年の「死んだら全部おしまいじゃん」「そこからすべてがはじまるんだって賢治は言いたいんだよ」という会話はとても紙一重ではあるが、オウム真理教の信条への返答になっている。二人の、そして桃果の自己犠牲が、賢治が属していたあの全体性への志向に通じてしまうのではないだろうか。

「人は死ぬ。死は避けられない。お前たちは何者にもなれない。それならお前たちの死を意味あるものにしろ」

もちろんですが、『ピングドラム』はそういった話と紙一重ではあるけれど、そうではないわけです。最終話で「底なし」な星空を背景に歩き続けるように、彼らは生存戦略に打ち勝った?わけですから。打ち勝ったというのが正しい表現かはわかりません。運命を乗り換えたことで誰も死んではいないのだから、勝利!という感じもしません。

話を戻しましょう。

三角関係のなかでも二つに大別することができる。「恋愛の三角関係」と「家族の三角形」である。これらは「欲望の三角形」と「オイディプスの三角形」と言い換えられるだろう。そして『ピングドラム』はこの二つを変形し、あたらしい「家族」の三角形をつくっている、と言える。恋愛や家族を法外に拡大することによって、他の三角形と接続し、増殖させて、二つの三角関係を奇妙な形に変えてしまう。たとえば荻野目苹果(りんご)は、多蕗と時籠の恋愛的な二者関係に加わることによって、自分の家族を再構成しようとする。苹果の場合は目的がいまだ「回復」にあるが、それとは逆に「冠葉と晶馬と日毬」の三角形はそれ自身において複雑でありながら、さまざまな三角形と接続していて、目的も定かではない。冠葉は恋愛にだらしなく、女性との間に三角関係を増殖させ、「被害者の会」がつくられると、真砂子が介入し、勢力的な三角形がつくられる。同時に「真砂子とマリオと冠葉」という家族の三角形が明かされると、「祖父と真砂子とマリオ」の三角形が明示される。しかしこれは「父と母と晶馬」や「父と母と時籠ゆり」のようなオイディプス的な家族関係、父(母)が有罪であり、私もまた有罪である、という神経症的なタイプに含まれる。そしてこのオイディプス的な三角形はいずれも社会に接続されている。真砂子の祖父は権力者であり家督争いに巻き込まれ、晶馬の父と母は事件の容疑者として見なされ、時籠ゆりの父は巨大ダビデ像によって東京を監視している。つまり単に想像的な強迫観念ではなく、さまざまな権力と接続するのであり、それもまた他の三角形の一点になりうるのだが、しかしこれらのオイディプス的な三角形は断絶された状態で物語は始まるのである。そしてそれを「回復」する目的をもって行動する苹果に加担することで、過去の記憶によってオイディプス的な、起源的な三角形に回収され、増殖した三角形が閉じてゆき、結果として二者関係を残すことになる。「苹果と日毬」「多蕗と時籠」「真砂子とマリオ」「冠葉と晶馬」といった二者関係はそれぞれ一点の不在によって成り立つのである。

バンクはそういった三角関係から二者関係への移行を描いています。

石田は「人間同士のかかわりの不思議さを力に変える『輪るピングドラム』が二〇一一年に放映されたのは意義はけっして小さくないのである」と論を結んでいるが、それは不思議な共同体である「家族」が最終的には忘却された不在によって成立していて、その不在がまさしく眞悧の言う「この世界に何も残せない」存在であるのだろう。

スプートニクの恋人』のデタッチメントとは対蹠的な増殖と接続の三角形が閉じられるところで物語が終わりを迎えるのは、現状を見るとなんとも皮肉めいている気がする。

(中澤)