web版アニメ批評ドゥルガ

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アニメに纏わる記事を書いています。毎月第四水曜日に更新。担当者が異なります。

『デビルマン』を見ていたデビルマン。

多分『デビルマン crybaby』をみた方はこの記事みたいに物語的な話をしても大して面白くないと仰られると思います。実際、漫画版デビルマンと話はほとんど同じです。重要なのは映像表現で、フラッシュ特有の軽やかな演技、特にPVでも大きく取り上げられていた走りはかなり衝撃的だったのではないかと思います。2017年の秋アニメ『Just Because』の走る演技はアニメにおいて走るというのはどういうことなのか、というのを教えられますが、『デビルマン』においては人間的な走りとは違う、悪魔の走りにも注目です。
ただNetflixオリジナルなのは諸刃の剣というか、画像引用ができないので残念です。せめてオリジナル作品くらいは引用できるようにしてほしいですね。

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 はじめに

1月5日からNetflix湯浅政明監督のデビルマンが公開されました。湯浅監督は、昨年2017年のアヌシー国際アニメーション映画祭長編部門における最高賞、クリスタル賞に選ばれた『夜明け告げるルーのうた』を監督しました。「ルー」は全編がフラッシュアニメでつくられたと言われ、注目を集めました。日本のアニメーションの多くが作られたパラパラ漫画のような要領で作っていくセルアニメに対して、フラッシュアニメは一枚の絵をAdobeFlashというソフトで動かすアニメです。フラッシュアニメの作り方を紹介した動画が多く上がっているように、自主制作アニメを製作しやすい手法と言えます。

昨年流行った『けものフレンズ』はキャラクターをCGにしていたり、今流行りのヴァーチャルユーチューバーもほとんどCGアニメといっていいと思います。CGは技術的にいってフラッシュより難しいのだと思いますが、一度モデリングしてしまえば、流用できる範囲が広いので後々楽になるのでしょうか。いずれにしろセルアニメのように見せるためにCGを使うセルルックアニメの反対のことをやっています。CGを自然に見せるために手書きの絵を使っているという具合に。

フラッシュアニメの手法はアートアニメと呼ばれる主に短編のアニメに多く用いられていましたが、土井伸彰『21世紀のアニメーションがわかる本』の主張では、いまやエンタメとしてのアニメとの境界は明確に区分けできなくなっていているのだそうです。精力的に児童向けアニメや深夜アニメを製作してきた湯浅政明監督もまたその境界の境目にいると言えるのでしょう。

私は『ピンポン』や『四畳半神話大系』を見ていただけで、残念ながらまだ『夜明け告げるルーのうた』を見ていません。この二作もまたフラッシュを用いたアニメで、特に『ピンポン』には『デビルマン』と多くの類似点が見られました。それはまた今度書こうと思います。

 

 

21世紀のアニメーションがわかる本

21世紀のアニメーションがわかる本

 

 

デビルマン』を見ていたデビルマン

ほかのデビルマンとの違いは、このデビルマンが固有名ではないところと言えるとわたしは思います。つまりこのデビルマンは二番煎じなんです。湯浅監督は『ピンポン』でも同様にSNSを活用していますが、「デビルマン」のコメントのなかには、昔のアニメとしてのデビルマンが言及され、動画配信サイトにはデビルマンのOPが投稿されていて、話が進むごとに不動明知名度とともに昔のデビルマン知名度も上がっていっています。庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』とはこのあたり正反対で、「ゴジラ」というものが存在しない現代にゴジラが現れてしまう。昔、対談で庵野監督は自分のデビルマンとしてエヴァを作ったと語っていますが、それはここでは措いておきます。

そして決定的なのは飛鳥了が幼い頃に施設のテレビで「デビルマン」を見ていたと示されるところです。「デビルマン」は有名な作品で、漫画好きなら万が一読んでいなかったとしても、その物語を知っているはずです。暴走した人間にヒロインの首を串刺され、悪魔に半身を吹き飛ばされる不動明、そして神々の軍勢の降臨。このショッキングさは、しかし実は漫画版のもので、アニメでは悪魔と戦うヒーローとして描かれ、途絶しているわけです。湯浅監督はもちろん漫画版のシナリオを踏襲しているので、ここでも若干ねじれがあります。

なぜならアニメ版のデビルマンはテーマ曲こそ有名であれ、シナリオはほとんど記憶に残らない、それならSNSで騒がれるはずのデビルマンのラストはなぜ不動明たちの耳に入らないのだろうか、という疑問も湧きます。飛鳥了はアニメ『デビルマン』を見て、不動明デビルマンにした。(しかし、やはりここにもねじれがあって、アニメ『デビルマン』のデビルマンは、死んでしまった不動明に取り憑いた悪魔であって、人間の心は持っていないのですが)だから飛鳥了は物語の結末を知ることができなかったのだと、言えるでしょう。湯浅監督はなぜ『デビルマン』をメタ的に取り扱ったのにラストを変えることなく、描ききったのでしょうか? 確かに映像としては最高に盛り上がるラストで、結果としてできた映像も文句なしの出来だったとわたしは思いますが……たとえば庵野監督がナディアで宇宙戦艦ヤマトをリスペクトしたシーンを作ったり、シン・ゴジラの声を昔のゴジラ作品から持ってきたように、まず見る・聞く行為から作品づくりがはじまっていて、『デビルマン crybaby』もバトンリレーという形でそうした「継承」を表現してるのでしょう。しかし、この作品の終わりには継承というよりは、崩壊、カタストロフ的なものがあって、やはりバトンは落ちてしまったのか、などとも思ったりしました。