web版アニメ批評ドゥルガ

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アニメに纏わる記事を書いています。毎月第四水曜日に更新。担当者が異なります。

トーキーアニメ黎明期『懐かしいケンタッキーホーム』と私見

どうしてアニメーションが好きかと聞かれればなんと答えますか? 三次元的な制約を超えた自由な動きを求めてと言ってみてもCGを取り入れていない実写映画なんてもはや少ないくらいですし、それ以前にもクレーン撮影などによって重力を欠いたようなシーンは撮られているでしょう。私の場合は最初から最後まですべて造り物であるということがアニメーションが好きな理由ですが、それだってアニメーションの特異性とは言えないわけですし、なんなら実写映画だって最初から最後まですべて造り物なわけで、このブログで取り上げている声と登場人物の恣意性という問題に関しても洋画なら吹き替えがありますしアニメ固有の問題ではない訳です。

じゃあ何がアニメの問題なのかというのが今回の話です。といってもトーキーのセルアニメと限定されるんですが。今回は1926年に公開されたMy Old Kentucky Home『懐かしいケンタッキーホーム』を見ることで色々考えていこうと思います。


【1926】【My Old Kentucky Home】⌛ First Officially-Produced Sound Animation

まず目につくのが変態です。帽子がバケツになり、コートがタオル、そしてテーブルクロスになり、骨(Bone)がトロンボーン(Trombone)になります。この一連の変態で重要になるのが長回しです。はたしてアニメに長回しというのがあるのか私にはわかりませんがカットを割ってしまうと変身シーンのような何か大仰な感じが出てしまいます。ですがここでは長回しをすることでとても自然に無理なく、そしてユーモラスにアニメがどれだけ可変的なものかを描いているのが分かります。

私はドゥルガ一号で書いたように「キャラクター=文字」的なアニメが好きです。「キャラクター=文字」とは、つまり骨がトロンボーンになり食事が音楽になるようなアニメであって「キャラクター=性格」的なものの対極にあたります。それは描かれているからこそ変化することが可能であり固着化した視覚をぺりぺりと薄皮のように剥がしていってくれるものだと思います。たとえば片渕須直監督のキャラクターの彩色を指定せずカットごとに塗っていくという手法で制作された『アリーテ姫』や今敏監督の変態していくキャラクターを題材にした諸作品、そして湯浅監督の『夜明け告げるルーの歌』などは長編アニメでありながらキャラクターの潜在的な可塑性を物語に紐帯させているものなどです。それはやはりアニメにしかできない媒体的な限界を感じさせてくれるものだと思っています。

今回は短いですがこんなところで。