web版アニメ批評ドゥルガ

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アニメに纏わる記事を書いています。毎月第四水曜日に更新。担当者が異なります。

ゲームを、また始めるために——アニメ『NEW GAME!』

  

中澤一棋

 

「ぞい」、あるいは生きるための「茶化し」

 

桜の舞う町を小川が流れる。少女の横顔が見切れ、画面いっぱいに長い青髪が風になびく。二人の女子高生が歩いていく。再び桜の下を川が流れていく。桜に透かされて女子高生は歩く。青い髪の少女と思しき手がベージュ地に肉球の模様がついた合皮の定期入れを橙色の改札に設置された空色に蛍光するICパネルにタッチする。手前の電車が走り去り。少女の乗る電車もまた同じ方向に走ってゆく。ジャンプカットで電車が満員になり少女は徐々に端へと押しやられる。つり革を持つ少女を映す。同じ角度で中央線の黄色い車体が駅へ到着。薄紫色をした点描のトーンの通勤ラッシュに混じって、V字に折れる列に流される。通勤ラッシュに色がついてともに歩いている、エスカレーターと手前の列とともにV字をつくる。黄色い点字ブロック(線状)と橙色のタイルに赤を基調にしたスニーカーが着地して、そこから白い靴下を履いた脚が伸びている。カメラが移動して目を横V字に伏せる青い髪の少女の顔が映る。カメラがクロースして目を開く。オフィスビルをカメラが上から下方向に移動。その前にたつ少女の後姿。少女は横半身に映されて上方向にカメラ移動し、横顔。正面の少女。両手で拳を握って胸元まで引き下ろす。背後をトラックが疾走して同じ方向に髪がなびく。背後にまわりトラックの疾走とともに髪がなびく。

『NEW GAME!』において特権的な仕草はアニメの一期一話、冒頭で殊更に強調される。およそ一分の風景描写が生み出す運動の数々のなかの一つの結実として、両脇を引き締める縦運動は交通という主題群のなかから突如として現出したトラックの通過という横運動に殆ど共鳴さえしながら、後にその仕草とともに発される一つの台詞を予告するのだ。彼女の言葉。

 

今日も一日、がんばるぞい!

 

 沈黙のなかにその身振りが響き、掻き消される。

 どうしたことだろう? 「今日も」とは何のことだろう。あたかも参照すべき昨日があったかのような声ではないか。そして昨日と同じ日々が来るとでも信頼しているような音調ではないか。「一日」の時間がお前にあるとでもいうのか。ならばその時間のあいだ疲労するために「がんばる」のか。疲労するため、「一日」を費やし、そしてまた同じような明日、明後日を、同じような疲労で費やし、振り返れば同じような昨日だらけになっていく。今日は昨日であり、明日は今日でなくてはならないのか。そのような日常が続くというのか。

あの壮大な欲望は何処に消えたというのだ。「がんばる」ことを諦め、世界を崩壊させてしまうような、疲労疲労ではなくなることで疲労から解放されて、言葉と自我の境界が溶け合ったあの病みきった崩壊の欲望は何処に消えたのだ! 可能性の総体としての世界から目を逸らし、自我の内部に無数の目が花開いた、あの輝かしいばかりのセカイは……

 しかし、これらの深刻さは茶化される。日常と奇跡というその華奢な肩で担うには重すぎるテーマはゼロ年代と呼ばれる批評の潮流が運んだ自家中毒の一種である。セカイ系、つまり肥大化した自我が世界と合一し、同時に崩壊していく作品群のなかに無意識、深層心理、あるいは真理を見出し、そこから世界の秘密、つまり日常と奇跡を解明しようとする探求。彼らのいうところの想像界現実界。僕と君、あるいはセカイ。空気系=日常系は、そのセカイ系の別の形として現れたとされるモラトリアム的な日常だ。それらは全て「ぞい」の前に砕かれる。あるいは「茶化し」によって。

 もちろん、なぜ「ぞい」ではならないのか? 「ぞい」とはなにか? という疑問符はたちまち運動を阻害し、循環を滞らせ、アニメーションは鬱血する。たとえば人が「これは何だ」と聞いてきたら、アニメーションだ、と答えればそれで十分であり、責任を果たしていることになる。そしてそれさえも必要ではない事態に陥れば、人は説明を拒みさえする。だから、それらの疑問符は迂回し、原則として運動をもってそれに答えるべきである。

 しかし「ぞい」である必要性、なぜ「がんばる」だけでは足りないのか、ここでその泥沼にあえて立ち入ってみるのも面白いかもしれない。そこが足の着く浅瀬だと高を括っている人々の目の前で溺れてみれば、笑ってくれるものだから。

その言葉が口にされる時、そこにはある種の深刻さが宿る。それを実存と換言することは可能だ。「がんばる」は未来への志向性に起因する。翌日はメンテナンスで会社が休みになるために泊まって作業をすることになるし、納期のために一日一体のペースでモデリングをしなければならないのだし、憧れのキャラクターデザイナーと一緒に働くために藝大を蹴って就職するのだ。そもそも時間という概念が恣意的なアニメーション(絵の順番を入れ替えてしまえば、未来は過去なのだ)においては「がんばる」ことが、(まるで自己啓発のようだが)むしろ未来を作り出すのだ。大前提、実存とは時間のなかで形作られる。人間は時間的な存在であり、目的のために行動する。目的=終焉は最も深刻なものであり、そういった類のキャラクターはまさしく時間の中において形成される。輪郭を保ったままでいるようなキャラクターは、ということだが。

 ここで「ぞい」はその志向性を茶化す。厳密には「茶化し」は「ぞい」を標的にしてやってくるのだ。冒頭、青い髪の少女の背後を疾走したトラック=横運動と上司・アートディレクターの出現が「ぞい」を相対化するのが、それである。縦移動に対して横移動、「がんばる」に対して彼女が子どもだという上司の錯誤、この二つは外部的なものであり、決して彼女が特権的な立場にいないことを示し、同時に最も特権的な仕草が、他の諸運動のなかの一つであり、同方向の運動の蓄積の一部と、異なる運動によって掻き消されるものとして存在することを意味している。そういう意味では『NEW GAME!』は決してセカイ系にはならないのである。あらゆる運動が他者と連動し、連携し、結実する。

たとえば一期二話で無口な先輩がペットの写真をスマホで見せている際に誤ってペットとの笑顔の自撮り写真を晒してしまったのを取り繕ったこの仕草は、二期二話において、無口な先輩によって反復される。「ぞい」の感染ともいうべき事態か。ここでは、しかし青い髪の少女が奮う仕草とは異なり、紫と青のグラデーションがかかる背景に円状とバツ状の模様を鏤めたメルヘンによってオフィスの風景が塗りつぶされている。グラデーションが青と紫なのは青い髪の少女と無口な先輩のキャラクターカラーなのだろうが、この模倣は合一ではなく、むしろ「茶化し」を導くどころか、自らに「思い込み」や「妄想」を植え付ける。ゆえに企画をはじめて務めることになったラフな格好をした短髪の少女に対して先輩は思い込みをしたままだ。一期十話においても同じように先輩は心象風景を背景化して、青い髪の少女への妄想に耽り、思い込みの末、青い髪の少女に同行するために「ぞい」の仕草を取っている。感染し、変奏する「ぞい」の仕草はいつの間にか「今日も一日がんばる」という意味を希薄にさせ、「思い込み」や「妄想」という意味へとシフトする。

その前、この仕草が「ぞい」になるとき、もちろん、後に「ぞい」と名指されるようになる仕草をする少女の一コマがSNS上で話題になり、「作者」の意図しない形で特権的な位置を占めるに至ったのであり、いわば「ぞい」は「読者」によって事後的に生まれ、アニメ化の際に運動として純化されたのだが、その本体である一期四話において、一話の冒頭と同じ現象が起きているのを指摘しておこう。

四話の冒頭から微かな「ぞい」をペンとメモを持ちながら仕掛け、兆候を見せる青い髪の少女は、Aパートで本命の「今日も一日、がんばるぞい」で真価を見せつけるのだが、しかし「ぞい」は同時に上司の情事を発見する契機ともなる。この時、少女の席がある四角いスペースから隣接しているもう一つのスペースへと横移動するのは当の少女であり、それに従うカメラである。これがトラックに相当し、上司・アートディレクターの錯誤(青髪の少女が子どもであるという誤解)は上司・キャラクターデザインに「ぞいってなに?」と茶化されることに対応するのである。

屋外と屋内で決定的に違うのは運動が閉鎖的になるということだ。これは説明するまでもない。職場にトラックを走らせれば、大惨事になる。仮に走らせるとしてもゲーム内のオブジェクトか、背景を簡易化してキャラクターを走らせるか。しかし、ここではそういう方法は取らず、最終的に情事を見るということに事態は収斂する。情事、アートディレクターとキャラクターデザイナーショーツ姿で覆いかぶさっている姿を見てしまうことは、本来的には深刻さを持っているはずだ。

もしも仕事の遅れを取り戻すために、いつもより早い通勤電車に乗って朝焼けを眺めつつ欠伸をし、乗客の少なさに安堵して座って、もう慣れた駅に降りて、会社に着き、自分の席に座ると直ぐに嬌声が聞こえてきたのなら、行為中あるいは事後の二人を見てしまったならば、あなたは彼女たちの本質的な部分に立ち入ってしまったと思い込むだろう。性へ中心化された思考においては彼女たちの性癖、プライベートが明るみに出て、全てをあなたは知ってしまったのだと、決定的な瞬間に立ち入ってしまったのだと、そうあなたは思い込むだろう。しかしここでは茶化したものも茶化されるのである。青い髪の少女によってではなく、物語もしくは私たちによって。

「がんばる」という深刻さ、実存性、目的に向かう志向性は、「ぞい」という言葉尻を捕らえられ、上司の情事へと話題を脱線させ、それ自体が笑いとなる。あなたたちはそれを一つの遊戯と捉えるだろう。関係性を遊戯化すれば、決定的な変化は起こりえないのであり、女性同士の恋愛の不可能性(もちろん社会制度や現今の家庭「道徳」という外部的な抑圧=相対的・時代的なもの)に対して深刻に立ち入る必要がない。だから情事は遊戯であるし、こちらは笑うだけで済む。

まとめると、

 

今日も一日、がんばるぞい

 

この言葉は拳を握って胸元に降ろし脇をしめる仕草は事後的にではあるが付着しており、一期一話冒頭および四話において「茶化し」として扱われ、無口な先輩に感染させたときには「思い込み」「妄想」へと意味が変質する。「ぞい」は他者に関与する仕草であり、他者を前提として初めて成立するのであって、その点でセカイ系という括りからは逸脱している。同時に「がんばる」は志向性に由来しているので、この作品はモラトリアムが永続するという「日常系」ではない。現に二期の最終話で変化は起きてしまったではないか。そこで「ぞい」が姿を潜めるのは、もちろんもう既にその時点では茶化せなくなってしまっているからである。

ここでいい加減に泥沼からは足を洗うとしよう。このどちら就かずの作品は、自我の内に籠るものではないのにもかかわらず実存のあるキャラクターたちを生み出している。そこでアニメーション表現的な非実存的な、物自体であるところのキャラクター、沈黙するキャラクターではなくて、物語内において非実存的なキャラクターと『NEW GAME!』のどちら就かずであるからこそ安定するキャラクターとを比較してみよう。そう『冴えない彼女の育てかた』と。

 

キャラクターデザインされる「加藤恵」か、デザイナーの青髪の少女か。

 

ゲームを題材にした作品には主に二つの層がつくられる。一つが虚構内現実、もう一つが虚構内虚構だ。マリー=ロール・ライアンのようにもっと区分けしてもいいかもしれないが、ここではしない。虚構内現実=作るキャラクター、虚構内虚構=作られるキャラクター(ゲーム)といって差し支えない。『NEW GAME!』においてはこの二者間の距離は十分保たれている。つまり統御されている、ということだが、それは表現面からして明らかであり、キャラクターデザインが変わり、尚且つCGによるモデリングによって虚構内現実と差別化されている。それに比べて『冴えない彼女の育てかた』はキャラデザも同じで、セルルックで、作中のキャラクターと同一視される。

『ねじの回転』で有名なヘンリー・ジェイムズによって組織的に導入された視点人物の考え方は『シャーロックホームズ』に受け継がれ、現在の推理小説ひいてはライトノベルに多くの影響を与えた。どこにでもいる普通の登場人物が特異な人々を観察する、それが視点人物であり、つまり大塚英志が言うようなアバターのもとになった考えだ。たとえば『涼宮ハルヒシリーズ』は何の変哲もない高校生の主人公が宇宙人、超能力者、未来人、そして全能とされる黄色いカチューシャが特徴的な少女の行動に巻き込まれながら見ている作品であり、見ている彼は典型的なアバターといえるだろう。自らは平凡だが周りにいるキャラクターによって引きずり込まれていう受動的な人物として「キョン」は自己を定立する。

平凡な男子高校生のぼくは、有名同人サークルのイラストレーターを務めるツンデレで金髪ツインテールの幼馴染と、新進気鋭のラノベ作家として活躍している黒髪ロングのクールな先輩とともにひょんなことからゲームを制作することになった。目指すは冬コミ。奇想天外な彼女たちに巻き込まれて、ぼくの過酷な創作生活が始まる、といった具合に。

冴えない彼女の育てかた』にはその考えはまったく当てはまらないように思われる。なぜなら少年は平凡でもなければ、ひょんなこととなどという無責任な理由で物語を始める訳ではないからだ。少年は、不在に出会う。桜の舞う坂で少女の白いベレー帽を拾ったあの運命の出会いを、ゲームに起こそうとする少年は先程の二人を積極的に巻き込んで、同時に運命的な出会いをしたはずの少女に幻滅しながらも、彼女を自作のヒロインにすることを決意する、異常な欲望の持ち主である。彼はアバターではなく、純然たるキャラクターだ。

しかし『冴えない彼女の育てかた』にはアバターが存在する。それが「加藤恵」なのである。ヒロインとしてのキャラクターではなくて、少年に幻滅され、キャラクターが死んでいると指摘されたときの「加藤恵」なのだ。

キャラクターたちが持つ属性=クリエーターであることから離れるのは少年との距離に依存する。少年との恋愛はすぐさま彼女たちをクリエーターという属性から解き放つ。それは「加藤恵」化と言ってもいいだろう。キャラクターが死ぬのだ。反対に彼女たちがクリエーターとして真価をみせるとき「加藤恵」はキャラクター化されるのである。

たとえば一期四話ラストで出会いのシーンを反復する少女はもはや「加藤恵」ではなくベレー帽の少女になっているのだが、二人の少女はその時、作家は演出家に、画家はコーディネーターに、つまりクリエーターになっていなくてはならない。二期ではラノベ作家の先輩が書いた新規ルートと既存のルートとを少年に選ばせる。新規ルートは自分自身を投影したヒロインのルートであり、少年の答え次第でどの大学に行くか進路を決めようと試す。しかし少年はリテイクを出してしまう。少年とともにルートをゲームに組み込む作業の過程で、「加藤恵」は前作小説のあるヒロインとの類似点からそのことに気づき、少年が気付かなかった先輩の心を問い、二期四話にて「加藤恵」ではなく先輩が自分自身を投影したヒロインそのものとなり、文化祭最終日の後夜祭で少年を踊りに誘う。やはりその時すでに黒髪ロングの少女はクリエーター性を回復している。「加藤恵」が冴えるとき、ヒロインになるとき、他のキャラクターたちの属性が育てられるのであり、だからこそ「加藤恵」が冴えず、ヒロインにならなかった場合の二期第七話では少年の一番になった少女が「澤村・スペンサー・英梨々」になり、ツンデレとともにイラストレーターという属性を手放すのである。

アバターであり、ヒロインを模倣する少女は、いつしか虚構内現実でもヒロインになる。

 『NEW GAME!』においては青い髪の少女が最初に制作するキャラクターが自分をモデルにしていると後になって知る訳だが、そこで彼女との境界線があいまいになることはなく、極めて「作る者」と「作られる物」とに分かれている。それは仕事であり、自分をモデルにしたキャラクターが仕様上、死ななくてはならないため必死に友人がデバックして見つけた抜け道さえも塞がなくてはならないのである。これは一種の袋小路である。自分が書かれた物としての自覚的な意識を失いながら、自分が書く者だと錯覚すること、その倒錯は、しかし自分を定立させる最大の原因となっているのである。

確かに運動の多彩さ、その収斂具合のためにアニメ『NEW GAME!』は他の日常系作品よりも群を抜いて美しく見える。しかし、モラトリアムが永続するわけではないから「日常系」ではない、と言ったのを撤回しなくてはならないのは、自分が「作る者」から「作られた物」に転落しないという安心感こそが「日常系」を裏打ちしてしまうからである。考えてみれば、『NEW GAME!』では両親は映されないことになっているのだ。

それは良いとか悪いとかの問題ではもちろんない。むしろこの条件のもとでなければ、セカイもしくは本来的な日常に立ち向かわざるを得なくなるのだ。たとえばそれは『新世紀エヴァンゲリオン』を筆頭とする「死」のイメージとしてのセカイ、もう一方は『この世界の片隅に』のような「私」が死んだとしても明日は来てしまうし、「私」が生まれる前にだって昨日はあったような本来的な日常の世界を想像してくれればいい。前者は「死」、後者は「生」を形作る。『この世界の片隅に』が戦争映画を巧妙に隠れ蓑にした「茶化し」=「笑い」に属する主題を持っているように「ぞい」もまた「茶化し」ではある。しかし前者も後者もともに共有されているのは「作られた物」であるという強い自意識なのである。繰り返せば、だからといって良いとか悪いとかの問題ではないのだ。そういった二元論ではなく、『NEW GAME!』には選択肢があるということである。それを東浩紀の言う「ゲーム的リアリズム」と換言するかはこの際は措いておこう。「作られた物」に自由意志が存在しないのとは異なり、実存を持つキャラクターにおいては意志を介在させているように見せることができるのである。もちろん、これは矛盾する。仕事であるのだから、選択肢を潰して、自らが作った分身が死ななくてはならないようにしたのは会社であり、上司であり、同時にそこに含まれる自分自身であったはずだからだ。しかし自分で会社に入ることを決めたり、キャラクターデザイナーになろうと努力したり、フランスの会社に移籍したりするのは紛れもなく実存を持った目的ある行動であって、物語論的な回収を拒んではいないとしても、「ぞい」が持つアクセントが作品全体まで波及しているという点で、選択肢を与えられているように見せることが可能なのだ。

しかし、同時に選択肢は超越性を現出させることも指摘しておかなくてはならない。もしも何かが起きて、何かが起こらないのならば、というような超越論的な視座は、歴史の終焉というまさしくセカイ系的な概念と安易に繋がりかねないのだし、そういった点での選択肢とは無論『NEW GAME!』とは無縁のものであって——なぜなら他者がいることによってはじめて、「茶化し」が成立し、目的と同時に迂回が存在するのだから——もっぱらアニメーションとしての運動がキャラクター達を相対化していることが最も重要なのである。