web版アニメ批評ドゥルガ

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アニメに纏わる記事を書いています。毎月第四水曜日に更新。担当者が異なります。

「新海誠展」雑感

先日は文フリお疲れ様でした。ドゥルガ2号をお買い上げくださった方、誠にありがとうございます。

今後も毎週水曜日のブログ更新、またドゥルガ3号発行に向けての準備を行っていきますので、なにとぞよろしくお願いいたします。

 

さて、ひと段落ついたことだし小休憩、ということで乃木坂の国立新美術館で開催中の「新海誠展」にぶらりと行ってまいりました。運慶展はうかうかしているうちに終わってしまっておりました。行けばよかった……東大寺にでも行くしか……

 

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特別展があればだいたい国立新美術館には来るので特別感慨が、というわけでも正直ないのですが、記事のために写真をとってみました。新海誠という文脈だと一応『君の名は。』の聖地ですね。まだ10周年の現代的なデザインは『君の名は。』の東京のイメージとたしかに合っていると思います。月曜の開館直後に来た(暇人がばれる)ので人も少なく、いい天気で採光性の高いラウンジによく陽が差していたので、これまでに国立新美術館に来たなかでいちばんおだやかできれいな廊下でした。

 

shinkaimakoto-ten.com

 

行くまえ、新海誠の仕事を展示していったいどうするのだろう、と思う部分がありました。運慶やジャコメッティなら展覧会を開く意味が大いにあるでしょう。あるいはゴッホやダリにしても同様に。もっとも暴力的に理由を一言で表せばもちろん、本物が見られるから、ということになります。ではアニメーションにおいて「本物」とは?

今年の夏、作家のデビュー十五周年を記念した「西尾維新大辞展」に行ってきました。アニメーションやイラストも多いなか、展示のかなりの割合を文字が占めていたことが印象に残っています。文字というのはここでは当然印刷された活字であって、物質的側面において固有なものというのは存在しません。思えばある意味特殊な空間だったかもしれません。もっともアニメやそこから派生する文化にまつわるこうした展覧会は最近とみにメジャーになっているのだろうと思います。きっとある種のアウラを感じるために美術館に行くという考えはもうとうに古くて――たとえばヴェネツィア派の絵画を教会で見ないでどうするのかとか、便器を美術館に置いたら美術品になるのかとか、そういう古典的な問題が示しているように、美術館という場所がある種のねじれを抱えているのは昔から周知の事実ですが――、ある線に沿った知を得るために行く、あるいは単に囲まれるために行く、そういう場になっているのかもしれません。あるいはジャコメッティ展のような展覧会と「西尾維新大辞展」のような展覧会を区別して考えた方がいいのかもしれませんけれど。

exhibition.ni.siois.in

新海誠展」はその場合やはり後者に属します。展覧会中の解説でも強調されていましたが新海誠は特にデジタル処理を制作で多用している監督であり、原画や、アナログ式制作に一度回帰(アニメ史的に見れば回帰ですが、最初からデジタルで作業している新海にとってはひとつの挑戦といえます)した作品『星を追う子ども』に関連する一連のものたちなどをのぞけば、本で見るのと変わらないんじゃないかという気もしてきます。

ただ、これら全部に目を通したことがあるのは相当熱心なファンだろう、と思わせるようなかなりの数の資料群を一度に見ることができたのは、なかなか腰を据えて研究するほどの時間はない人間にとってはよかったかなと思います。『ダ・ヴィンチ』の新海誠を特集した号の「新海誠を作った14冊」というページがボードになって壁に展示されていたのですが、そのなかの一冊に柄谷行人日本近代文学の起源』があって、なんだかとても安心してしまいました。新海作品の風景の描き込み度合い、内面をめぐる物語、両者の密接性を考えれば本当にむべなるかなという感じですが、作り手の側にも念頭にあったのですね。ただ、そのボードの下に設置されたショーケースのなかに文芸文庫版の現物が展示物として得意げにおさまっているのを見たときはさすがにびっくりして笑いそうになってしまいましたが……うちにもあります……

アニメーションってやはり層なのだな、ということが今回感じられたことです。それはもちろんパラパラまんが的な意味での時間的な層の連なりということでもあるのですが、映像のなかのカット一枚を取り出してみてもそれが雲母のように層的に出来上がっていることが今回わかりました。たとえば『秒速5センチメートル』の場合、Photoshopで制作された背景の絵が50枚のレイヤーを重ねてできあがっているそうなのですが、その細かく分割された部分部分を光の加減など必要に応じて丁寧に調整することであのようなきめの細かい美術を実現することができているということでした。人物にしても輪郭線や色彩が数枚~数十枚の層で構成されてできています。特にデジタルで処理する場合は層の下の方にあるものもつぶれてなくなるわけではないので、効率的かつ繊細に画面をいじることができるという利点がここで生まれるわけです。同じ平面でも単なる油絵などとは明らかに違うよなと思わされます。

 

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出口のところのフォトスペース。自己聖地化が行われていました。ちなみに午前だったからか来場者の平均年齢は大学生よりは高い印象でした。表示は日本語と英語のほかに中国語・韓国語でも書かれていました。いちどロシア語(たぶん)も聞こえました。

ちなみに、第二外国語を勉強されている方は外国語版の『君の名は。』の予告を見比べると面白いです。最後の【(三葉)「あなたは……誰?」(瀧)「お前は……誰だ」(二人)「「『君の名は。』」」】の一連の流れであっこれ一番最初に覚えた例文じゃんってなります。たとえば仏語版だと【「Comment tu t'appelle?」「Comment tu t'appelle?」「「Quel est ton nom!?」」】、伊語版だと【「Chi sei?」「Chi sei?」「「Come ti chiami!?」」】。「Comment tu t'appelle?」「Come ti chiami?」あたりは特に教科書の最初に書かれてある可能性が高い文で、こういうこと言うのもたいへん恐縮ではあるのですが、ネイティブじゃない身からするとなかなかじわってしまいます。単純すぎる文であるがゆえに翻訳が難しいですね。仏語版の予告は「your name francais」とか検索すると出ます。

 

 

余計なことしかしゃべっていませんが、それではまた。

 

(奈)