web版アニメ批評ドゥルガ

web版アニメ批評ドゥルガ

アニメに纏わる記事を書いています。毎月第四水曜日に更新。担当者が異なります。

超歌舞伎『花街詞合鏡』

先日、Eテレ『にっぽんの芸能』で超歌舞伎『花街詞合鏡』が放送されていたので観てみました。これはニコニコ超会議2017において、中村獅童さん主演で上演された新作歌舞伎です。特色としては、舞台上にスクリーンを配置し、その中で、初音ミクや重音テトといったボーカロイド達が、「初音太夫」や「重音」として、舞台の上で俳優たちと一緒に「共演」するという所にあるでしょう。

昨今のCG技術の発達は、確かに目を見張るものであると思いますが、その活用という点で言えば、まだアニメーションという一つのジャンルの中に留まっているように思われます。その意味で、キャラクターが舞台の上で歌舞伎俳優と共演する、ということはとても意味あることだと思います。

通常、アニメーションの場合、スクリーンの内部で保たれる同レヴェルの虚構空間、すなわち「絵であるもの」が虚構の一つの階層を成しており(シャフトが制作した幾つかの作品など一部例外もありますが)、その内部において「絵ではないもの」、例えば実写映像(画像)は、その虚構空間の中で「絵であるもの」と並置することは出来ても、虚構のレヴェルにズレが生じるでしょう。いくらアニメーションにおいて、リアリズムを追求したとしても、背景や人物は「限りなく実写に近い絵」であり、「実写」とは明確に区別されるのであって、その虚構レヴェルにいきなり外部の実写を挿入すれば、虚構空間を階層化するような作用を及ぼすと思われます。(明らかに実写の写真を挿入しているような場面でも、恐らく違和が生じないように画像には何らかの加工が施されているはずですし、挿入される箇所も作品の虚構空間を維持する為に細心の注意が払われると思われます)むしろ、実写を挿入しやすいのは絶えずメタレヴェルについて言及しているような作品(『銀魂』など)だと思います。すなわち、キャラクターと俳優の共演は、アニメーションという表現媒体にこだわるのであればとても難しいことである、ということです。(これは、キャラクターの実存の発生、及びそれの認識プロセスの問題でもあるので、拙著『プロセスとしてのキャラクター』(ドゥルガ一号所収)を参照して頂くと、さらに以下の論点が明確になると思われます)

しかし、歌舞伎になると若干話が変わってきます。歌舞伎は女性が舞台に上がることが出来ませんから、女性は「女形」として男が女性を演じることによって舞台に登場します。女形の俳優は、化粧であったり、身振りであったりという「仮装」、「装い」によって女性になります。つまり、その俳優の本質は問題ではなく、その表層にある化粧や身振りが「女性」を形作り、役の性格(キャラクター)までも形作り、そして観客は、実際に演じる俳優の実存を通して登場人物を見るのではなく、舞台上で装われ、演じられる諸々の「しるし」を読み取ることによって舞台上の登場人物を認識するのです。無論、これは男性が男性の役を演じる場合にも、同様に起こることですが。

キャラクターも同じく「人間ではない」ものが人間を演じるために、装われ、人間と同じような身振りを行うという「しるし」を我々が読み取ることで初めて、そのキャラクターを認識することが出来ます。声優は、キャラクターの実存を担いはしますが、それはキャラクターに人間の「身振り」としての「声」を与えているという点においてのみであって、それは「演じる」ことであり、「装い」である以上、声優の個人的本質(実存)があまり重要ではありません。ここは混同してはならない点でしょう。

そのため、「キャラクター」と「歌舞伎における登場人物」は、それらが「装い」によって担われるという点において共通していることが明らかになります。初音ミクは「俳優」として、舞台で女形の俳優が花魁を演じる時と同じように身振りをすることによって、そこで初めて「女性」になるのです。それ以前の、概念としての「初音ミク」ではなく、我々が舞台の上で見るべきは、歌舞伎俳優達と同じように装い、演じるときに初めて現れる「初音太夫」なのです。

私は簡単に「舞台で女形の俳優が花魁を演じる時と同じように身振りをすること」と言いましたが、それは簡単ではないことで、キャラクターと俳優が違和感無く共演するためにスクリーンの配置に気を配らねばならないでしょうし、CGで滑らかに舞い踊る「初音太夫」は現在のCG技術の発達が可能にしていることでしょう。このような技術の発達と、「歌舞伎」という表現媒体をつねに発展させようとする熱意が、このような新しい表現手法を誕生させているのだと思いますし、このような試みは、アニメーションの側に還元され、新たなアニメーションのかたちを生み出してくれるのではないか、と密かに期待せずにはいられませんでした。

 

(錠)

 

chokabuki.jp

 

成瀬つながりで 『乱れる』『心が叫びたがってるんだ。』

たまたま成瀬巳喜男監督の『乱れる』長井龍雪監督の『心が叫びたがってるんだ。』を借りて見たら、『ここさけ』のヒロインが成瀬順だとは、知りませんでした。

 

 

乱れる [DVD]

乱れる [DVD]

 

 

 

 

『 心が叫びたがってるんだ』も『乱れる』も家庭に問題があり、本音を言えない人たちのお話で、どちらも単なるハッピーエンディングというわけではありません。男女の恋愛の結果という点でも案外似ているかもしれません。

 

『ここさけ』の成瀬順は無口キャラとカテゴライズされるのでしょうが、後天的な無口キャラというのはあまりいないのではないかと思います。

無口キャラといえば、例えば『エヴァ』の綾波レイや『涼宮ハルヒ』の長門有希が有名ですが、彼女たちは先天的に無口なのであって成瀬順の場合とは異なります。属性とは基本的に物語の端緒や中心事にはならず、それ一個で独立しているものである方が好まれます。なので実は成瀬順は厳密には無口キャラとは言わないのかもしれません。キャラクターと実存という点でみれば変わりゆく属性は実存的であり、その限りでそれは非属性と言える、とややこしいことを書きますが簡単にいえば、成瀬順は単なる無口キャラではないという事です。例えば『リトル・マーメイド』のアリエルが無口キャラとカテゴライズされないようにです。しかし、成瀬順のキャラデザはどう見ても無口キャラの典型的なものであり、無口キャラをすでにメタ的に捉えて物語に組み込んでいるのが面白いです。『森田さんは無口』なども同様にキャラの概念を前提に組まれているのだと思います。

 

この作品にもありましたが、最近のアニメはSNSを作中に登場させることも多く、その時の言葉と声優の演技の声の違いも考える対象になりそうですね。

 

成瀬巳喜男はここでは多く書きませんが、スピード感もあり、構図もよく、向き合わせるカットの多用や日本家屋の使い方、前景後景の動作などクオリティの高い日本映画でしたので是非。

(鯵)

 

いろいろなアニメの序盤だけを見る

こんにちは。

ブログを書くのは人生で初めてなので少し緊張します。指が滑る。

 

先日友人二名と夜通しでTVアニメの序盤だけ(一話か二話まで)を観る会をやってみました。

当然作品ごとの深いところには入れないのですが、並べてみることで何かわかることがあるかもしれない、ということで(実際のところそこまで誠実な理由があったわけではないのですが……)。

 

薦めたい作品から試しに観たい作品、(こう書くと失礼ですが)いまいち質に納得がいかなくて確認したいと思った作品まで、ジャンルもバラバラに6作品を選択。

見た順に、『ゆゆ式』『フリクリ』(これはOVAですね)『B型H系』『Wake Up, Girls!』『Re:ゼロから始める異世界生活』『たまゆら~hitotose~』となりました。アニメ(あるいは「深夜アニメ」)と一口に言っても幅があるよなあという当然のことを思わされます。

『WUG』と『たまゆら~hitotose~』はこれの前に劇場版やOVAがあるので正確には「序盤」とも少し違うのかもしれませんが、たまたま録画されていた新アニメを見るような気持ちで、という感じです。確かに前作を見ないと多少理解に穴は生じてしまうのですが、作品のねらいのようなものは伝わってきたのではないかと思います。

2010年代前半のものが中心ですが、その中で2000年の『フリクリ』の作画の質の高さがむしろ異彩を放つように感じます。画面比さえいまのものと違う作品ですが、会話のテンポやカットのキレは飽きることがなく、16年後の『リゼロ』と並べてみると両者の高質な作画が好対照をなしているのではないかと思います(双方質が高いのですが、2000年には2000年の見せ方が、2016年には2016年の見せ方があるのだろう、と思いました)。

 

取り立てて言うことではないのかもしれませんが、すべての作品に高校生が登場し、特にゆゆ式』『B型H系たまゆら~hitotose~』では高校入学が物語の契機となっていました。思い当たる作品はいくつもあるかと思います。メインの視聴者層を高校生ぐらいと仮定しているのか、高校生の微妙な関係・視野の広さ(狭さ)が物語を生むのか、たぶんどの方向へも進まない議論ですが、とにかく『ゆゆ式』の三人と『B型H系』の山田と『たまゆら~hitotose~』の四人が同い年に見えねえ……(笑)という話になりました。

 

なぜか写真(またはカメラ)の登場する作品が多かったです。たまゆら』シリーズは写真が物語の中核をなしていますが、『リゼロ』では主人公スバルがガラケーの写真機能を駆使して状況を打開しようとする場面がありました(『リゼロ』の異世界の文明は写真以前のようです)。『B型H系』ではヒロイン山田が「初体験の相手」にしようともくろむ男子小須田が自分の一眼レフを持っている描写がありますが、2話まで見た限りでは今後カメラがどういう形で使われるかはわかりませんでした。

常に流体であるアニメーションのなかであらわれる写真(として描かれる一枚絵)は不思議な感触を残します。当然、一枚絵の集積であるアニメーションと画像の集積である一般的な動画とは原理や関係は同じであるはずですが、実写動画のなかに写真があらわれるのとはまた違うものが生まれているように思います。アニメーションのなかで写真とされる絵は、絵でありながら写真であるという二重の要素をはらむところに糸口があるのかもしれないと感じます。

化物語』のような、果敢に「実写の」写真(画像)をアニメーションの画面に取り入れた作品などとも比べてみると面白いのかもしれません。

 

 

愚にもつかないことを書きました。私の方ではゆるめの日記に近い文章を今後書ければいいなと思っています(他の担当者におこられなければ……)。なにとぞよろしくお願いします。

 

(奈)