web版アニメ批評ドゥルガ

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アニメに纏わる記事を書いています。定期更新は毎週水曜日。毎週担当者が異なります。

「言葉の意味」の意味:なぜ外国語(なんか)をやるのか―『きんいろモザイク』#1から

自分がそのなかで生まれ育った言語、すなわち母語(≠母国語)があれば、それ以外の他者の言語(一般的に外国語と呼ばれますが、外国に存在する言語だけが母語と異なる言語であるとは言えません)も存在します。そのようなもともと自分のものではない(なかった)言語と、ひとはどのようにつきあえばいいのでしょうか。

おそらくそれはあまりにも多様で、概括することはおよそ不可能です。では範囲を狭めてみて、虚構のなか、たとえばアニメのなかで、外国語(本当は日本のアニメの場合なら日本語(共通語)以外の言語、としたいのですが、あまりに煩雑なので多少の語弊を承知で以下「外国語」とします)はどのように扱われているのでしょうか。

これも、たくさん例をみるほかないと思うのですが、ここではまずその思考の端緒として、あるいはテーマそのものに対する反例として、『きんいろモザイク』第一話を取り上げてみたいと思います。

 

 

きんいろモザイク』は、金髪少女が大好きで外国に憧れのある忍、日本が大好きなイギリスの金髪少女アリス、忍の友人の綾、同じく陽子、アリスの友人で日本人とイギリス人のハーフのカレンの五人の高校生活を主に描いたアニメです。「日常系」と言って間違いないと思います。ずいぶん前にこのブログで紹介しましたが、最近サービスが開始されたアプリゲーム『きららファンタジア』にも配信当初から参戦しています。

第一話で語られるのは、これから続いていく日常のプロローグとなる物語です。まだ中学生だった忍が、イギリスのアリスの家にホームステイすることになります。アリスの母は日本語も流暢に話せるのですが、のちに日本語をペラペラにして日本にやってくるアリスはまだほとんど日本語がわかりません(「こんにちは」「ありがとう」くらい)。忍に至っては「ハロー」以外の英語はまったくしゃべれません。「Thank you」も言いません(必ず「ありがとうございます」と言います)。彼女は物おじせずにどの場面でもほぼ日本語で話します。

したがって二人のあいだでは、少なくとも表面的な意味で言葉は通じません。しかもアリスはたいへんな人見知りだったので、忍とあまり話そうとしませんでした。一方忍は積極的にアリスに話しかけようとします。ある日、飼っている犬と一緒にアリスが外で遊んでいるところを見つけた忍はそこへ駆け寄っていきます。しかし犬が逆に忍へ駆け寄っていって、忍は水溜りに尻餅をついてしまいます。そうして忍はアリスに服やピンクの上着(おそらくセーター)を借りるのですが、そこで忍はその貸してくれた「お礼」を言おうと、借りた上着を羽織ってアリスの部屋へと向かいます。

忍は「ハロー」と言ってアリスの部屋に入ってきます。(英語は音声、≪≫はそのとき画面に出る字幕です)

 

忍  :(上着の肩の辺りを触りながら)これ、ありがとうございます、とっても暖かいです!

アリス:Arigato...Thank you? ≪ありがとう?≫

忍  :はい、ありがとうです。

アリス:Aren't you mad at me...? ≪怒ってないの……?≫

忍  :はい、とても暖かいです!

 

言葉は噛み合いません。二人の会話は妙にちぐはぐなまま、しかしこのことをきっかけに二人は仲良くなっていきます。ホームステイ最終日の前日の夜、アリスは忍の部屋を訪れます。

 

アリス:Can I sleep next to you? ≪一緒に寝てもいい?≫

忍  :ハロー!

 

アリス:What is Japan like? ≪日本ってどんな所?≫

忍  :ジャパン……日本? 日本はいま朝ですよ。不思議ですよね、ここはまだ夜なのに、もう太陽が昇ってるんです。なんだか私たちだけ、世界のはじっこに置いてかれてしまったようです。ふふ、こういう話は綾ちゃんが好きそうです。あ、綾ちゃんというのは……

アリス:(ひとりごとで)I hope I will visit Japan...some day. ≪いつか行ってみたいな……日本≫

 

やっぱり忍は英語をしゃべらないので(悪意からというより忍があまりにも天然すぎるということだと思うのですが、とりあえずアリスの言語すなわち英語に歩み寄らないのはどうなんだろうというのはここでは措きましょう)、会話は文字起こしをするとものすごくちぐはぐなことになります。しかし本編を見る限り、コミュニケーションが成り立っていないかというと、きっとそうではないと思うのです。彼女たちは言葉の外側、意味の外側で会話を成立させています。

そのことがもっとも端的にわかるのは、ホームステイの最後、忍がアリスの家を出発する場面です。淋しさを少し抱えながら、忍は車に乗り、アリスは家の前で見送ります。文字起こしした台詞では本当に伝わりにくいかもしれないのですが、想像で補っていただければ幸いです(できれば本編を見て下さるとありがたいです)。

 

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忍  :ハロー!

 

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アリス:Ko...Konichiwa---!!

 

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忍  :ハロー! ハロー!!

アリス:Konichiwa---!!

忍  :ハロー!!

アリス:Konichiwa---!!

 

二人が叫ぶのは出会いの挨拶であって、別れの場面で使うものではありません。だからここで重要なのは「Hello」「こんにちは」の本来の使い方や意味などではなく、本人たちが実際のところ何を伝えあっているかという、本来の意味とずれたところ、あるいはまったく関係ないところに存在しているものです。それを決定しているのは、おそらく文脈ではないかと思います。

単語の意味をすべて無視したコミュニケーションは成り立たないのかもしれませんが、それでも、言葉が伝達するものを決めているのはほとんど文脈なのではないかとときどき思うことがあります。たとえば、最近とみに使われだしたスラング「マジ卍」の意味を専門家が決めかねているというニュースのなかで、「マジ卍」の意味を訊かれた女子高校生が「意味なんてない。卍は卍。あるのは感情だよ」と答えたといいます*1。おそらく「マジ卍」に関しては文脈から切り離して意味を決めるのは無理なんだと思います。意味が決められないというのと意味がないというのが違うから専門家の方々は頭を抱えているのでしょう。こういったことは「マジ卍」に限った話ではなく、「やばい」「いみじ」といった特に強調語で以前からよくあることでしょうし、「言葉の意味」というのは簡単に、すくなくとも言葉で決めきるのはほぼ不可能なのではないかと思うのです。そう考えていくと、外国語というものに対する捉え方も微妙に変わってくるのではないか、とも思います。哲学や言語学の畑の方ならもっと深く考えている方も大勢いらっしゃると思いますのでこのあたりでやめますが、『きんいろモザイク』一話を観て思うのはそんなことです(変に思考をこんがらがせるくらいなら単純に見ればいいのかもしれませんが)。

 

今年はこういう、母語、日本語(共通語)以外の言語もはらんだ作品について、いろいろ見ていければいいなと思います。着地点どころか出発点もわからないような状態なので何かいいことが言える自信もあまりないのですが(上の『きんモザ』についてもまだ言えそうなのですが袋小路に入りそうで…)、とりあえず見るだけ見ていこうと思います。

気になっているのは、ドゥルガ二号で扱った『たまゆら』や以前の記事で取り上げた『ARIA』の佐藤順一監督がスタッフとして携わり、パリを舞台に日本少女が活躍する『異国迷路のクロワーゼ』(だから日本人のほうがカタコトだったりするのです)、主人公が他者の星の言語を少しづつ得ていく様子も描かれる『翠星のガルガンティア』などです。それから次の四月から放送予定の『ゴールデンカムイ』も楽しみです。まさか深夜アニメでアイヌ語が流れる日が来るとは。

日常系のくくりでは、夏に読書会を行った『映画けいおん!』が海外(ちょうどイギリス)に行く話でした。あのなかに出てくるイギリス人はネイティブの英語ですが字幕はありません。キャラクター達もあまり英語を理解できません。絶対的にわかりあえない他者が存在しないということがなかば暗黙の了解になっている日常系空間を少しだけ食い破っているようにも感じられます。

方言、というところまで拡張すると『咲-saki-』は面白いかもしれないと感じています。全国の都道府県の人物が登場するのに、方言を使うキャラクターは限定されているんですよね。

 

きんいろモザイク』は目の前にあるのがどうしようもなく現在なのになぜか「思い出」の存在を強く意識させる不思議な作品でもあります*2。日常系と時間・記憶の話はこれまでしつこいくらい書いてしまったような気がするのですが、気になったたびごとにまた何か言えればいいなと思います。

 

長くなってしまいました。それでは。

 

 

*画像はdアニメストアからのものです。

*1:毎日新聞、「マジ卍:意味や流行の起こりは? 専門家も「?」」2018年1月9日、

マジ卍:意味や流行の起こりは? 専門家も「?」 - 毎日新聞

*2:原作の最新8巻の初版には「おもいではぜんぶきんいろ。」と書かれた帯が巻かれていて、アリスたちが紅茶にマドレーヌを浸して食べるんじゃないかと心配になった、というのはただの悪い冗談です。

『デビルマン』を見ていたデビルマン。

多分『デビルマン crybaby』をみた方はこの記事みたいに物語的な話をしても大して面白くないと仰られると思います。実際、漫画版デビルマンと話はほとんど同じです。重要なのは映像表現で、フラッシュ特有の軽やかな演技、特にPVでも大きく取り上げられていた走りはかなり衝撃的だったのではないかと思います。2017年の秋アニメ『Just Because』の走る演技はアニメにおいて走るというのはどういうことなのか、というのを教えられますが、『デビルマン』においては人間的な走りとは違う、悪魔の走りにも注目です。
ただNetflixオリジナルなのは諸刃の剣というか、画像引用ができないので残念です。せめてオリジナル作品くらいは引用できるようにしてほしいですね。

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 はじめに

1月5日からNetflix湯浅政明監督のデビルマンが公開されました。湯浅監督は、昨年2017年のアヌシー国際アニメーション映画祭長編部門における最高賞、クリスタル賞に選ばれた『夜明け告げるルーのうた』を監督しました。「ルー」は全編がフラッシュアニメでつくられたと言われ、注目を集めました。日本のアニメーションの多くが作られたパラパラ漫画のような要領で作っていくセルアニメに対して、フラッシュアニメは一枚の絵をAdobeFlashというソフトで動かすアニメです。フラッシュアニメの作り方を紹介した動画が多く上がっているように、自主制作アニメを製作しやすい手法と言えます。

昨年流行った『けものフレンズ』はキャラクターをCGにしていたり、今流行りのヴァーチャルユーチューバーもほとんどCGアニメといっていいと思います。CGは技術的にいってフラッシュより難しいのだと思いますが、一度モデリングしてしまえば、流用できる範囲が広いので後々楽になるのでしょうか。いずれにしろセルアニメのように見せるためにCGを使うセルルックアニメの反対のことをやっています。CGを自然に見せるために手書きの絵を使っているという具合に。

フラッシュアニメの手法はアートアニメと呼ばれる主に短編のアニメに多く用いられていましたが、土井伸彰『21世紀のアニメーションがわかる本』の主張では、いまやエンタメとしてのアニメとの境界は明確に区分けできなくなっていているのだそうです。精力的に児童向けアニメや深夜アニメを製作してきた湯浅政明監督もまたその境界の境目にいると言えるのでしょう。

私は『ピンポン』や『四畳半神話大系』を見ていただけで、残念ながらまだ『夜明け告げるルーのうた』を見ていません。この二作もまたフラッシュを用いたアニメで、特に『ピンポン』には『デビルマン』と多くの類似点が見られました。それはまた今度書こうと思います。

 

 

21世紀のアニメーションがわかる本

21世紀のアニメーションがわかる本

 

 

デビルマン』を見ていたデビルマン

ほかのデビルマンとの違いは、このデビルマンが固有名ではないところと言えるとわたしは思います。つまりこのデビルマンは二番煎じなんです。湯浅監督は『ピンポン』でも同様にSNSを活用していますが、「デビルマン」のコメントのなかには、昔のアニメとしてのデビルマンが言及され、動画配信サイトにはデビルマンのOPが投稿されていて、話が進むごとに不動明知名度とともに昔のデビルマン知名度も上がっていっています。庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』とはこのあたり正反対で、「ゴジラ」というものが存在しない現代にゴジラが現れてしまう。昔、対談で庵野監督は自分のデビルマンとしてエヴァを作ったと語っていますが、それはここでは措いておきます。

そして決定的なのは飛鳥了が幼い頃に施設のテレビで「デビルマン」を見ていたと示されるところです。「デビルマン」は有名な作品で、漫画好きなら万が一読んでいなかったとしても、その物語を知っているはずです。暴走した人間にヒロインの首を串刺され、悪魔に半身を吹き飛ばされる不動明、そして神々の軍勢の降臨。このショッキングさは、しかし実は漫画版のもので、アニメでは悪魔と戦うヒーローとして描かれ、途絶しているわけです。湯浅監督はもちろん漫画版のシナリオを踏襲しているので、ここでも若干ねじれがあります。

なぜならアニメ版のデビルマンはテーマ曲こそ有名であれ、シナリオはほとんど記憶に残らない、それならSNSで騒がれるはずのデビルマンのラストはなぜ不動明たちの耳に入らないのだろうか、という疑問も湧きます。飛鳥了はアニメ『デビルマン』を見て、不動明デビルマンにした。(しかし、やはりここにもねじれがあって、アニメ『デビルマン』のデビルマンは、死んでしまった不動明に取り憑いた悪魔であって、人間の心は持っていないのですが)だから飛鳥了は物語の結末を知ることができなかったのだと、言えるでしょう。湯浅監督はなぜ『デビルマン』をメタ的に取り扱ったのにラストを変えることなく、描ききったのでしょうか? 確かに映像としては最高に盛り上がるラストで、結果としてできた映像も文句なしの出来だったとわたしは思いますが……たとえば庵野監督がナディアで宇宙戦艦ヤマトをリスペクトしたシーンを作ったり、シン・ゴジラの声を昔のゴジラ作品から持ってきたように、まず見る・聞く行為から作品づくりがはじまっていて、『デビルマン crybaby』もバトンリレーという形でそうした「継承」を表現してるのでしょう。しかし、この作品の終わりには継承というよりは、崩壊、カタストロフ的なものがあって、やはりバトンは落ちてしまったのか、などとも思ったりしました。

 

 

 

『アマガミ』の思い出

アマガミ』のネタバレ注意!

新年ですね。おめでたいです。そんなことより、Amazonプライムで『アマガミSS』と、『アマガミSS plus』が観られるようになっていて、とんでもなくめでたい、幸せな気分です。元アマガミスト(PSPが壊れた)の私としては、もう何度も観ている上に、聖地巡礼もしているので、もう一度観て、『アマガミ』に浸かっていた高校時代を思い出そう! と息巻いております。
 こんなに大好きな『アマガミ』ですが、今考えてみると、どうして『アマガミ』を買おうと思ったのかを思い出せません。PSP版を中古で買った時の、あの気恥ずかしさは憶えているんですけどね。多分どこかで実況動画を見たか、勧められたのでしょう。やっぱり人の記憶なんて、あてにならないものです。
 ですが、嫌な記憶となれば話は別で、忘れたいのに忘れられないという記憶を持っていると言う人は少なくは無いと思います。その記憶の内容は人それぞれでしょうが、「恋愛」に関する記憶を思い出したくないという人もいるのではないでしょうか。『アマガミ』の主人公もその一人で、彼(名前はあるのですが、設定でいくらでも変えられるのでここでは〈彼〉としておきましょう)は、中学生の時、好きな女の子をクリスマスイブにデートへと誘います。しかし、その女の子は約束の時間に現れず、その子へのプレゼントまで用意していた〈彼〉は、その後何年もこのことを引きずっており、挙句の果てに、このクリスマスイブの夜のことを夢にまで見てしまうのです。この一連の「記憶」は〈彼〉が乗り越えるべきトラウマとしてゲーム冒頭に示されます。これは「夢で見る」という偶然を装っていますが、プレイヤーにとってはプロローグとして必ず〈彼〉に想起させなければならない必然性を持ったイベントです。この「夢」と友人の梅原による言葉がきっかけで、〈彼〉は「クリスマスイブ(学園祭)までに彼女をつくる」という目標を自覚するわけですが、この「記憶」はそのためのきっかけと言えるでしょう。
この日からクリスマスイブ(学園祭)までの約一か月間を〈現在〉として、プレイヤーは一日に四回、同時に複数生起するイベントのどれを選択するかという形で〈彼〉を操作することが出来ます。そのため、先程のクリスマスイブの記憶はとりあえず〈過去〉の時間と呼んでおくことにしましょう。
〈彼〉はプレイヤーの選択に従って、〈現在〉の時間でヒロインとの恋愛を繰り広げることになりますが、その時間は限られていて、クリスマスイブまででどんな結末を迎えようとも〈現在〉は終わりを告げ、ヒロインと主人公のその後のことはエピローグという形、すなわち〈未来〉でしか明らかになることはありません。『アマガミ』における時間は基本的に、このような〈過去〉、〈現在〉、〈未来〉という三つの時間軸が存在します。これらを構成するイベントは常にゲームをプレイするプレイヤーにとっては現在ですが、ゲームの性質上、上記にあげた三つの時間の内のいずれかに分類されます。イベントの選択画面である行動マップを見ると、最初は行動マップが透明なのですごく分かりづらいものの、進めていくうちに中心部にプロローグ、すなわち〈過去〉があり、そこからヒロインたちのイベントが放射状に広がっていて、マップの周縁部にヒロインたちの各エピローグが散らばっていることがわかると思います。つまり、〈彼〉は限られた時間の中でヒロインと恋愛をし、期限が来て、〈未来〉をちらっと垣間見てしまえば全てを忘れて再び〈過去〉へと飛ばされ、恋愛をし、〈未来〉を見て……というループを繰り広げているようです。ちょっとメタなギャルゲーとかライトノベルなら、このループ構造を物語に組み込みそうではありますが、『アマガミ』はこうしたメタ要素には禁欲的だと言えるでしょう。少なくとも、ゲーム内の〈彼〉がこうした時間構造をメタ認知することはありません。
〈彼〉はゲーム内の〈現在〉で色んなヒロインと恋愛関係を持ちますが、基本的に同時に二人以上のヒロインを攻略しても、一回に観られるエピローグはひとつだけなので、最終的には攻略対象を一人に絞らなければなりません。すなわち、エピローグを観るためには、〈彼〉が主体的に行動する(しない)という選択をする必要があるということ、裏を返せば、一つのエピローグは現在において積み重ねた諸々の選択の集積の結果ということも出来ると思います。そのため、行動マップに散らばるひとつひとつのイベントは、様々なエピローグに向かうための小さな挿話であって(途中ルート分岐の為の星イベントがあり、これを経ることでルートが確定していきます)、それらの挿話が矛盾なく集積されることによって、ひとつのエピローグを迎えることになります。そのため、〈彼〉の自我は、〈過去〉において同一であり、〈現在〉における挿話同士でゆるやかに共有されていたとしても、どのような挿話を集積していくかによってその印象は全く違います。これはヒロインも同様で、主人公と結ばれるルートでも、どのような過程によってそうなるかによって(あるいはならないか)によって、ヒロインのキャラまでもが一変してしまうのが、『アマガミ』の面白いところでもあります。
ここまでは、ある意味恋愛シュミレーションゲームにおけるテンプレートな構造であるとも言えますが、敢えて『アマガミ』が虚構として優れているのは、「上崎裡沙」というキ隠しキャラクターの出し方だと思います。
このキャラクターは、主人公の〈過去〉、すなわちプロローグの原因である人物として登場する、ある意味黒幕的な存在です。彼女は小学生から〈彼〉のことを好きすぎるあまりストーカー化していて、本編では主人公の恋愛を妨害してしまいます。それでも攻略を進めていくと、彼女は中学生時代に主人公のトラウマとなっていたクリスマスイブの約束の時、〈彼〉の隙だった女の子に嘘の待ち合わせ場所を言うという妨害工作を働いていたということが明らかになります。これは、その女の子が、〈彼〉を馬鹿にするためにデートの約束を受けたという事情も重なってのことなのですが、とにかくこの隠しキャラクターは主人公の〈現在〉の原因である〈過去〉のキャラクターで、〈彼〉の行為の発端を成していると言えます。主体的な行為の根拠が、「苦手だった牛乳を飲んでくれた」だけで好きになってしまった女の子の行動という外在的な要素によって担保されていたということを知ることで、私たちは〈彼〉が紛れもない「物語」の中の人物であるということを知ります。
ギャルゲーというジャンルは「恋愛」を扱う以上、「時間」をどのように内容と形式をすり合わせるかが重要なポイントであり、『アマガミ』はその点で見てみると、非常に面白いと思います。

最後に聖地巡礼関係で、去年の三月に行ってきた銚子市の画像を幾つか紹介します。

銚子はアニメ版の聖地です。結構そのままの所もあれば、かなり変わってしまっている所もありました。昨年放送された『セイレン』の聖地でもありますし、銚子電鉄を中心に観光すると凄く楽しいのでこちらも是非。刺身丼が美味しいです。

(錠)

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俗に言う「七咲ブランコ」です。

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薫のバイト先。



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銚子ポートタワー。原作と異なって、水族館は併設されていません。エレベーターが地味に怖い。

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七咲膝枕の地

 

声だけの聖地巡礼―後藤明生「ピラミッドトーク」で幕張を歩く

椅子に座る仕事が連日続いていたのでそろそろ遠出したいと思っていたのですが、最近後藤明生の「ピラミッドトーク」を合評する機会があってちょっと歩いてみたいなと思ったので出かけることにしました。

 

首塚の上のアドバルーン (講談社文芸文庫)

首塚の上のアドバルーン (講談社文芸文庫)

 

 

短編「ピラミッドトーク」はこの『首塚の上のアドバルーン』の最初の一篇として収録されています。家になかったのでまず買ってからその足で出かけようと思ったのですが、近所の本屋を三軒回ってもなく、ブックオフにもなく、いちど新宿に出ることにして、そのあと二軒目の本屋でようやく発見しました。大して早起きだったわけではないのですでに正午を回っていました。三文の徳って本当だよなあと思いながら黄色い電車に乗ります。

マンションの14階に引っ越した語り手がその転居祝いとして、頂上を押すと女性の合成音声が時間を教えてくれるピラミッド形の時計、通称「ピラミッドトーク」を編集者の高田氏からもらうところから小説は始まります。ちょうど日航ジャンボ機墜落事故(1985年8月12日)が起きたときで、かい人21面相事件(1984・85年)の記憶もまだ新しい時代です。ちなみに初出は1986年5月号の「群像」なので、書かれた当時の時代の様相をある程度映していると言えそうです。マンションの場所は「そこの目の前の放送大学もベランダから眺めるだけ」とあることから幕張だとわかります(ちなみにそのあとの短編では地名が重要になっていくので「幕張」とはっきり書いてあります)。

小説のなかほどで、語り手はマンションを訪れることになった「吉沢氏」に電話で道順を説明します。これが一度では覚えきれないぐらい長く、ある意味詳しいといえば詳しいのです。

 

約半年の間に私は、何人かの来訪者に駅からの道順を電話で説明した。ほとんどが仕事のための来訪者で、すでに何度も会っている人々であったが、一度は説明しなければならない。電話は数日前のこともあり、前日のこともあった。電話の度に私の説明も次第に要領よくなってきたようである。 

 

というわけで、いま、後藤明生の案内音声にしたがって、駅から彼のマンションにたどりつくことを試みようと思います。

 

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各駅停車のみが停まる総武線幕張駅からスタートです。2017年のいま「幕張」と聞いたとき「幕張メッセ」「幕張新都心」といった現代的な街並みを思い出すことも多いと思うのですが、幕張駅から見える建物はどれも丈が低く、空が広いです。

 

国鉄の駅の南口、つまり海の方へ出て階段を降りて下さい。 するとタクシー乗り場があります。いつも二、三台停っていて、田舎ふうの中年の運転手が車の外で煙草を喫ったりしていると思いますが、そうです、もちろん乗る必要はありません。そのタクシー乗り場のすぐ前から商店街になっています」

 

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タクシー乗り場はありましたが、タイミングなのか時代の流れなのかタクシーは一台も停まっていませんでした。商店がまばらなので写真だとふつうの街路と違いがわかりにくいですが、たしかに商店街はあります。お昼時に南へ歩いているのでどうしても逆光です。

 

そうです、どこにでもある、古くさい田舎ふうの商店街ですが、とにかく道の左側を歩いて下さい。少し行くと電車の踏み切りがあります、そう、そう、京成の踏み切りです。 

 

「田舎ふう」かはわかりませんが、古いお店がそのまま残っているような印象はあります。

 

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京成千葉線の踏み切りです。総武線ほどではないにせよ古くからある路線のようです。

 

それを渡るとまた商店街で、間もなく歩道橋があります。旧千葉街道の歩道橋ですが、これは大して広くありませんし、登らずにそのまま信号で横断した方が便利です。 

 

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歩道橋の下の信号は「自動車専用」となっていて車両用の信号機と自転車用のレーンしかなく、「歩行者は歩道橋を通行してください」という看板もあったのですが、実際のところ信号を待っている人は普通の歩行者も多かったです。信号の方が便利なのは言う通りという感じがします。

 

そうです。それで、その一つ目の歩道橋が商店街の切れ目でして、そこを過ぎると、がらりと眺めが変ります。道幅が急に広くなり、ぽつんぽつんと喫茶店や食堂みたいなのがあったり、車のショールームのようなものやらマンションやらがあったりします。 

 

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確かに。

 

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写真だとわかりにくいのですが、中央に写っている建物に「放送大学」の文字が見えます。赤と白の鉄塔も放送大学のものです。

 

そう、そう、何だかとりとめのない、子供が画用紙に描いた地図というか、出来かけのニュータウンというか、そんな感じの風景ですが、とにかく、そのまま左側を歩いて来て下さい。そうしますと右手に真白い壁のバカでかいマンション、左手にバカでかいNTTのビルがあり、これまたバカでかい歩道橋にぶつかります。この二番目の歩道橋は登って下さい。

 

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「真白い壁のバカでかいマンション」「バカでかいNTTのビル」は見当たらない……時代が変わったんだろうか? でもこれは確かに「バカでかい歩道橋」ですね。

 

六車線で、中央に植え込みのあるかなり広い自動車道路ですから。そして、その歩道橋に登ると、そこから前方左手に、十八階建てのハイツが四棟、コの字形に建っているのが見えます。そうです、そうですね、色はダークグリーンということでしょうかね。

 

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んん……? コの字形のハイツは見えません。というか六車線なのかもわからないし、これは湾岸道路では……?

 

それで歩道橋を降りますと、左手は広い空地で、どこの土地なのかわかりませんけど、高い金網の柵がめぐらしてあります。その金網沿いに歩いて来るのですが、ところどころに車が停っています。本当はそこは歩道なんですがね、あ、そうか、吉沢さんは車は詳しかったですね。そうだな、乗用車が二、三台、それとライトバンみたいな車もあったかな、とにかく金網沿いに車が五、六台置いてあります。それで最初は、ひどい駐車違反だなと思っていたんですが、どうやら、そうではなくて捨てた車らしいんですね。そう、そう、粗大ゴミ、それですよ、まさに。粗大ゴミの車です。捨てるなら金網の中の空地に捨てればと思うんですが、入れないんでしょうね、おそらく。

 

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空き地ではなくて立派な施設が建っていますが……

 

それで、その金網の空地を通り過ぎると、もうすぐです。約百メートルくらいで、左側にこのハイツの入口があります。入口の門は道路に面してまして、建物は約五十メートル奥になりますが、入口を入って真正面の棟です。その真正面の棟の一番左端の、あれは何というのですか、玄関でもないし、ポーチというんですか、ちょっと出っ張った部分。そうです、その一番左手のエレベーターに乗って下さい。そう、十四階です。エレベーターは、各階の二軒専用式ですから、十四階で降りれば、すぐ左、いや右側かな。とにかく降りれば右か左かの二軒だけですから、すぐわかります 

 

以上で案内は終了です。

 

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それらしい建物にあたる前に京葉線の高架(ちなみに1986年3月開業)が見えてきてしまいました。「湾岸の向うの新国鉄京葉線は来春開通でしょう」という台詞があるので、幕張駅から歩いた場合は語り手宅→湾岸(湾岸道路)→京葉線、の順にならないといけないことになり、つまり行き過ぎたことになります。見事に失敗してしまったわけです。

何が悪かったのか。あとでストリートビューなども駆使して調べてみたところ、最初の自転車専用信号があった歩道橋を「バカでかい」「二番目の」歩道橋と考えれば辻褄が合いそうです。確かにその歩道橋があったのは「六車線で、中央に植え込みのある」道路でした。その先の左手に金網の柵のある空き地もありますし(放置車両はともかく)、道路に面したハイツもあって、そこが実際後藤明生が住んでいた場所であるようです。「一番目」の歩道橋は撤去されたのか、よくわかりませんが、あったとおぼしき交差点は歩道橋の跡どころか設置しうるスペースがありそうになく、道路も片側一車線だったので完全に気づきませんでした。「旧千葉街道」というところとかをヒントにしていればたどりつけたかもしれません。

こうして失敗してみて(ひどいレポートになってしまってえらい申し訳ないですが)思うのは、これまでの聖地巡礼は図像と地図に頼りきっていたというごく当たり前の事実です。言葉というものが不確かすぎるのです。地図を使うのは効率の問題なので措くとしても、アニメの聖地巡礼であれば対照する図像があるので、それと見比べて(あるいは思い出しながら)街を歩けばさしたる苦労はないし、「あっ、ここか!」と思う場所がいくつもあるかと思います。もとがただの言葉の場合はどうしても確信が持ちきれません。ひどい場合(たとえば今回のような場合)だと取り違えも起こるでしょう。

それにしても、実際に歩いて気づくのは、こんなにくだくだしい説明をしていながら道はものすごく簡単だということです。なぜなら一度も曲がらされていないからです。おそらく本当に要領のいい説明なら「駅の南口から1kmくらいずっとまっすぐ行くと左手に○○ハイツがあるのでそこの14階です」でも事足りそうです。すごく複雑そうな道をたどっていながら実は一本線だった、というのは、また『首塚の上のアドバルーン』を読み返した時に反映されるものがありそうです。

 

余談。

 

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京葉線海浜幕張駅。『Fate/staynight [Unlimited Blade Works]』で冬木市の新都として背景に使われたらしいです。Fateシリーズだと神戸にある赤い橋が聖地として有名ですが、土地性にこだわった一部のアニメをのぞく多くのアニメがそうであるように、現実の風景をつぎはぎ的にもってきてひとつの虚構都市を作っているわけですね。新都心という名前のとおりの現代的な街並みはたしかに作品と合致しているように思えます。駅周辺のマンションはどれも高くて、きっと三十年前といまとでは「バカでかい」の基準も違っていたんだろうという気がします(その辺も取り違えの原因である気もします)。

千葉だと『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』『きんいろモザイク』ほか多数聖地があるみたいですのでまたいろいろ行ってみたいですね。

 

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「ピラミッドトーク」では「人工海水浴場」となっていた幕張の浜。看板を見る限り「海水浴場ではないので遊泳禁止」であるようです。時代を経て方針が変わったのでしょうか。千葉のコンビナートから東京の湾岸の建造物、おそらくその先に川崎のコンビナートも見えました。スカイツリーや富士山もくっきり見えました。三浦半島は地勢的に難しそうではあります。

 

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首塚の上のアドバルーン』の首塚、馬加康胤(まくわりやすたね)の首塚と伝えられているという塚です。埋立地とはうって変わった傾斜地の中腹にあります。まわりもほとんど一軒家です。

 

というわけで年内の更新はおそらく最後です。どんな一年でしたでしょうか。アニメ的にどうだったのかというのは正直私にはわかりません。『けものフレンズ』が今年だったときいて驚いたくらいです。もうはるか昔のことのよう。

あんまり見てない人間が言うことでもないのかもしれないけれど、あとから見返したとき、もしかしたらそれこそ三十年後とかで、いま見ても面白いとか、こういう時代だったんだなとか、そう思えるアニメがいくつかでも残っていたら嬉しいなと個人的には思います。たとえば三十年前のアニメの聖地巡礼をして(よほどの物好きという感じですが)、虚構の風景と現実の風景のずれに気づくといった体験は、もしかしたら面白いのかもしれないと思います。

長くなりました。今年もドゥルガの記事を読んでくださり、まことにありがとうございました。よろしければ、来年もなにとぞよろしくお願いいたします。

 

 

*「ピラミッドトーク」からの引用はすべて後藤明生首塚の上のアドバルーン』(講談社文芸文庫、1999)によります。

*その他当時の出来事の年月日などはWikipedia等を参考にしたため、不正確な可能性がゼロではありません。申し訳ありませんが文献にあたる時間がありませんでしたのでご容赦ください。

 

(奈)

『輪るピングドラム』~石田美紀「3でつながる輪」を読んで~

輪るピングドラム』はウテナで有名な幾原邦彦が監督して2011年に放送されたテレビアニメです。今年になって雑誌「ユリイカ」で幾原邦彦監督が特集されて知った方も多いのではないでしょうか。私は『空の境界』の作者である奈須きのこのインタビューが載っていたので、そこだけ読んで放置していたのですが、先日『ピングドラム』を見て、これはいい評論があるのでは! と思い再読し直しました。

 

 

 

いいタイトルですよね「僕たちの革命と生存戦略

わたしには、ピングドラムに対する奈須きのこの一言に実感めいたものがあって、引用しておきます。

生存戦略という言葉は自然界において当たり前の言葉ですが、それをペンギンの恰好をした美少女が言うと、ものすごいパワーワードに聞こえる。生きるのがどんどん易しくなっているこの世界において、高校生二人に生存戦略を突き付けて、「このままただ生きていると、生きていたことが分からないまま死ぬ。おまえたちは何者にもなれない。でも、何かを探せ」と宣言する。かっこよくて、何十回見ても飽きなくて、それでいて大事なバンクです。 

 バンクというのは、たとえば変身ヒーローものの変身シーンを想像していただければいいと思います。『ピングドラム』の場合は変身するのは司令官的な立場の人で、実働者はそのままなんですが、とてもポップなのに格好いいんです。ARB「Rock Over Japan」のカバーがBGMで、「何者にもなれないお前たちに告げる」と拘束された二人の高校生へ、命令するんですが、それはとても抽象的で殆ど内容がないんです。そう言った意味でも普通のバンクシーンとは全然違うんですね。なくたって成立するはずなんです。だって実際に戦うわけじゃない司令官が変身するのに何の意味がありますか? ジャムおじさんとバタ子さんのバンクシーンを毎回見せられているようなものです。

幾原邦彦セーラームーンや、ウテナでも同様に魅力的なバンクシーンの形成に成功しているわけですが、『ピングドラム』は群を抜いて凄いです。というのも「ユリイカ」に掲載された映像文化論の石田美紀「3でつながる輪」でも指摘されている通り、3が2になるという作品全体の目的=終わりを預言しているからです。本当の意味で「絶対運命黙示録」なわけですが、しかしそれはもう少し込み入った話になります。

 

 

 

 

ここからネタバレ!ですがご了承ください。

 

 

 

石田は『少女革命ウテナ』に現れる様々な表層——「薔薇の花嫁」「ディオスの剣」「世界を革命する力」などの刺激的なフレーズや、リアリズムに囚われない演出など——の複雑さに対して、二者間の対であることを本質に据えている、と指摘する。

たとえば物語が「決闘」という何かを賭けて戦う二人によって形成される形式によって進行し、それに対応するかのように人間関係という内容もまた、王子様とお姫様、兄と妹、婚約者という二者関係を構成し、物語の結末もまたその二者構造を引き継いでいるのだ、と。

しかしむしろここで捉えられるべきなのは三角関係から二者関係への移行ではないだろうか。つまり『ウテナ』の場合においても、『決闘』は単なる二者間の戦いではなく、賭けられた何かによっても形成されているのだ。確かに『ウテナ』における「対」の主題は強調されるが、しかし同時に『ピングドラム』に現れる三角が『ウテナ』においてすでに潜在していたのではないだろうか。この三角というのは、男女恋愛的三角ではなく、「家族」的なものとして『ピングドラム』に出現したのだ、と言えるのではないだろうか。

と書いてみて話がややこしくなってきたのを感じてきました。つまり有名な西洋の排除=選別の理論を凝縮した三角関係とは異なる「家族」という(もちろんオイディプス的ではない)三角関係を描いているといえば一文で済むのですが、何だか『ゲンロン0』的な話になりそうですね。

ここでいう「家族」は、時籠ゆりの「父と母と娘」ではなく、桃果が運命を書き換えた後に形成された「桃果と多蕗と時籠」という括弧つきの「家族」である。もちろんこれは石原が指摘している通り、「冠葉と晶馬と日毬」はもちろんのこと、「真砂子とマリオと冠葉」、「日毬と晶馬とサンちゃん」と増殖していく。その系の一つである眞悧と二匹の闇うさぎ(自分の分身)は閉じた三角であると指摘されているが、それもまた桃果による運命の書き換えの際に起こったことである。

石田も気付きながらあえて書かなかったのはこの作品におけるキリスト教のモチーフで、繰り返される三位一体に加え、運命の果実である林檎(=知恵の実)、運命を記した日記=黙示録などなど。しかし一話の冒頭で『銀河鉄道の夜』を引用しているように運命の果実は宮沢賢治の信奉した法華経の影響も考えられる。

ところで、『ピングドラム』は1995年の地下鉄サリン事件とセットで考えられるわけですが、なんとなく違和感があるのはどうしてなんでしょうか。オウム真理教の「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という自身の死と世界の死を重ねるような終末論に対して『ピングドラム』ではそのような世界観がどのように描かれているかが重要だと私は思います。

銀河鉄道の夜』の解釈をする二人の少年の「死んだら全部おしまいじゃん」「そこからすべてがはじまるんだって賢治は言いたいんだよ」という会話はとても紙一重ではあるが、オウム真理教の信条への返答になっている。二人の、そして桃果の自己犠牲が、賢治が属していたあの全体性への志向に通じてしまうのではないだろうか。

「人は死ぬ。死は避けられない。お前たちは何者にもなれない。それならお前たちの死を意味あるものにしろ」

もちろんですが、『ピングドラム』はそういった話と紙一重ではあるけれど、そうではないわけです。最終話で「底なし」な星空を背景に歩き続けるように、彼らは生存戦略に打ち勝った?わけですから。打ち勝ったというのが正しい表現かはわかりません。運命を乗り換えたことで誰も死んではいないのだから、勝利!という感じもしません。

話を戻しましょう。

三角関係のなかでも二つに大別することができる。「恋愛の三角関係」と「家族の三角形」である。これらは「欲望の三角形」と「オイディプスの三角形」と言い換えられるだろう。そして『ピングドラム』はこの二つを変形し、あたらしい「家族」の三角形をつくっている、と言える。恋愛や家族を法外に拡大することによって、他の三角形と接続し、増殖させて、二つの三角関係を奇妙な形に変えてしまう。たとえば荻野目苹果(りんご)は、多蕗と時籠の恋愛的な二者関係に加わることによって、自分の家族を再構成しようとする。苹果の場合は目的がいまだ「回復」にあるが、それとは逆に「冠葉と晶馬と日毬」の三角形はそれ自身において複雑でありながら、さまざまな三角形と接続していて、目的も定かではない。冠葉は恋愛にだらしなく、女性との間に三角関係を増殖させ、「被害者の会」がつくられると、真砂子が介入し、勢力的な三角形がつくられる。同時に「真砂子とマリオと冠葉」という家族の三角形が明かされると、「祖父と真砂子とマリオ」の三角形が明示される。しかしこれは「父と母と晶馬」や「父と母と時籠ゆり」のようなオイディプス的な家族関係、父(母)が有罪であり、私もまた有罪である、という神経症的なタイプに含まれる。そしてこのオイディプス的な三角形はいずれも社会に接続されている。真砂子の祖父は権力者であり家督争いに巻き込まれ、晶馬の父と母は事件の容疑者として見なされ、時籠ゆりの父は巨大ダビデ像によって東京を監視している。つまり単に想像的な強迫観念ではなく、さまざまな権力と接続するのであり、それもまた他の三角形の一点になりうるのだが、しかしこれらのオイディプス的な三角形は断絶された状態で物語は始まるのである。そしてそれを「回復」する目的をもって行動する苹果に加担することで、過去の記憶によってオイディプス的な、起源的な三角形に回収され、増殖した三角形が閉じてゆき、結果として二者関係を残すことになる。「苹果と日毬」「多蕗と時籠」「真砂子とマリオ」「冠葉と晶馬」といった二者関係はそれぞれ一点の不在によって成り立つのである。

バンクはそういった三角関係から二者関係への移行を描いています。

石田は「人間同士のかかわりの不思議さを力に変える『輪るピングドラム』が二〇一一年に放映されたのは意義はけっして小さくないのである」と論を結んでいるが、それは不思議な共同体である「家族」が最終的には忘却された不在によって成立していて、その不在がまさしく眞悧の言う「この世界に何も残せない」存在であるのだろう。

スプートニクの恋人』のデタッチメントとは対蹠的な増殖と接続の三角形が閉じられるところで物語が終わりを迎えるのは、現状を見るとなんとも皮肉めいている気がする。

(中澤)

天空から宇宙へ

紅の豚 [Blu-ray]

機動戦士ガンダム 逆襲のシャア

私たちが空を仰ぎ見るとき、その向こう側に神話の世界が広がっているとは考えないのかも知れない。いくら向こう側に「未知の物質」や「UFO」があるのだと言ってみたところで、それを言わしめる想像力は私たちの足元から地続きで繋がっている。もはや「空」と「宇宙」の違いを、我々は地上からの距離や酸素濃度にしか認めないのだろうか。そうだとすれば、少しばかり寂しいような気がする。

 


 『機動戦士ガンダム』(特に「宇宙世紀」のシリーズ)を見ていると、やはり「宇宙」と「空」に対した違いはないように思える。むしろ、物語的に問題となるのは、「宇宙」と「地球」の対立であるのは明白であろう。それは「宇宙世紀」における中心的なキャラクターである「アムロ・レイ」と「シャア・アズナブル」という対にも現れている。物語はこの二人のキャラクターを同時に中心とする楕円的な構造を持ち、時に物語内に別の中心を引き入れつつ、「戦記」としての一貫性と、それぞれの人物のエピソードを描くという物語の上での膨らみを同時に演出している。
虚構内容に留まって考えるならば、彼ら二人は、二つの貴種流離譚の主人公であるという点において、「物語の嫡子」であるということが出来るだろう。アムロ・レイ*1は、地球連邦軍所属の父を持ちながらコロニー暮らしであり、ジオン軍の侵攻に伴って、「難民」となってしまう。 すなわち、地球に住むための正当な権利を持ちつつも、そこから疎外されている。シャア・アズナブルの場合はもっとわかりやすい。彼は元々ジオン共和国の首相であったジオン・ダイクンの嫡子でありながら、側近であったザビ家によって国を追われた身であり、名前を変えてジオン公国の兵士となるである。
このように、楕円状に形成された物語は、相対化された二つの貴種流離譚を内に含んでいるが、そこで描かれる対立は地球/宇宙という二元的な分割を直接の起源として持つ。
それならば、むしろ地球と宇宙の対立のパラフレーズとしての、空と宇宙の対立は重要ではないかという疑問が生まれるかも知れないが、そのように問いを立てるのはまずい問いの立て方である。地球と宇宙の対立は、背後に特権化された「地球」 の存在*2がある。まさしく、両者の対立は特権化され、制度化した「地球」によって保障された対立であろう。だからこそ、『逆襲のシャア』において、シャアはわざわざ地球が引力を持つということを語り直さねばならなかったのだ。

 


「空」が対立の構図としてではなく、まさしく「底なし」であるということに触れたのは、『紅の豚』のマルコにおいて他ならない。
彼が「豚」になるということは、物語内において、彼が唯一人物語から疎外されているということを示している。『紅の豚』の中での物語的対立は、まずマルコという「賞金稼ぎ」と「空賊」という形で現れる。だが、次第にその対立は、マルコへの陸軍からの取り締まりという形を取って、それが全く正当性を持たないということが明らかになり、今度は「イタリア政府」(空軍)とマルコという対立で現れて物語の表層に現れてくる。しかし、それもまたマルコは自らが「豚」であり、人間の法からは疎外された存在であると表明するのだから、このような対立も見せかけに過ぎない。もっぱら、物語の中心的として、マルコを対立軸の片方に置くことを、基本的に『紅の豚』の作中では許されていない。その意味で、『機動戦士ガンダム』シリーズとはいささか事情が異なっている。
では「マルコ」とは何なのかと問われれば、「キャラクター」であるとしか答えようがないのだから、困ってしまう。マルコというキャラクターは如何にして可能となるのだろうか。
マルコははじめから「豚」であったわけではない。勿論、映画の冒頭では既に豚だったのだが、彼は冒頭の時点で過去を既に縮約した形で保持していて、それが冒頭に豚という形姿を取って現れている。このことが示唆されるのは、中盤においてマダム・ジーナと会食する場面だ。ここで二人の会話に上がるのは、二人の飛ぶことを巡る過去である。このとき、ジーナは飛行機乗りばかりを夫にしていて、その夫となった人物は事故で死んでしまうということや、マルコはそんな中でひとり生き延びて今でも飛んでいる存在だということが明らかになる。この時、若きジーナとマルコを写したと思しき写真では、マルコの顔が黒塗りにされている。このとき、私たちは「飛ぶこと」と「死」が密接にここで関わっていることに気づく。
このことが直接的にマルコの口から語られるのはカーチスとの決闘前夜にフィオへ語った戦争の時に自身に起こった不思議な体験を通してであろう。
彼がその時に見たと語る「天空」は、敵味方がひとつの「星雲」の流れとして混ぜ合わされていく様であり、そこでは全てのイデオロギー的対立が無根拠であることを露呈させるような「底なし」の「天空」である。この空は「飛ぶこと」の限界であると同時に、そこから隔てられている限りにおいて「飛ぶこと」が可能となるような彼岸として示されている。マルコは、このような、「飛ぶこと」と「死」が重なりあう空間の中で、「飛ぶこと」を保証するものは何もない。「飛ぶこと」はどのようなイデオロギーによっても正当化され得ない「無根拠」なものであることに、気づかざるを得ない。マルコにとって、飛ぶことという行為はあらゆる社会的関係から隔絶され、彼の飛行する正当性を保証するものは何も無い。
マルコが「豚」であるのは、彼にとって「飛ぶ」という行為があらゆる人間的、社会的関係から疎外された行為であるからである。「飛べない豚はただの豚だ」というあまりにも有名なセリフで彼が吐露するのは、マルコにとって「飛ぶこと」はキャラクターとしての限界であるのだが、それと同時に彼は「飛ぶこと」によってしかキャラクターたり得ないということである。
紅の豚』において、人間であるということは、飛ぶことに何か目的を持つことだ。国のため、金の為、プライドの為……マルコははじめ、そのような対立からは疎外されているために「豚」なのであって、見た目上の差異は物語的対立によって裏付けることが出来ないものである。だが、その差異の解消、すなわち、マルコの形姿が人間に戻すことは、唯一物語だけが可能である。最後の決闘は、フィオを媒介とした物語への積極的な加担によって成り立っている。

 


 「逆襲のシャア」では、やはり地球と宇宙という対立が物語的な対立であるのだが、それは二つの相対的な貴種流離譚として同時的に描かれているために、『紅の豚』とは異なる形であるが、それらの対立が絶対的なものではないということが明らかになっている。しかし、諸対立がひとつに混ぜ合わせてしまうような彼岸としての境界を、地球と宇宙との間に見出すことは出来ない。
 そのせいで、物語は特権化された地球を中心としながら不断に対立の構図を書き換え続けるしかない。アムロやシャアはその書き換え続けられる制度の変動の中にいる。「宇宙世紀」という年号が付かなくてはならないのは、このような変動を超越的に保証する特権的な地球が要請するものだ。そのために、「機動戦士ガンダム」シリーズでは、変動する制度の中で唯一価値の変わることのない「ニュータイプ」という特権的な属性を置き、彼らが社会的な関係から離脱して物語的な関係へと抽出されてゆくことが求められる。だが、この構図も「地球=オールドタイプ」と「宇宙=ニュータイプ」という対立の構図に回収されてしまう。だが、物語的な対立は常に装われたものであるのだから、そのような対立の中に巻き込まれたアムロとシャアはニュータイプ同士で憎しみ、戦わなくてはならない。二人は物語という「メビウスの輪」に囚われ続ける。

 宇宙から地球を見れば、確かに境界線は引かれてなどいない。境界はいつも人が作るものだ。「物語」はそのような対立を創り出す装置である。しかし、そのような境界の中にあって、ひとつ「死」を巡る限界だけは、いくら人間が新たな「物語」を発明しようと、作為的に定めることは出来ない。物語が「死」を越えることは出来ないのだから。「天空」はそのような彼岸を指し示すように思えてならない。このことは宇宙を描くことによって飛び越せるものではない、ということをアムロとシャアによる「対話」が存分に物語っている。

(錠)

*1:アムロ・レイを「貴種」に大別することに抵抗があるかも知れないが、地球に出自を持つ者が、宇宙において特権的なマイノリティを形成していることは明らかであり、そのような特権的マイノリティを分有するはずの人物が、宇宙においてマジョリティに紛れて暮らしており、且つそこを追われて宇宙を「放浪」することを強いられるのは、充分「貴種流離譚」の変奏であると言える。

*2:「特権化された地球」は惑星としての地球そのものとは異なっている。宇宙に散らばる惑星の中のひとつとしての物質的な地球と、物語的な根拠としての「地球」は「機動戦士ガンダム」シリーズにおいては重ね合わされているが、ここでは別様なものとして考えなくてはならない。

『カフカ マイナー文学のために』について

フランス現代思想シリーズ第二回目!

今回は、今年十月に待望の宇野邦一の新訳が法政大学出版局から出版されたジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの『カフカ マイナー文学のために』について書こうと思います。

 

 およそ四十年ぶりなんですね!

 

カフカと言うと不条理とか、アンガージュマンとかを想像されると思うのですが、そういったカフカ理解というのは戦後フランスにおきたカフカブームが発端で、カフカ紹介者であるマックス・ブロートは1948年時点で真っ向からそれに反対し、カフカを自身のシオニズムに取り戻そうと本を書いています。日本では中島敦が訳したので有名ですね。現在でも青空文庫で『フランツ・カフカ 中島敦訳 罪・苦痛・希望・及び眞實の道についての考察』が読めます。その後は、安部公房倉橋由美子小島信夫後藤明生古井由吉金井美恵子保坂和志磯崎憲一郎佐々木中など多くの作家に影響を与えています。フランスでは、サルトルカミュ以降、エドモント・マニー、モーリス・ブランショ、マルト・ロベール、ミシェル・カルージュなどの変遷を経て、ドゥルーズガタリの『カフカ』が書かれました。デリダも書いてますね。

注意すべきはアンガージュマン、不条理のカフカ像はマルト・ロベールが終らせているということです。

 

カフカ (1969年) (晶文選書)

カフカ (1969年) (晶文選書)

 

 

 

起源の小説と小説の起源 (1975年)

起源の小説と小説の起源 (1975年)

 

 

ロベールは、しかし精神分析の理論、フロイト

ファミリー・ロマンス(本当の父親、母親を求めて旅立つ物語)

の概念を推し進め、小説を「私生児」と「孤児」のものと大別し、自分の起源へ立ち向かうものだとしてしまいました。

ロベールについては、このブログでもたびたび参考にしている大塚英志、の『キャラクターメーカー』で少し触れられています。

 

そういった象徴解釈、意味作用、起源への回帰を徹底的に批判したのが『カフカ マイナー文学のために』といえるでしょう。主体や対象の同一性への回帰、閉じられた構造、象徴の解釈学を批判し、みずからの概念である機械、リゾーム、地図、アレンジメントといった、さまざまなものに接続し、断絶し、たえず対象から対象へと移動する欲望としてカフカの作品をとらえています。多数にある入口のどこから入れば、どのようにその地図は変わってしまうのか、と彼らは言います。

 

作者論でありながら読者生成論でもある、この奇妙な評論は「マイナー文学」という新たな概念をつくりあげました。マイナー文学とは単にマイナーな主題を扱ったものだったり、マイナーな言語によってつくられたのではなく、メジャーな言語のなかでいかにマイナー化するか、メジャーな主題のなかでいかにマイナーになるか、というメジャーをマイナー化するプロセスである、というのは先日の神戸映画資料館で行われた宇野邦一さんの発言の意ですが、本のなかではこのように書かれています。

 

マイナー文学とは、マイナー言語の文学のことではなく、むしろメジャー言語のなかにマイノリティが生み出す文学のことである。(……)第二の特性は、その中ではすべてが政治的であるということだ。「大規模な」文学においては反対に(家族や夫婦などの)個人的事項が、同じく個人的な別の事項と合体する傾向があり、(……)マイナー文学はまったく異なって、その狭い空間では、それぞれの個人的事項がそのまま政治に繋がるのだ。(……)第三の特性はあらゆることが集団的価値を帯びているということである。

 この三つの特性を「言語の脱領土化」「個人的な事項が直に政治的事項につながるということ」「言表行為の集団的アレンジメント」というふうにまとめています。

なんのこっちゃ? って感じですが、諦めずにカフカの状況を例にとって把握してみましょう。

カフカハンガリーオーストリア二重帝国のプラハにてユダヤ人として生まれました。彼の書く言葉は、しかしプラハで常用されているチェコ語ではなく、支配階級側のドイツ語でした。このような三重の状況に彼は生きていたわけです。

チェコユダヤ人でありながらドイツ語話者という状況(ホーフマンスタールも似たような状況な気がしますが)においてまず書く言葉を選択することは、すでに政治的な状況につながります。土着的なチェコ語、あるいはユダヤ劇団で用いられたイディッシュ語といったマイナー言語を使うのではなく、ドイツ語という機械に誤作動を起こすこと、メジャー言語をマイナー化することにつながります。それはメジャーのなかに新しいマイノリティの集団をつくるということになります。いままで接続されていなかった機械に接続し、いままで癒着していた機械と断絶することによって、まったく違う配列(アレンジメント)をつくりだすことにつながるわけです。

 

つまりマイナー文学はいままでの言葉の意味作用を破壊し、シニフィアンや構造を流出させる逃走線を引く言表行為なわけですね。

 

といってもわたしもうまくは理解できていませんが、ソシュール以降の言語学フロイトラカン精神分析の理論は当然のことながら、ハイデガーブランショの言語と死などもわからなければならず、ドゥルーズの『差異と反復』はもちろん、ガタリの分子革命などの概念も理解していないといけないので、正直つきあってられませんが、厳密な概念の理解はともかく、こういった思考手順について興味がある方にはとてもいいと思います。ひとつの読み方を変えるプロジェクトといってもいいのではないでしょうか。構造分析的な手順(テマティスムもそうですが)や精神分析的な読解の批判を考えている方は『アンチ・オイディプス』と併せておすすめです。

 

わたしが日本アニメーションの中でマイナー作家だと思うのはもちろんですが、今敏監督です。彼はアートアニメというマイノリティ空間ではなく、「エンタメ」アニメの内部においてマイナー化した作家であり、手塚治虫宮崎駿高畑勲といった巨匠らのつくりあげたキャラクターの概念を打ち砕いて、あらゆる要素(美術背景や他のキャラクター、そしてもはや記憶のなかではない、いつかの「自分」)と接続するキャラクターを描きました。それは極限的な状態を移行してもはや人間や動物を表象再現するキャラクターではなく、アニメーションそのものになったのだと私は考えています。

ゆえに『パーフェクト・ブルー』における最後の台詞「ほんとうの私」という言葉があんなにも怖ろしく響くわけです。