web版アニメ批評ドゥルガ

web版アニメ批評ドゥルガ

アニメに纏わる記事を書いています。毎月第四水曜日に更新。担当者が異なります。

トーキーアニメ黎明期『懐かしいケンタッキーホーム』と私見

どうしてアニメーションが好きかと聞かれればなんと答えますか? 三次元的な制約を超えた自由な動きを求めてと言ってみてもCGを取り入れていない実写映画なんてもはや少ないくらいですし、それ以前にもクレーン撮影などによって重力を欠いたようなシーンは撮られているでしょう。私の場合は最初から最後まですべて造り物であるということがアニメーションが好きな理由ですが、それだってアニメーションの特異性とは言えないわけですし、なんなら実写映画だって最初から最後まですべて造り物なわけで、このブログで取り上げている声と登場人物の恣意性という問題に関しても洋画なら吹き替えがありますしアニメ固有の問題ではない訳です。

じゃあ何がアニメの問題なのかというのが今回の話です。といってもトーキーのセルアニメと限定されるんですが。今回は1926年に公開されたMy Old Kentucky Home『懐かしいケンタッキーホーム』を見ることで色々考えていこうと思います。


【1926】【My Old Kentucky Home】⌛ First Officially-Produced Sound Animation

まず目につくのが変態です。帽子がバケツになり、コートがタオル、そしてテーブルクロスになり、骨(Bone)がトロンボーン(Trombone)になります。この一連の変態で重要になるのが長回しです。はたしてアニメに長回しというのがあるのか私にはわかりませんがカットを割ってしまうと変身シーンのような何か大仰な感じが出てしまいます。ですがここでは長回しをすることでとても自然に無理なく、そしてユーモラスにアニメがどれだけ可変的なものかを描いているのが分かります。

私はドゥルガ一号で書いたように「キャラクター=文字」的なアニメが好きです。「キャラクター=文字」とは、つまり骨がトロンボーンになり食事が音楽になるようなアニメであって「キャラクター=性格」的なものの対極にあたります。それは描かれているからこそ変化することが可能であり固着化した視覚をぺりぺりと薄皮のように剥がしていってくれるものだと思います。たとえば片渕須直監督のキャラクターの彩色を指定せずカットごとに塗っていくという手法で制作された『アリーテ姫』や今敏監督の変態していくキャラクターを題材にした諸作品、そして湯浅監督の『夜明け告げるルーの歌』などは長編アニメでありながらキャラクターの潜在的な可塑性を物語に紐帯させているものなどです。それはやはりアニメにしかできない媒体的な限界を感じさせてくれるものだと思っています。

今回は短いですがこんなところで。

噛みすぎてはいけない――『リズと青い鳥』について

誰が言い出したのか、いつからかオーボエは「世界一難しい楽器」として金管楽器のホルンと並んでギネスに登録されてしまいました。この説は昔吹奏楽部でオーボエを吹いていた経験がある人間としてもいまいちしっくりこないどころか、個人的には申告した人間が気難しかったんじゃないかとさえ思うくらいなのですが、もしオーボエが世界一難しい楽器であるゆえんがあるとするなら、それは同じ状態を管理することの難しさ、つまり楽器自体の気難しさではないかと思います。

木製の楽器に共通することですが、オーボエは水分や風、温度変化に弱く、いきなり吹くと割れるので、寒い季節は手などで少し温めてから吹きはじめます。気温や湿度によって、ケースから楽器を出して組み立てるときの、ジョイント同士をさしこむ手ごたえも変わります(オーボエ本体は三つの部分に分かれますが、それらをつなぐジョイントにはコルクが巻かれているからです)。さらに繊細なのはリード、口にくわえる消耗品の部分で、先端部分は葦でできた繊維質が透けるくらいに限界までナイフで削られているので、不注意で唇に引っ掛けたり、噛みすぎたり(唇の圧が強すぎたり)すると簡単に欠けて使い物にならなくなりますし、どれだけ気をつけて扱っていても気づくと先端が歯車の歯のようにでこぼこになってしまって以前のような音は出なくなってしまうのです。吹奏楽部に所属しているなら、どれだけ怠慢に練習していたとしても一、二ヶ月もてばリードの寿命としてはいい方でしょう。

オーボエ、それからファゴットも含まれるダブルリード属のリードは、二枚の極薄の植物繊維の板が管のようになって呼気の通り道を作っています。原理は草笛と同じです。そこで大事になるのは二枚の板の噛み合い具合、その二枚が作る空間の形です。端正な細いラグビーボール型のような形が理想ですが、どこかが潰れていたり左右非対称だったりすると最悪音が出ないこともあります。奏者はリードの湿り具合を舌や私物の水入れ(カメラのフィルムケースはサイズ的にたいへん便利です)で工夫したり、微妙な圧を指でリードに加えたり、内側の繊維を不用意に削りすぎないように頻度に細心の注意を払いながらリードの内部に掃除用の小さな羽を通したりして、薄く開いた二枚のリードのあいだを顕微鏡を見るようにのぞき込みながら、演奏時にリードが最適な状態になることをつねに考えているわけです。オーボエの演奏は、実はそうした神経質なまでの繊細さによってできているのです。

その繊細さの美学を、もし映画に落とし込んだとしたら。おどけたフレーズもこなすけれども、やはりある種の静謐さがひとつの本領であるこの楽器の音色にひとつの物語と色彩を与えるなら。それはやはり、『リズと青い鳥』のような作品になるのでしょう。

 

liz-bluebird.com

f:id:durga1907:20180514235806j:plain

オーボエ・鎧塚みぞれ ©武田綾乃・宝島社/『響け!』製作委員会

 

響け!ユーフォニアム』のスピンオフであるこの作品は、しかしこれまでの『響け』本編とはかなり趣向を変えています。ユーフォニアム担当の黄前久美子の視点を中心にしたどこかスポ根のにおいがただよう群像劇としての本編に対し、『リズと青い鳥』では、オーボエ担当・鎧塚みぞれとフルート担当・傘木希美のどこか噛み合わないもろさをはらんだ関係、お互いがお互いに意識を向けていて、特にみぞれの希美に対するそれは限りなく依存に近いところさえあるいっぽう、二人は性格も感情の抱き方も異なっているというどこかひずみのある関係に焦点が当てられています。この記事の書き方に偏りがあるので言い添えなければなりませんが、オーボエのみぞれ視点というわけでは必ずしもなく、当然フルートの希美の物語でもあります。しかし、それ以外のキャラクターは、久美子や顧問の滝でさえ影の薄い脇役に徹することになります。

三年生になったみぞれと希美は夏のコンクールに向けて日々練習しています。その自由曲は「リズと青い鳥」という、同名の童話を題材にした楽曲で、そのハイライトにはオーボエとフルートが「リズ」と「青い鳥」を演じるかのように掛け合いをするソロがありました。二人はそのソロを吹くことになるわけですが、妙に噛み合いません。

映画本編は、学校生活と童話の世界が交互に進行していくような形をとっています。文字通り本当にほとんど学校のなかしか映らない日常生活のパートでは淡い青が全体を覆っているのに対し、日本のファンタジーアニメの文脈を想起させもする童話パートは、絵本さながらの色彩感にあふれています。音楽の付け方も根本から違っており、童話パートを彩るのはこれまでTVシリーズの劇伴を担当した松田彬人さんによるコンクールの自由曲のフレーズを思わせる音楽ですが、日常生活のパートに音楽を添えているのは、『聲の形』の牛尾憲輔さんです。そして、この映画が感情に迫ってくる要因の多くは、この牛尾さんの音楽、沈黙のなかに聞こえるものをすべて丁寧にすくいあげるような音楽によるものだと言ってもいいでしょう。

(音響ということで言うと、今回特に靴音は実に過敏なまでに丁寧に拾われています。革靴なのか上履きなのか、道を歩くのか、外階段なのか、廊下なのか、その違いが音響面で緻密に再現されています。山田尚子監督は足元のカットがあまりに多いことで有名で、今回も人物ごとに靴の扱い方まできちんと設定されているようですが(童話の主人公リズがベッドに入るときスリッパをきちんと揃えたのには驚きました)、この『リズと青い鳥』では足が立てる音というものを特に重視しているようです。それから、何かがこすれる音がよく聞こえるのも印象的でした。制服のスカートの衣擦れの音、楽譜のファイルをめくるときの薄いビニールの音、体育館で床とシューズがこすれる音。)

この二つのパートは最初こそあたかも別々であるかのように描かれますが、物語の終盤、一瞬だけ、童話の世界が現実に入り込んでしまったかのようなカットが訪れます。

 

f:id:durga1907:20180515000727j:plain

©武田綾乃・宝島社/『響け!』製作委員会

 

構図や、それまで青に統御されていた学校内のカットとは対照的な色彩がどのような象徴的意味をもつか、本編をご覧になった方は了解されるのではないかと思います。羽をもつ者ともたない者、そのアンバランスな関係の哀しさがこの一瞬に見え隠れするわけです。

ある少女二人の関係に焦点を当て、それを重層的に反復するところは、『響け』シリーズに共通する部分かもしれません。彼女たちはそれぞれが誰かにとっての「特別」になろうと願います(あるいは願わなかったりします)。このシリーズは「特別」という言葉に意味を負わせすぎるくらい負わせている気がしますが、『リズと青い鳥』においてもやはりみぞれが「特別」という言葉を口にします。本編では特にトランペットの高坂麗奈がよく使う言葉で、『リズと青い鳥』においても、高坂麗奈黄前久美子がフルートとオーボエのフレーズを遊びで練習するところに、フーガのような反復があらわれています。

そうした点だけでなく、あらゆるところで脚本にはゆるみがなく、どんな雑談もすべてあとで回収されてしまうような緊密なストイックさで全体が構成されています。そのぶれない軸を作っているのは明確なコンセプトであり、それが端的に表出しているのはタイトルよりも前に画面に映される〈disjoint〉の一単語でしょう。単語の成り立ちを汲みとれば「関節がはずれた(=out of joint)」というニュアンスが見えますし、辞書を引けば「…を支離滅裂にする」というような語義が出てきます(disjointedなら「脈絡がない」と訳してもいいかもしれません)。そして数学用語としては「(二つの集合が)共通の元(げん)をもたない、互いに素の」という意味になります。これが二人の関係性を示す明白なメタファーであることは監督自身も述べているとおりです。

最大公約数が1でしかない二人。歯車は噛み合わないまま、しかし噛み合っているような建前で、ここまで来たわけです。実に繊細微妙で、ある意味とても切ない関係性だということが強く示されているのでしょう。

と考えながら、以下余談になりますが、語学が好きな理系の友人にdisjointには「互いに素」の意味があるという話を雑談でしたところ、実は歯車というのは二枚の歯車の歯の数が「互いに素」である必要があるんです、と彼が言ったので私は面食らいました。どういうことかというと、たとえば十干十二支は60個の組み合わせがありますが、全ての要素を組み合わせるなら、10×12=120個の組み合わせがあるはずです。しかし、10と12は2という共通因数をもっているので(互いに素ではない)、必ず組み合わない組み合わせが存在するわけです(甲子、丙子…は存在するが、乙子、丁子、…は存在しない)。逆に二つが互いに素であれば、すべての組み合わせが存在することになります。このとき、歯車の場合では、共通因数があると常に同じ歯同士が噛み合って消耗に偏りが出てしまうのですが、歯数が互いに素であるならば、すべての歯が均等に噛み合って減り具合を減らすことができる、だから二つの歯車の歯数は互いに素でなければならない――というのでした。

もしかすると、disjointは必ずしも悲観すべきものでもないのかもしれません。噛み合わなかったからこそ、5年以上彼女たちは微妙な関係のままそれを維持することに成功したともいいうるわけなのです。

 

 

さて脈絡もなく関節の外れたような記事を書いてまいりました。「世の中の関節は外れてしまった」(The time is out of joint)という『ハムレット』の台詞(『絶園のテンペスト』で有名になりましたね)が頭から離れませんが本当に脈絡がないですね。

このブログの記事を書くたびに少し気がふさぎます。今まで京都アニメーション制作の作品の記事をこれ含めて四回私(奈)は書きましたが(別の担当者の記事も入れると五回のはず)、どうやっても上手くつかめる気がしません。もし何か書き漏れがあったときは、先月先々月の記事を書いてくれた担当者(中澤)がTwitterなり補足記事で足してくれるでしょう(と私は勝手に信じています)。映像面での批評はこのブログでは彼がいちばんでしょう。私はあんまり批評をやってません。

個人的なたいへん偏った『リズと青い鳥』の感想を蛇足のように足すと、昔オーボエを吹いていた人間にとってはとても魅力的でした。楽器の作画を担当されている高橋博行さんには頭が下がります(YouTubeでメイキングが見られます)。みぞれと希美の演奏を担当されている洗足音大の方の演奏にも言葉が出ません。単純な技術どうこうでなく、演奏が完全に演技になっていることに、楽器というもの自体の可能性を強く感じました。物語に合わせて演奏が確実に変化しています(「いまのピッチちょい微妙だったかな」というときのソロの掛け合いは本当に音程が微妙だったりします。終盤は言わずもがな)。それから、ダブルリード属の楽器の人物がこれからも露出が多いことを期待します。後輩の剣崎梨々花はいいキャラクターですね。コントラファゴットの子がいるというのはびっくりしましたが……

以前『劇場版 響け!ユーフォニアム』の記事で調子に乗って吹奏楽曲を紹介しましたが、今回はもういいですね。本編を見ていただければ、もう。

 

というわけで、「適当に読み飛ばしてください」と言うタイミングを失いましたが、長々と失礼いたしました。次はもっと短くなるようにがんばります。

では!

 

(奈)

私見2018年の春クールアニメ

はやいもので三月の更新が先日のような錯覚を受けますが、新年度、新学期、新生活というのは春の不安定な移ろいやすい気候も相俟って、時間の進みが途方もなく早く感じてしまいますね。木の芽時というのだそうですが、この時期が過ぎても直ぐに梅雨入りしてしまって、ゴールデンウィークは嬉しいのですが、低気圧のせいか片頭痛がしてしまいがちです。なので、余り外には出ずに家でじっとしていようと考えていますが、それでも『リズと青い鳥』だけは何としてでも見なければ等と、そう思っている今日です。

ちょうど4月末に公開されるのだから、『リズと青い鳥』を見てから更新できれば良かったのでしょうが、どの道このブログではネタバレが基本となっていますので、むしろ来月のほうが視聴済みの方が多い分より良いのかもしれません。

書くのは多分、私(中澤)ではなく(奈)さんになると思います。(奈)さんは主に日常系アニメが好きで、『映画けいおん!』や『ARIA』『響けユーフォニアム!』の記事などの執筆者です。文章が端正で内容も面白いので今度の記事も楽しみにしています。

それでは本題ですが、記事のタイトル通りに春クールアニメとそれからルパンの新シリーズについて少し長めに書いていこうと思います。

 

といっても今期は余り見ていなくて数えてみたら前期から見ているのを合わせても10タイトルでした。平均どれくらい皆さん追っているのかわかりませんが、想像では20タイトルくらいは見ているのかな、と思っています。だから、その半分だけなので何の参考になるんだ、という感じですが……その内訳が以下。

 

かなり有名な作品ばかりですね。厳密に分けると続き物じゃないのが『ヒナまつり』しかないという……今期は続編が多すぎるのかもしれませんね。そう思い込むことにしましょう

ダーリン・イン・ザ・フランキス

前期から。前半うまいこと多い登場人物を処理していましたが、いまはヒロとゼロツーメインの話が続いています。最新の15話で二人の関係は決まったようですが、話数的にこれからまたシリアスパートの比重が増すのかな、と思っています。明るくてポップで演出も毎回違っていて面白いです。文字や画面の比率が独特です。フランクスはキャラクターよりも俊敏に動くためか、とても軽い感じがします。彩色のせいですかね。

「パパ」と呼ばれている老人たちの会議はどうしてもエヴァ感がありますね。あの神話を仄めかすような用語の使い方とか特に。でもエヴァが私的な親と子の閉鎖的な関係を扱っているとすれば、ダリフラでは私的な親と子というのが存在しないのでもっと開放的な感じがします。「パパ」に承認されることが全てであったエヴァと違うのでしょうね。

 

BORUTO

もう54話もやってるので今さらですが、最近見始めました。いま20話くらいです。NARUTO作画アニメとしてもよく話題になりますが、BORUTOも凄いですね。リップシンクが他のTVアニメよりも凝っていて、歯茎の描写がとてもきれいだな、と思いました。ぱっと思いつく例ですが18話の「うずまき家の一日」でボルトが妹のヒマワリとぬいぐるみを引っ張りながら口論するシーンがあるのですが、ボルトが「置いてけってんだろうー」と言うところでちゃんとウ音に口がなっていたりします。その後の綿が落ちるところもただのループじゃなく、ボルトが廊下へ転がるところでもまたウ音の口を再現しています。戦闘シーンはもちろんですがこういう日常シーンがしっかり動いていると見ていて面白いですよね。

メガロボクス

あしたのジョー』連載開始50周年記念作品。そういうだけあって叩き上げのボクサーが主人公なのですが、最初に見たときはむしろ『カウボーイ・ビバップ』みたいだな、と思いました。ラップなどの音楽が効果的に使われていて、街並みもSF世界のスラムそのもので、お洒落。もじゃもじゃ頭のこいつがジョーの役割をするのか? でもそんな考えもリングに上がった姿を見たら吹き飛びます。私はまだ『あしたのジョー2』しか見てないのですが、それでもこれはジョーなんじゃないか、と思います。必見。

フルメタル・パニック Invisible Victory

The Second Raidが2005年らしいので13年ぶりの続編。ボンズ京アニから制作会社はXEBECへ。毎回監督も制作会社も変更されては続編が作られるのはとても根強い人気に支えられているんだなあと思います。ふもっふのギャグテイストから一転してグロ描写の多いThe Second Raidのつづきですからより重い内容になっていくんでしょうね。まだ一話しか見ていませんが、やはり彩色が現代風で薄いですね。声優さんたちのブランクを感じさせない演技力は流石だと思います。特にテスタロッサ。13年でアーバレストの戦闘がどのような進化を遂げているのかは気になりますね。

ヒナまつり

唯一初見+情報なしで見てます。ヤクザが超能力の子供を拾って育児に奔走するという筋なんでしょうか。まだ二話までしか見てませんが、とてもギャグテイストで面白いです。暴力描写が「あ、いたー」の連呼なのも笑えます。

ソードアート・オンライン オルタナティブ ガンゲイル・オンライン

一応本編の方も見てます。確か10月から続編がやって最終章まで描ききるらしいです。この作品では本編でも少し出て来た銃撃戦主体のバトルロイヤルゲームを主眼にしているそうです。最近流行りですよね。PUGBやFORTNITEなど、私のまわりでもやっている人がいます。VR系や異世界系は作画が安定したものが多く、戦闘シーンも美麗ですよね。前期の『オーバー・ロードⅡ』も良く動いてました。『幼女戦記』も最後までやって欲しいですね。

シュタインズ・ゲート ゼロ

超人気作シュタインズ・ゲートの続編というかIFですね。作画も前作と同じように安定していて演技も良い感じです。前作より重いテイストなんでしょうが、全体的に続編やIFというのは重くなりがちですね。それまでの作品の記憶が視聴者にも残っているからなんでしょうが、これは最後が先に分かっているだけあってよりそうなのでしょう。前作ではED演出の変化がとても素晴らしかったので、そういった本編外のことも気になります。

東京喰種:re

東京喰種の続編です。東京喰種がグールに主眼を置いていたのに対して捜査官の視点から描かれています。スタッフの変更に伴いキャラデザが一新されたようで前作とは面影が変わった登場人物ですが、総作監兼キャラデザの中嶋敦子は主に線の細い男性キャラクターが多く登場するアニメを担当しているので、そういった描写に期待です。

ペルソナ5 アニメーション

大ヒットしたゲームを原作にしたアニメです。ゲーム演出をそのまま取り入れたり、原作のストーリーをまとめたりと大変そうです。アニメとしての纏まりをどうとっていくのか気になります。

ルパン三世PART5

lupin-pt5.com

 2016年の新シリーズ、青ルパンの続編ということになるんでしょうか。緑→赤→ピンク→青とジャケットの色は変わっているわけですが、青ルパンは映画『LUPIN THE ⅢRD 次元大介の墓標』『LUPIN THE ⅢRD 血煙の石川五右衛門』でも青ジャケットなんですよね。2016年版と映画二作のシリーズ構成・脚本が同じ高橋悠也なので何らかの関係があるんでしょうね。今回のPART5では『プラネテス』や『コードギアス反逆のルルーシュ』などのシリーズ構成・脚本を担当した大河内一楼です。ロボットアニメを多く書いている方で、デジタルなものとアナログなものの対比が主に描かれているように思われます。

これは『デビルマン』を見ていたデビルマン。 - web版アニメ批評ドゥルガでも書いていることですが、やはり名作を知っている視聴者をどう作品の中に取り込むかというのはとても大事なことになっているようで、今回のルパンにもその工夫が見られます。

SNSを取り入れたアニメが昨今多いように思えます。SNSが単に作中に現れるのか、SNSを演出に取り込むのかで大きな違いがありますが、今回のルパンは後者にあたるようです。動画配信サイトに映されたルパンたちの行動にコメントが付されているのですが、そのコメントがハードボイルドな世界観にそぐわない現代風のものになっているのがかなり重要で、ゲストキャラクターの「アミ」のネット中心主義的な態度など、視聴者を作品に内面化した構成になっています。より言えば動画配信サイトで見られるべき作品なのかもしれません。『デビルマン crybaby』では作品内の虚構として『デビルマン』が出て来たわけですが、ルパンでは作品内の現実としてルパンが出てくるわけです。

それに加えてルパン一味のハードボイルドな格好良さは健在で、キャスト交代後もかなり経っている為か演技の円熟味も出てきていると思います。作画、音響、演出三拍子揃っているので必見ですね。


『ルパン三世 PART5』オープニング映像(ノンクレジットver.)

OPのテイストはポップで可愛らしいキャラクター造形です。本編では基本的には柔らかい雰囲気で見やすく、決めるところはシリーズ同様にシリアスな表情を描いて、メリハリの取れてバランスの良いキャラデザになっていると思います。

 

以上今期アニメの一か月分を見た私見です。

メガロボクスルパン3世が私のなかではかなり期待度が高いですね。では来月!

ネタバレ有り感想。岡田麿里『さよならの朝に約束の花をかざろう』

 

この記事は岡田麿里が脚本・監督をした作品のネタバレを含んでいます。

 

 

 

先日、『さよならの朝に約束の花をかざろう』を見に行きました。岡田麿里監督で「花」っていうと『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』を否が応でも想起して仕舞いますが、今回はむしろ『あの花』ほどの岡田節(というのでしょうか)が感じられませんでした。

脚本岡田麿里の他作品と比べて

先ず物語から考えていくと『あの花』と『心が叫びたがってるんだ。』はともに現代が舞台で、一つの不在がお話の核になっていました。『あの花』の場合は「超平和バスターズ」という幼馴染の絆(メンマの死が原因になっています)。『ここさけ』の場合は主人公・成瀬の声(=本心を伝える手段)です。岡田麿里は生々しい恋愛描写が特徴的であるといった評判がありますが、代表作とされる作品の中心になっているのは、むしろ恋愛を越えた絆だったり、心だったりするのです。

この二作はA-1 Pictures元請けのオリジナルアニメで『超平和バスターズ』というグループの長井龍雪監督、田中将賀キャラクターデザインと一緒に制作していますが、今回の『さよならの朝に約束の花をかざろう』では周知のように『true tears』や『花咲くいろは』の元請けであるPA.WORKSが制作会社になっています。『凪のあすから』で岡田麿里脚本と組んだ篠原俊哉監督が『さよ朝』では副監督を担当しています——篠原監督は『あしたのジョー』などで有名な出崎統派で(とわたしは勝手に呼びますが)止め絵を多用した『グラスリップ』の絵コンテも切っていました——から今回はむしろ『あの花』『ここさけ』路線よりも『凪あす』路線だと思ったのですが、その勘は見事に外れてしまいました。

もちろん『tt』『いろは』『凪あす』においても作品の核は恋愛から少し逸れています。『tt』は少し難しいですが漠然と居場所、『いろは』は一緒に働くこと、『凪あす』なら海と陸との神話的な対立が物語を構成し、その中で多様な人間関係が縺れ合って成就したり破局を迎えたりします。この多様な人間関係こそが、むしろ岡田作品のひとつの強さだと思います。つまり生々しさの所以とでもいえるのでしょう。特に『凪あす』は昼ドラと形容されるほどに三角関係では割り切れないような関係の網の目に引っかかる若者たちのジュブナイルです。

しかしこの『さよ朝』は異なります。

 

ガンダム』の脚本をやっているので現代青春群像劇しか書けないというわけではないというのは知っていましたが、ここまで王道ファンタジーが来るとは思いませんでした。

さよならの朝に約束の花をかざろう』では。

『さよ朝』で作品の核になるのは「母親の愛」であり、時間上の制約もあるのでしょうが多くが母親・マキアと息子・エリアルの関係に終始するのです。もしくはマキアの幼馴染・レイリアと娘・メディメルとの対比が描かれていきます。先んじて言えばマキアとエリアルは血のつながりはありませんが、そのことによって恋愛関係に至ることもありません。エリアル自身は母子の関係に不満をもっていないわけでもなさそうな描写はあるのですが。つまり他の作品と比べて関係が狭いんですね。

同じ劇場版の『ここさけ』も確かに主要な登場人物を四人に絞っていますが、固定した男女関係や三角関係ではなく、常に変化していく成瀬の欲望によって人物関係もまた変化していくという物語でした。これについては玉子と王子・声と文字の『心が叫びたがってるんだ。』 - web版アニメ批評ドゥルガに詳しく書きました。

しかし今回の人間関係は基本的に一定です。レイリアとクリムの関係が変化してしまうだけで、それこそ歳をとるのが遅いという設定からか、より普遍的な母として描かれているような気がします。もちろん姿が変わらないために一時は姉と偽ったりしますが、しかし最後にお婆ちゃんといふうに描かれるのではなく、やはり母として描かれているのはその証な気がします。それこそ神話的なものとしての母ですよね。

そのため物語の構造は至って単純(だからこそ失敗はできないわけですが)です。

f:id:durga1907:20180328133321j:imagef:id:durga1907:20180328133325j:imagef:id:durga1907:20180328133337j:imagef:id:durga1907:20180328133346j:image

↑公式サイトの人物相関図(引用元:http://sayoasa.jp/sp/history.html

レイリアとクリムの関係以外は凡そ同じです。クリムは終始レイリアを思いますし、マキアもクリムに協力しようとします。

わたしはもし小説が出るとしたら(出ると思っていますが)レイリアに仕えたイゾルマキアに支えようとしたラング、この二人のお話が主眼になると思います。

 

 

 

「単純」な物語にのせて。

脚本家が監督をやるなら、脚本で勝負するのだろうと思うのが普通ですし、わたしもそう思っていました。しかし、映画を見てからわたしが感じたのはこの作品の映像・音楽・脚本のバランスの良さです。

キャラクターが通行人の歩く街並みをすり抜け家に帰って子守をして床につき、朝になれば働きに出かける。酒場で働く描写もとても丁寧で、服飾や髪型も都度変わっていきます。機織りの同時に複数の方向に糸や木材が引っ張られて、それが何度も反復され布ができていき、工業地帯に建つ高層建築物に組み込まれた大きな歯車が外から見えて、成長したエリアルが夜勤に出かける。中世というよりは産業革命を思わせるような、そういった「生活」を短い時間内に効果的に描写していながら、王道ファンタジーというか殆ど昔話の形態学的な物語構造が共存し合いっていて、そしてその「生活」から「物語」への移行がとても自然です。

 

 

youtu.be

予告を見てわかる通り、縦運動がとても多く出てきます。映画本編の序盤ではほんとうに上にパンするカメラも多かったです。イヨルフの塔に吊るされる布(0.22)、レイリアの飛び込み(0.13)、花の胞子(0.16)、垂直に切られる旗(0.40)がPVでは見られます。映画本編ではレイリアの飛び込みはラストで伏線回収になってわかりやすいですが、それだけでなく最後にエリアルに会いに行った帰りにタンポポ(でしたっけ)の胞子が画面一杯に飛んでいくのに繋がっています。布が重要な位置を占めていて(布がイヨルフたちの言語なわけですが)布と対照的なのが旗であり、敗戦後の王国で旗が切り下ろされるのがしっかりと描かれています。

レナトという竜が出てきますが(1.12)、この竜の重量感がありそうでないのが絶妙だなと思いました。パレードのときの足の運びや塔で眠っているときなどは重そうなのに、飛んでいると凄くスカスカな感じがして神話感があったと思います。なんとなくですが2017秋~2018冬の二クールやっていた『魔法使いの嫁』のドラゴンを思い出しました。この竜で移動するのはかなり物語的だなあ、と思いました。魔法のアイテムを贈与されて移動するというのは昔話の典型ですから。

文明と神話の対立が主軸と見なすこともできるかもしれません。『凪あす』みたいに。しかしこの作品の視点がほとんどマキアにあって、「母になること」というテーマが何度も形を変えて繰り返されるから、もちろんこの作品は主題「母」だと思いますが。

血をめぐる問題。

しかし、その「母になること」というテーマの最後の部分で、わたしは違和感を覚えました。それは出産という、それこそ生生しいシーンなわけですが、それを戦火とカットバックしてしまっていることです。エリアルの戦闘シーンとエリアルの子を身籠ったディタの出産シーンは確かに同時系列に起きていることだといってしまえばそれまでですが、しかしエリアルと兵士が切り結び血が舞ったカットと子どもが生まれるのが完全に連続してしまっているのはちょっとヤバいのではないかと思いました。これはカットバック(隣接)が極点に達してマッチカット(類似)になる一つの例としてとても成功していると思いますが、言ってしまえば殺人と出産が「血」という生生しい物質を介して接続してしまっているんです。 エリアルと最初に出逢ったときに巻かれていた布にも血が付着していました。そしてそれをエリアルの最期に際してマキアが掛けてあげるわけなのですが、その血は染みになっています。エリアルの出自にも殺人と出産が重なり合っているんですね。 PVでレイリアが自分のお腹に髪飾りを突き刺そうとしているシーンがありますが(0.58)、凄いと思ったのはお腹よりも下のほうに手をおろすところです。狙いをつける仕草がとても丁寧です。

感情でも状況でもない雲

たぶん『さよ朝』の情報がはじめて出たのは雲、しかも夕焼けに染まりきらない雲の真ん中にタイトルがある画像だったと思うんですが、この雲とても複雑です。

f:id:durga1907:20170706145500j:plain

これですね。この雲のときにはエリアルと別れています。PVで(1.22)くらいです。

PA.WORKSにSHIROBAKOというアニメ制作を主題としたアニメがあって雲専門の美術監督が出てきます。その際にただ夏だからという理由で入道雲という思考停止のテンプレに怒りを呈しているわけですが、実際に風景(特に空模様)はよく状況や感情の説明として使われます。日本の近代文学が風景によって内面を描いたと分析した文芸批評家兼哲学者の柄谷行人の本が「新海誠を作った14冊」『ダ・ヴィンチ』に入っているのを勘案すると、アニメでは基本的な演出テクニックのようです。

ではこの作品の実質的なクライマックスをかざる雲は、しかし母子の別離や戦火の哀悼、誕生の喜び、神話への帰還そういった状況や感情には付帯していないように思えるんです。画面右側の前景に斜めに走る薄い雲、後景には前景よりは厚くて影のある雲、左側には弧を描くとても薄い雲が走っています。そして日光は左側から入り込んで、実は本編だとこれは夕暮れではなくて朝焼けなんですよね。ポスターは確実に夕焼けなんでしょうけど。美術がとても優れた作品だと思いました。

 

 

上映開始からかなり経ってしまいましたが『リズと青い鳥』も4月には上映開始しますし、4月からのTVアニメも期待の新作・続編がはじまりますから当分は退屈することないでしょうね。わたしは最近、東京喰種を1・2期見てとても良かったので、3期にとても期待しています。また1か月後に更新になると思いますが、一応ブログは継続していきますのでよろしくお願いします

「言葉の意味」の意味:なぜ外国語(なんか)をやるのか―『きんいろモザイク』#1から

自分がそのなかで生まれ育った言語、すなわち母語(≠母国語)があれば、それ以外の他者の言語(一般的に外国語と呼ばれますが、外国に存在する言語だけが母語と異なる言語であるとは言えません)も存在します。そのようなもともと自分のものではない(なかった)言語と、ひとはどのようにつきあえばいいのでしょうか。

おそらくそれはあまりにも多様で、概括することはおよそ不可能です。では範囲を狭めてみて、虚構のなか、たとえばアニメのなかで、外国語(本当は日本のアニメの場合なら日本語(共通語)以外の言語、としたいのですが、あまりに煩雑なので多少の語弊を承知で以下「外国語」とします)はどのように扱われているのでしょうか。

これも、たくさん例をみるほかないと思うのですが、ここではまずその思考の端緒として、あるいはテーマそのものに対する反例として、『きんいろモザイク』第一話を取り上げてみたいと思います。

 

 

きんいろモザイク』は、金髪少女が大好きで外国に憧れのある忍、日本が大好きなイギリスの金髪少女アリス、忍の友人の綾、同じく陽子、アリスの友人で日本人とイギリス人のハーフのカレンの五人の高校生活を主に描いたアニメです。「日常系」と言って間違いないと思います。ずいぶん前にこのブログで紹介しましたが、最近サービスが開始されたアプリゲーム『きららファンタジア』にも配信当初から参戦しています。

第一話で語られるのは、これから続いていく日常のプロローグとなる物語です。まだ中学生だった忍が、イギリスのアリスの家にホームステイすることになります。アリスの母は日本語も流暢に話せるのですが、のちに日本語をペラペラにして日本にやってくるアリスはまだほとんど日本語がわかりません(「こんにちは」「ありがとう」くらい)。忍に至っては「ハロー」以外の英語はまったくしゃべれません。「Thank you」も言いません(必ず「ありがとうございます」と言います)。彼女は物おじせずにどの場面でもほぼ日本語で話します。

したがって二人のあいだでは、少なくとも表面的な意味で言葉は通じません。しかもアリスはたいへんな人見知りだったので、忍とあまり話そうとしませんでした。一方忍は積極的にアリスに話しかけようとします。ある日、飼っている犬と一緒にアリスが外で遊んでいるところを見つけた忍はそこへ駆け寄っていきます。しかし犬が逆に忍へ駆け寄っていって、忍は水溜りに尻餅をついてしまいます。そうして忍はアリスに服やピンクの上着(おそらくセーター)を借りるのですが、そこで忍はその貸してくれた「お礼」を言おうと、借りた上着を羽織ってアリスの部屋へと向かいます。

忍は「ハロー」と言ってアリスの部屋に入ってきます。(英語は音声、≪≫はそのとき画面に出る字幕です)

 

忍  :(上着の肩の辺りを触りながら)これ、ありがとうございます、とっても暖かいです!

アリス:Arigato...Thank you? ≪ありがとう?≫

忍  :はい、ありがとうです。

アリス:Aren't you mad at me...? ≪怒ってないの……?≫

忍  :はい、とても暖かいです!

 

言葉は噛み合いません。二人の会話は妙にちぐはぐなまま、しかしこのことをきっかけに二人は仲良くなっていきます。ホームステイ最終日の前日の夜、アリスは忍の部屋を訪れます。

 

アリス:Can I sleep next to you? ≪一緒に寝てもいい?≫

忍  :ハロー!

 

アリス:What is Japan like? ≪日本ってどんな所?≫

忍  :ジャパン……日本? 日本はいま朝ですよ。不思議ですよね、ここはまだ夜なのに、もう太陽が昇ってるんです。なんだか私たちだけ、世界のはじっこに置いてかれてしまったようです。ふふ、こういう話は綾ちゃんが好きそうです。あ、綾ちゃんというのは……

アリス:(ひとりごとで)I hope I will visit Japan...some day. ≪いつか行ってみたいな……日本≫

 

やっぱり忍は英語をしゃべらないので(悪意からというより忍があまりにも天然すぎるということだと思うのですが、とりあえずアリスの言語すなわち英語に歩み寄らないのはどうなんだろうというのはここでは措きましょう)、会話は文字起こしをするとものすごくちぐはぐなことになります。しかし本編を見る限り、コミュニケーションが成り立っていないかというと、きっとそうではないと思うのです。彼女たちは言葉の外側、意味の外側で会話を成立させています。

そのことがもっとも端的にわかるのは、ホームステイの最後、忍がアリスの家を出発する場面です。淋しさを少し抱えながら、忍は車に乗り、アリスは家の前で見送ります。文字起こしした台詞では本当に伝わりにくいかもしれないのですが、想像で補っていただければ幸いです(できれば本編を見て下さるとありがたいです)。

 

f:id:durga1907:20180110111600p:plain

 

忍  :ハロー!

 

f:id:durga1907:20180110111634p:plain

 

アリス:Ko...Konichiwa---!!

 

f:id:durga1907:20180110111710p:plain

 

忍  :ハロー! ハロー!!

アリス:Konichiwa---!!

忍  :ハロー!!

アリス:Konichiwa---!!

 

二人が叫ぶのは出会いの挨拶であって、別れの場面で使うものではありません。だからここで重要なのは「Hello」「こんにちは」の本来の使い方や意味などではなく、本人たちが実際のところ何を伝えあっているかという、本来の意味とずれたところ、あるいはまったく関係ないところに存在しているものです。それを決定しているのは、おそらく文脈ではないかと思います。

単語の意味をすべて無視したコミュニケーションは成り立たないのかもしれませんが、それでも、言葉が伝達するものを決めているのはほとんど文脈なのではないかとときどき思うことがあります。たとえば、最近とみに使われだしたスラング「マジ卍」の意味を専門家が決めかねているというニュースのなかで、「マジ卍」の意味を訊かれた女子高校生が「意味なんてない。卍は卍。あるのは感情だよ」と答えたといいます*1。おそらく「マジ卍」に関しては文脈から切り離して意味を決めるのは無理なんだと思います。意味が決められないというのと意味がないというのが違うから専門家の方々は頭を抱えているのでしょう。こういったことは「マジ卍」に限った話ではなく、「やばい」「いみじ」といった特に強調語で以前からよくあることでしょうし、「言葉の意味」というのは簡単に、すくなくとも言葉で決めきるのはほぼ不可能なのではないかと思うのです。そう考えていくと、外国語というものに対する捉え方も微妙に変わってくるのではないか、とも思います。哲学や言語学の畑の方ならもっと深く考えている方も大勢いらっしゃると思いますのでこのあたりでやめますが、『きんいろモザイク』一話を観て思うのはそんなことです(変に思考をこんがらがせるくらいなら単純に見ればいいのかもしれませんが)。

 

今年はこういう、母語、日本語(共通語)以外の言語もはらんだ作品について、いろいろ見ていければいいなと思います。着地点どころか出発点もわからないような状態なので何かいいことが言える自信もあまりないのですが(上の『きんモザ』についてもまだ言えそうなのですが袋小路に入りそうで…)、とりあえず見るだけ見ていこうと思います。

気になっているのは、ドゥルガ二号で扱った『たまゆら』や以前の記事で取り上げた『ARIA』の佐藤順一監督がスタッフとして携わり、パリを舞台に日本少女が活躍する『異国迷路のクロワーゼ』(だから日本人のほうがカタコトだったりするのです)、主人公が他者の星の言語を少しづつ得ていく様子も描かれる『翠星のガルガンティア』などです。それから次の四月から放送予定の『ゴールデンカムイ』も楽しみです。まさか深夜アニメでアイヌ語が流れる日が来るとは。

日常系のくくりでは、夏に読書会を行った『映画けいおん!』が海外(ちょうどイギリス)に行く話でした。あのなかに出てくるイギリス人はネイティブの英語ですが字幕はありません。キャラクター達もあまり英語を理解できません。絶対的にわかりあえない他者が存在しないということがなかば暗黙の了解になっている日常系空間を少しだけ食い破っているようにも感じられます。

方言、というところまで拡張すると『咲-saki-』は面白いかもしれないと感じています。全国の都道府県の人物が登場するのに、方言を使うキャラクターは限定されているんですよね。

 

きんいろモザイク』は目の前にあるのがどうしようもなく現在なのになぜか「思い出」の存在を強く意識させる不思議な作品でもあります*2。日常系と時間・記憶の話はこれまでしつこいくらい書いてしまったような気がするのですが、気になったたびごとにまた何か言えればいいなと思います。

 

長くなってしまいました。それでは。

 

 

*画像はdアニメストアからのものです。

*1:毎日新聞、「マジ卍:意味や流行の起こりは? 専門家も「?」」2018年1月9日、

マジ卍:意味や流行の起こりは? 専門家も「?」 - 毎日新聞

*2:原作の最新8巻の初版には「おもいではぜんぶきんいろ。」と書かれた帯が巻かれていて、アリスたちが紅茶にマドレーヌを浸して食べるんじゃないかと心配になった、というのはただの悪い冗談です。

『デビルマン』を見ていたデビルマン。

多分『デビルマン crybaby』をみた方はこの記事みたいに物語的な話をしても大して面白くないと仰られると思います。実際、漫画版デビルマンと話はほとんど同じです。重要なのは映像表現で、フラッシュ特有の軽やかな演技、特にPVでも大きく取り上げられていた走りはかなり衝撃的だったのではないかと思います。2017年の秋アニメ『Just Because』の走る演技はアニメにおいて走るというのはどういうことなのか、というのを教えられますが、『デビルマン』においては人間的な走りとは違う、悪魔の走りにも注目です。
ただNetflixオリジナルなのは諸刃の剣というか、画像引用ができないので残念です。せめてオリジナル作品くらいは引用できるようにしてほしいですね。

 f:id:durga1907:20180110205555j:image

 はじめに

1月5日からNetflix湯浅政明監督のデビルマンが公開されました。湯浅監督は、昨年2017年のアヌシー国際アニメーション映画祭長編部門における最高賞、クリスタル賞に選ばれた『夜明け告げるルーのうた』を監督しました。「ルー」は全編がフラッシュアニメでつくられたと言われ、注目を集めました。日本のアニメーションの多くが作られたパラパラ漫画のような要領で作っていくセルアニメに対して、フラッシュアニメは一枚の絵をAdobeFlashというソフトで動かすアニメです。フラッシュアニメの作り方を紹介した動画が多く上がっているように、自主制作アニメを製作しやすい手法と言えます。

昨年流行った『けものフレンズ』はキャラクターをCGにしていたり、今流行りのヴァーチャルユーチューバーもほとんどCGアニメといっていいと思います。CGは技術的にいってフラッシュより難しいのだと思いますが、一度モデリングしてしまえば、流用できる範囲が広いので後々楽になるのでしょうか。いずれにしろセルアニメのように見せるためにCGを使うセルルックアニメの反対のことをやっています。CGを自然に見せるために手書きの絵を使っているという具合に。

フラッシュアニメの手法はアートアニメと呼ばれる主に短編のアニメに多く用いられていましたが、土井伸彰『21世紀のアニメーションがわかる本』の主張では、いまやエンタメとしてのアニメとの境界は明確に区分けできなくなっていているのだそうです。精力的に児童向けアニメや深夜アニメを製作してきた湯浅政明監督もまたその境界の境目にいると言えるのでしょう。

私は『ピンポン』や『四畳半神話大系』を見ていただけで、残念ながらまだ『夜明け告げるルーのうた』を見ていません。この二作もまたフラッシュを用いたアニメで、特に『ピンポン』には『デビルマン』と多くの類似点が見られました。それはまた今度書こうと思います。

 

 

21世紀のアニメーションがわかる本

21世紀のアニメーションがわかる本

 

 

デビルマン』を見ていたデビルマン

ほかのデビルマンとの違いは、このデビルマンが固有名ではないところと言えるとわたしは思います。つまりこのデビルマンは二番煎じなんです。湯浅監督は『ピンポン』でも同様にSNSを活用していますが、「デビルマン」のコメントのなかには、昔のアニメとしてのデビルマンが言及され、動画配信サイトにはデビルマンのOPが投稿されていて、話が進むごとに不動明知名度とともに昔のデビルマン知名度も上がっていっています。庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』とはこのあたり正反対で、「ゴジラ」というものが存在しない現代にゴジラが現れてしまう。昔、対談で庵野監督は自分のデビルマンとしてエヴァを作ったと語っていますが、それはここでは措いておきます。

そして決定的なのは飛鳥了が幼い頃に施設のテレビで「デビルマン」を見ていたと示されるところです。「デビルマン」は有名な作品で、漫画好きなら万が一読んでいなかったとしても、その物語を知っているはずです。暴走した人間にヒロインの首を串刺され、悪魔に半身を吹き飛ばされる不動明、そして神々の軍勢の降臨。このショッキングさは、しかし実は漫画版のもので、アニメでは悪魔と戦うヒーローとして描かれ、途絶しているわけです。湯浅監督はもちろん漫画版のシナリオを踏襲しているので、ここでも若干ねじれがあります。

なぜならアニメ版のデビルマンはテーマ曲こそ有名であれ、シナリオはほとんど記憶に残らない、それならSNSで騒がれるはずのデビルマンのラストはなぜ不動明たちの耳に入らないのだろうか、という疑問も湧きます。飛鳥了はアニメ『デビルマン』を見て、不動明デビルマンにした。(しかし、やはりここにもねじれがあって、アニメ『デビルマン』のデビルマンは、死んでしまった不動明に取り憑いた悪魔であって、人間の心は持っていないのですが)だから飛鳥了は物語の結末を知ることができなかったのだと、言えるでしょう。湯浅監督はなぜ『デビルマン』をメタ的に取り扱ったのにラストを変えることなく、描ききったのでしょうか? 確かに映像としては最高に盛り上がるラストで、結果としてできた映像も文句なしの出来だったとわたしは思いますが……たとえば庵野監督がナディアで宇宙戦艦ヤマトをリスペクトしたシーンを作ったり、シン・ゴジラの声を昔のゴジラ作品から持ってきたように、まず見る・聞く行為から作品づくりがはじまっていて、『デビルマン crybaby』もバトンリレーという形でそうした「継承」を表現してるのでしょう。しかし、この作品の終わりには継承というよりは、崩壊、カタストロフ的なものがあって、やはりバトンは落ちてしまったのか、などとも思ったりしました。

 

 

 

『アマガミ』の思い出

アマガミ』のネタバレ注意!

新年ですね。おめでたいです。そんなことより、Amazonプライムで『アマガミSS』と、『アマガミSS plus』が観られるようになっていて、とんでもなくめでたい、幸せな気分です。元アマガミスト(PSPが壊れた)の私としては、もう何度も観ている上に、聖地巡礼もしているので、もう一度観て、『アマガミ』に浸かっていた高校時代を思い出そう! と息巻いております。
 こんなに大好きな『アマガミ』ですが、今考えてみると、どうして『アマガミ』を買おうと思ったのかを思い出せません。PSP版を中古で買った時の、あの気恥ずかしさは憶えているんですけどね。多分どこかで実況動画を見たか、勧められたのでしょう。やっぱり人の記憶なんて、あてにならないものです。
 ですが、嫌な記憶となれば話は別で、忘れたいのに忘れられないという記憶を持っていると言う人は少なくは無いと思います。その記憶の内容は人それぞれでしょうが、「恋愛」に関する記憶を思い出したくないという人もいるのではないでしょうか。『アマガミ』の主人公もその一人で、彼(名前はあるのですが、設定でいくらでも変えられるのでここでは〈彼〉としておきましょう)は、中学生の時、好きな女の子をクリスマスイブにデートへと誘います。しかし、その女の子は約束の時間に現れず、その子へのプレゼントまで用意していた〈彼〉は、その後何年もこのことを引きずっており、挙句の果てに、このクリスマスイブの夜のことを夢にまで見てしまうのです。この一連の「記憶」は〈彼〉が乗り越えるべきトラウマとしてゲーム冒頭に示されます。これは「夢で見る」という偶然を装っていますが、プレイヤーにとってはプロローグとして必ず〈彼〉に想起させなければならない必然性を持ったイベントです。この「夢」と友人の梅原による言葉がきっかけで、〈彼〉は「クリスマスイブ(学園祭)までに彼女をつくる」という目標を自覚するわけですが、この「記憶」はそのためのきっかけと言えるでしょう。
この日からクリスマスイブ(学園祭)までの約一か月間を〈現在〉として、プレイヤーは一日に四回、同時に複数生起するイベントのどれを選択するかという形で〈彼〉を操作することが出来ます。そのため、先程のクリスマスイブの記憶はとりあえず〈過去〉の時間と呼んでおくことにしましょう。
〈彼〉はプレイヤーの選択に従って、〈現在〉の時間でヒロインとの恋愛を繰り広げることになりますが、その時間は限られていて、クリスマスイブまででどんな結末を迎えようとも〈現在〉は終わりを告げ、ヒロインと主人公のその後のことはエピローグという形、すなわち〈未来〉でしか明らかになることはありません。『アマガミ』における時間は基本的に、このような〈過去〉、〈現在〉、〈未来〉という三つの時間軸が存在します。これらを構成するイベントは常にゲームをプレイするプレイヤーにとっては現在ですが、ゲームの性質上、上記にあげた三つの時間の内のいずれかに分類されます。イベントの選択画面である行動マップを見ると、最初は行動マップが透明なのですごく分かりづらいものの、進めていくうちに中心部にプロローグ、すなわち〈過去〉があり、そこからヒロインたちのイベントが放射状に広がっていて、マップの周縁部にヒロインたちの各エピローグが散らばっていることがわかると思います。つまり、〈彼〉は限られた時間の中でヒロインと恋愛をし、期限が来て、〈未来〉をちらっと垣間見てしまえば全てを忘れて再び〈過去〉へと飛ばされ、恋愛をし、〈未来〉を見て……というループを繰り広げているようです。ちょっとメタなギャルゲーとかライトノベルなら、このループ構造を物語に組み込みそうではありますが、『アマガミ』はこうしたメタ要素には禁欲的だと言えるでしょう。少なくとも、ゲーム内の〈彼〉がこうした時間構造をメタ認知することはありません。
〈彼〉はゲーム内の〈現在〉で色んなヒロインと恋愛関係を持ちますが、基本的に同時に二人以上のヒロインを攻略しても、一回に観られるエピローグはひとつだけなので、最終的には攻略対象を一人に絞らなければなりません。すなわち、エピローグを観るためには、〈彼〉が主体的に行動する(しない)という選択をする必要があるということ、裏を返せば、一つのエピローグは現在において積み重ねた諸々の選択の集積の結果ということも出来ると思います。そのため、行動マップに散らばるひとつひとつのイベントは、様々なエピローグに向かうための小さな挿話であって(途中ルート分岐の為の星イベントがあり、これを経ることでルートが確定していきます)、それらの挿話が矛盾なく集積されることによって、ひとつのエピローグを迎えることになります。そのため、〈彼〉の自我は、〈過去〉において同一であり、〈現在〉における挿話同士でゆるやかに共有されていたとしても、どのような挿話を集積していくかによってその印象は全く違います。これはヒロインも同様で、主人公と結ばれるルートでも、どのような過程によってそうなるかによって(あるいはならないか)によって、ヒロインのキャラまでもが一変してしまうのが、『アマガミ』の面白いところでもあります。
ここまでは、ある意味恋愛シュミレーションゲームにおけるテンプレートな構造であるとも言えますが、敢えて『アマガミ』が虚構として優れているのは、「上崎裡沙」というキ隠しキャラクターの出し方だと思います。
このキャラクターは、主人公の〈過去〉、すなわちプロローグの原因である人物として登場する、ある意味黒幕的な存在です。彼女は小学生から〈彼〉のことを好きすぎるあまりストーカー化していて、本編では主人公の恋愛を妨害してしまいます。それでも攻略を進めていくと、彼女は中学生時代に主人公のトラウマとなっていたクリスマスイブの約束の時、〈彼〉の隙だった女の子に嘘の待ち合わせ場所を言うという妨害工作を働いていたということが明らかになります。これは、その女の子が、〈彼〉を馬鹿にするためにデートの約束を受けたという事情も重なってのことなのですが、とにかくこの隠しキャラクターは主人公の〈現在〉の原因である〈過去〉のキャラクターで、〈彼〉の行為の発端を成していると言えます。主体的な行為の根拠が、「苦手だった牛乳を飲んでくれた」だけで好きになってしまった女の子の行動という外在的な要素によって担保されていたということを知ることで、私たちは〈彼〉が紛れもない「物語」の中の人物であるということを知ります。
ギャルゲーというジャンルは「恋愛」を扱う以上、「時間」をどのように内容と形式をすり合わせるかが重要なポイントであり、『アマガミ』はその点で見てみると、非常に面白いと思います。

最後に聖地巡礼関係で、去年の三月に行ってきた銚子市の画像を幾つか紹介します。

銚子はアニメ版の聖地です。結構そのままの所もあれば、かなり変わってしまっている所もありました。昨年放送された『セイレン』の聖地でもありますし、銚子電鉄を中心に観光すると凄く楽しいのでこちらも是非。刺身丼が美味しいです。

(錠)

f:id:durga1907:20180104232927j:plain

俗に言う「七咲ブランコ」です。

f:id:durga1907:20180104233044j:plain

薫のバイト先。



f:id:durga1907:20180104233147j:plain

銚子ポートタワー。原作と異なって、水族館は併設されていません。エレベーターが地味に怖い。

f:id:durga1907:20180104232908j:plain

七咲膝枕の地