web版アニメ批評ドゥルガ

アニメオリジナル〔日常〕から劇場版〔非日常〕へ 涼宮ハルヒの憂鬱『サムデイ イン ザ レイン』について

その日も寒い一日であったのだろうが、「地球をアイスピックでつついたとしたら、ちょうどいい感じにカチ割れるんじゃないかというくらい冷え切って」いるような印象もなく、明日が来てしまえばどのような日であったかも思い出せないような何気ない一日であったのだろう。『涼宮ハルヒの憂鬱』として放送されたテレビシリーズの最終話『サムデイ イン ザ レイン』は、それまで繰り広げてきたような非日常を巡る物語から一転して、このようなSOS団の何気ない「日常」を切り取ったような回である。
OPの直後からSOS団の面々がそれぞれ暇を持て余している様を部室の角から描くカットから始まり、背後からは運動部の掛け声が聞こえ、何かが起こる気配さえない。我々はそこから彼らを覗き見ているかのようだ。それぞれの様子を真上から描くカットが挟まれ、キョンの顔が映し出されると、彼はハッと何かから醒めたかのように、ナレーションを始める。そのナレーションの最中、キョンの視線の動きと共に、これまでの物語に登場した「小道具」の類が部室に堆積している様々な事件の記憶としてアニメの放送回順に次々と描き出され、キョンは、それらの小道具に導かれるようにして、事件のきっかけはいつも団員たちがまったりと過ごしている時にハルヒが突然部室へと入り込んでくることから始まるのだというこれまでの物語のパターンを想起する。その時、何かしらの非日常的な事件を期待する人々に「毎日そんなこと起こりはしない」とあらかじめ断りを入れる彼の言葉の端々からは宇宙人や未来人や超能力者と同じ空間にいながら、そのような非日常的空間に半年という時の経過で「馴れ」てしまった様子が見え隠れする。そして、ハルヒは彼の想起したパターン通りに部室へと姿を現すのだが、いつもと事情が違うのは、彼女の登場と共に、物語の端緒としてもたらされる「朗報」が物語の端緒とはなり得ないものであるという点だった。何故そう言い切れるかと言えば、その「朗報」と共にキョンに与えられた「商店街の電気屋から暖房器具を譲り受けてくる」という指令は、本来の目的とは別に、「みくるの写真撮影をしたい」というハルヒの思惑を達成するためにキョンを厄介払いする意図があってのことだからである。そのため、この指令はハルヒのやりたいこと(あるいは無意識の願望)にキョンが巻き込まれるという物語のパターンから外れたものであり、その結果、ハルヒキョンが同時間に別々で全く異なる意図で行動するということになる。常にハルヒキョンという二人のキャラクターを中心に形成してきた物語のパターンが、ここでは見事に外されている。
その結果、画面には、キョンの行動を映す場面とハルヒ達の行動を映す場面が交互に描かれることになる。無論、両者は互いの行動には関知しない。
このような同時間に異なる行動をする人物達を映すということは、原作小説において不可能であるということは明白であろう。原作はキョンの一人称視点による語りによって構成されている以上、我々はキョンの知り得ないことを知ることは出来ない。だが、アニメオリジナルであるこの回のみにおいて、我々はキョンの知り得ないSOS団の団員の姿を見ることになる。キョンが視点人物である時、画面の構図はキョンの視点を借りたものになるか、あるいはキョンハルヒなど主要なキャラクターを中心にしながら動かされていく。それは、原作小説がキョンの語りによって構成されており、そのことが作品世界の一貫性を担保するという形式に関わっているのだろうが、とにかく、このアニメーションは客観視点でありつつも、その構図や視点に関しては、キョンというキャラクターを介在して取られることは明らかだ。そうなると、キョンが部室を後にした後を映し出す「視点」は誰を介在するものなのか。
キョンが部室を出ると、ハルヒはみくるを被写体として撮影を始める。みくるは戸惑いながら抵抗するが、小泉はいつものように笑顔でハルヒの意向に従う。そして傍らでは長門が本を読む。キョンがいないことを除けば、いつもの光景だった。しかし、画面の構図という意味では、違和感が伴う。写真撮影の様子は、近影によってではなく、冒頭とは位置こそ代わっているものの、同じように部室の天井に防犯カメラが仕掛けられたような、部屋の角からのハイアングルな構図であったり、或いは本棚の中から部室を収める構図を取ったりしており、視点人物を欠いて正当に「見る」権利を失い宙に浮いた視点が、メタな設定や構造に敏感な彼女たちを憚りながらその様子を「隠し撮り」するような構図に終始する。
キョンに視点が移されると、彼がいつものようにナレーションで一人愚痴を零しながら登下校の道を辿り、ハルヒからの「依頼」を難なく達成する様子が描かれる。だが、そこに物語の端緒は見いだせない。電気屋の主人との会話は、新たな事件の萌芽こそ現れるものの、それは作品空間の中で全ての根拠となるハルヒの口を通して語られていない以上、根も葉もないうわさ話に過ぎないだろう。しかし、構図という点からしてみれば違和感はない。
 そして再び冒頭と全く同じ構図で部室が映し出された時、ハルヒとみくると小泉が唐突に部室から姿を消し、一人長門が冒頭と同じ場所に座りながら本を読んでいる様子が描かれる。このカットはしばらく構図を変えず、後ろからはラジオなのか演劇部の練習なのか漫才なのかよくわからないようなやり取りがとりとめもなく流れてくる。しかし、これによって「長門有希」という存在がいかにこの世界で薄い存在であるかに見る者は改めて直面することになる。
 作品空間の根拠であるハルヒを欠いていている中で、動くことなく読書を続ける長門を撮ったとしても、そこに物語は発生しえない。彼女が物語の構造から与えられる本来の役割は、キョンが知り得ない情報を与えたり、キョンが出来ないことを代行したりする補助の役割であり、作品の内容上の役割でも、「統合思念体」と呼ばれる存在が「涼宮ハルヒ」を観察するための存在でしかない。だからこそ、彼女は物語に「主体」的に関わることを許されてはいない。そのように二重の意味でプログラムされたキャラクターである。この「プログラム」は彼女に感情を表出させることや、不用意に言葉を発したり、行動をしたりすることを許さない以上、彼女にとっては「抑圧」として作用するだろうし、この構図そのものが、外で写真撮影をするハルヒたちから省かれ、一人でいつもと変わらぬ姿勢を強いられる長門を「観察」しているかのようだ。実際、この回において長門が声を発するシーンは無いし、読書をしている体勢から動くのは、みくるが無理やり着替えさせられる時にタイミングよく立ち上がって読んでいる本を取り換える時と、部室へみくるを探しに訪れた鶴屋さんに彼女たちの場所を教えるために窓の方を指さす時などのわずかな場面しかない。この防犯カメラのような視点が「カメラ」ではないことは、その後の場面において跳び箱を飛ぶみくるやチアバトンを回すみくるやハルヒを描いた場面が、文化祭の時に手に入れた「ビデオカメラ」で撮られたものであるようなカットであることから明らかになるだろう。この「ビデオカメラ」が介在する構図との差異によって、一人の長門を描くという物語上無意味な構図が初めて別の意味を帯び始める。
 鶴屋さんにみくるたちの位置を教えた後に取られる構図は、別の棟にいるハルヒ達の様子をどこかの部屋から窓越しに見ているような構図であった。この回で一番特異であると思われる視点は、もはや「隠し撮り」でさえない。この視点は、描かれている窓枠などから考えると明らかに誰かが部室から離れた所にいるハルヒ達を眺めるという視点を取っている。だが、本来そのような一人称視点を取りうるはずのキョンは部室にいない以上、この視点を取りうるのは長門以外にはいないのだ。

 この構図は長門の「内面」が表出したものだとするような考察を得て終わることも出来るが、さらにここで見てみたいのは、ハルヒ達を遠景で捉えるという長門の視点そのものが、長門が自己をSOS団から疎外化し、ハルヒ達を「外」の風景として捉えることを可能にするということだ。このとき、長門は物語の役割から解放され、それぞれの立場からの思惑がありつつも、感情を持ち人間として主体的に「日常」を生きる他のキャラクターから自らを疎外する。そのため、長門は言葉を用いることなしに、「内面」を発見したと言えるだろう。このことが、作品空間にいかなる変容を強いるかは、追って別の機会に劇場版を確認しようと思う。
 だが、ここでもひとつ見ておきたいのは、この長門に見られた自己疎外化は長門固有のものではないということだ。涼宮ハルヒが自分の「普通さ」を自覚した経験をキョンに語る場面がある。そこで語られる経験は、「自分はプロ野球観戦の時に球場に存在した溢れんばかりの人のうちの一人に過ぎないこと」を、「観客」という風景から自分を疎外化し、改めて近代的な等質的空間の中で、自らもまた「観客」という風景のうちに過ぎないということを確認する過程で「普通さ」を自覚するというものであった。物語の「主人公」たることが出来ないというルサンチマンが、彼女をキャラクターに仕立て上げたのだ。そしてキョンもまた、物語の冒頭にて、「主人公」に対するルサンチマンを独白する。この冒頭の独白は、近代日本文学における「告白という制度」と、語り手としての「キャラクター」に要請される制度の起源が同じものであること示してもいる。さらには、人間からの疎外化によって、非人間的なキャラクターの内面を描くことが可能になるという意味では、大塚英志手塚治虫のまんがから見出した「アトムの命題」が、キャラクターを生み出すひとつの「制度」となっているのだろう。

 

本記事においては、以下の文献を参考にした。
大塚英志アトムの命題 手塚治虫と戦後まんがの主題』(角川文庫、二〇〇九)
大塚英志『キャラクター小説の作り方』(星海社新書、二〇一三)
柄谷行人日本近代文学の起源 原本』(講談社学術文庫、二〇〇五)

「声」を題材にしたアニメ。

声をテーマにしたアニメ作品というと何を思い浮かべるでしょうか。昨年なら京都アニメーションの『聲の形』、一昨年ならA-1 Picturesの『心が叫びたがってるんだ。』が声を扱った代表的な作品だと思います。この二作品はどちらも壁にぶつかりながら声=気持ちを伝えるジュブナイルアニメで、高校時代を主に描いています。その壁は聴覚の問題という身体的な問題、過去のトラウマといった心的な問題、自己を理解してくれない他者といった外的問題など様々な形をとります。そしてその壁を乗り越える手段に記号=言葉が現れます『聲の形』ならば手話と筆談で、『心が叫びたがってるんだ。』ならばメールで彼らはコミュニケーションを試みます。

聲の形』ではもう少し複雑で石田将也がつける✖︎マークという記号は視覚と同時に冒頭の彼が耳を手で覆うのをラストでやめ、他者の声が入ってくるシーンで聴覚に関わることになりますし、西宮硝子の演技や西宮結弦の写真など「声」だけを問題にはできない作品です。

では2017年の「声」を題材にした作品は『きみの声をとどけたい』でしょう。

湘南の中学生たちがミニFMというラジオを放送する物語なのですが、登場人物のひとり行合なぎさは声が形と色をもって見えるのですが、それは球状に表現されています。「声」の問題は「歌」を導入して(これは『心がさけびたがってるんだ』でも同じです)歌声と演技の声が重なるときに声がとどくことになります。そのとき、球状に表現された「声」は他者に、共有されます。また先日とりあげた『打ち上げ花火』のように中学生のキャラクターが主に描れていて同じように境遇を大人に左右されています。

こうした「声」を題材にした作品はオリジナルアニメに増えてきている気がします。『聲の形』は漫画原作ですから実際アニメの表現はテーマに十分かなうとは言えないと思います。それは漫画だからこそできることをしているからであってアニメという媒体自体の問題だと思いました。

心が叫びたがってるんだ。』に関しては↓でdurga1907.hatenablog.com

 

 『聲の形』はまだアニメだけで漫画を読んでいないので次の機会にもう少し長く書こうと思います

ネオ・ヴェネツィアの想像力――『ARIA』聖地巡礼

以下批評とあんまり関係ない文章になるので恐縮ですが、ヴェネツィアに行ってまいりました。

ご存知の方も多いと思いますが、ヴェネツィアはさまざまな創作物の舞台ともなっていて、アニメファンには『ARIA』の舞台「ネオ・ヴェネツィア」のモデルとしても知られています(『ジョジョ』などの聖地でもあります)。

 

ARIA The ANIMATION Blu-ray BOX

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ごく簡単にですが概略書いていこうと思います。写真に慣れていないのでうまく撮れた写真があんまりないのですが貼っていきます。(もとから風景がきれいなのでそれで補正されます)

 

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いかにも水の都です。天気にも恵まれました。

車は入れないので自分の足とヴァポレット(水上バス)が移動手段です。ゴンドラは移動手段というよりは観光用です。乗りたかったのですが……いいお値段しまして……

 

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ヴェネツィアは潟(ラグーン)の上に建物を築く形で街ができました。駅や街のシンボルのサンマルコ広場があるヴェネツィア本島のほかにも島が点在しています。写真は街の南にあるサン・ジョルジョ・マッジョーレ島の鐘楼から本島のほうを見たものです。右の高い塔(鐘楼)のある場所がサンマルコ広場です。奥にはイタリアの本土もうっすら見えます(本土とヴェネツィア本島は3850mのリベルタ橋でつながっています)。島内に地形的な起伏はほぼないので、地面が平坦なぶん、空がとても広く感じられます。かなり平面的な地形です。

ARIA』はテラフォーミングによって水の惑星となった火星《アクア》を舞台としており、ネオ・ヴェネツィアは火星入植の際に地球《マンホーム》にあったヴェネツィアの建造物を移転した街であるという設定です。それゆえヴェネツィアの地勢や伝統を下敷きにしつつもさまざまな点で差異が多くみられます。ネオ・ヴェネツィアの空にはアクアの気温を適温に維持するための《浮き島》が浮かび、アクアとマンホームの間を行き来する宇宙船(というべきかなんというべきか)が飛び、空を飛んでものを配達する職業の人がいたりします。あるいは話数が進むにつれ地中で働く人の存在が明らかになったりもします。地形的な面でも、街から少し離れたところに丘があったりなどけっこう場所によっては起伏のある様子がうかがえます。そういうわけで、ネオ・ヴェネツィアは実際のヴェネツィアよりかなり上下に幅のある立体的な世界をしている印象があります。

 

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溜息の橋です。前にゴンドラが写っていますが、後ろでオールを漕いでいる赤と白のボーダーシャツを着た人がゴンドラ漕ぎの人です。見た限りほとんどすべてのゴンドラ漕ぎの人が同じような格好・年齢の男性でした。

 

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ホテル・ダニエリ。高級ホテルです。主要人物のひとり・藍華の所属する「姫屋」の建物のモデルです。漫画でみるとこれよりかなり建物の幅が広いように感じます。

 

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本島の北にあるヴェネツィアンガラスで有名なムラーノ島です。

 

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猫です。『ARIA』作中でもだいじな動物として登場するので変な感慨がありました。

 

写真がなぜかないのですがヴェネツィアは路地歩きが楽しいです。ヴェネツィアの入口であるローマ広場やサンタルチア駅からサンマルコ広場への道は観光客がたくさんいてそれ向けの店が軒を連ねているのですが、主要な道からはずれると閑静な、それこそ迷路のように入り組んだ細い道がたくさんあります。路地と同じくらい細い運河や橋も無数に存在します。あの細い道や運河の先にちょっと不思議で素敵なことが、というような『ARIA』の想像力は実際にモデルになった街を歩くと納得できることです。

しかし『ARIA』の想像力は(ネオ・)ヴェネツィアの内側だけでなく外側にも広がっています。ネオ・ヴェネツィアの街の外側には、日本の雰囲気をもった村のある島(伏見稲荷などをモデルにしているようです)があり、丘があり、その他実際のヴェネツィアにないような場所がたくさん存在しているからです。ヴェネツィアは水に囲まれている以上、一般の人にとっては大陸との間の橋か空港とヴェネツィアを結ぶ水上交通しか外に出る道筋がなくある意味で閉鎖的な印象を受けるのですが、ネオ・ヴェネツィアで暮らす主人公たちはゴンドラ漕ぎ(ウンディーネ)であり、ゴンドラで自由に街の外へ行くことができるので、ネオ・ヴェネツィアはかなり外側にも広いというか、『ARIA』の世界の周縁がかなり遠くにあるように感じられます。《アクア》もネオ・ヴェネツィアも全体像は見えず、ことなった断片的な細部だけがいくつもあらわれることによって場のイメージが形成されているように思います。

結論を言えば、『ARIA』のネオ・ヴェネツィアは実際のヴェネツィアよりもかなり内側だけでなく外側にも上下にも広く感じられるな、ということで、それは「素敵んぐ」な想像力の産物なのでしょう、と歩きながら考えたのでした。

ARIA』にテラフォーミング等々のSF的な設定が必要だったのだろうかと数年来思っていたのですが、本当のヴェネツィアではおそらくあそこまで自由に広がりのある世界を描くことは確実に不可能だったな、と今回感じた次第です。

 

(奈)

 

何故「ファンタジーなんて描けない」のか――認識と一貫性に関する一考察

「高度に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない」というアーサー・C・クラークの有名な文言がある。本人がどのような文脈でこれを述べたかは知らないが、この言葉からは発展に従って人類の手から離れてゆこうとする科学技術に対する戸惑いのようなものを感じずにはいられない。
このとき、科学技術に対置される「魔法」という言葉は、与えられた結果に対して、その原因を説明できない場合に用いられるものであろう。そう考えてみると、今から百年前の人々が今この現在に飛ばされてきたら、それこそ町中が「魔法」で満ちているに違いない。
しかし、今の我々が享受する様々な科学技術を、我々が「魔法」ではなく「科学技術」であると認識するのは、その技術のひとつひとつが理論的に説明可能であること、すなわち原因‐結果のプロセスによって認識することが可能であり、且つそうであると信じることによる。我々はあらゆる事象が科学的に説明可能だと信じる限りにおいて、ある技術を科学技術だと認識するのである。だから、必ずしもある科学技術の仕組みを完璧に説明できる必要はない。ごく簡単な物理法則の幾つかを知っており、世界はそのごく簡単な法則を基盤として説明可能なものであると信じていれさえすれば、人は簡単にある技術を「科学」と思いこむ。そのため、ありもしない間違った結果を捏造し、それを既存の物理化学の法則のプロセスによって説明することで正当化するような「似非科学」が人々の間で簡単に信じられてしまう。つまり、科学も一種の宗教たりうる存在である。宗教が、この世界や生の起源や根拠を与えるように、科学もまた、それぞれの対象を語ることによってその「原因」を明らかにすることによって、様々な事象に根拠を与える。宗教と科学において異なるのは、「原因」を明らかにするプロセスにおける客観性と厳密性である。宗教における「奇蹟」は自由に再現出来ないが、科学に依れば、ある法則はいくらでも同じ結果を再現することが出来るという点において、科学に信を置くという人々が今の社会においては主流である。
しかし、発達するにつれて専門分化した科学は、素人からみると原因‐結果の関係が非常に複雑化したために、容易にそれを掴むことはできなくなった。そのため、原因‐結果の関係が条理を逸しているのか否かの判別がつかないために、先程のような文言が生まれたのだろう。


 さて、前置きがいささか長くなってしまったが、これをフィクションに置き換えるとどうであろうか。一見、フィクションにおいては何事も可能であるように思われるし、実際のところそうである。創作においては科学法則などに囚われる必要性はない。それこそ「魔法」をいくら描いても構わないわけだ。
 しかし、手塚治虫は『ファンタジーなんか描けません』という文章の中で、タイトル通り、「ファンタジー」を日常性や論理性から逸脱した「狂気の産物」であるとした上で、それを描くことの難しさを述べている。

 優れたファンタジー描写が描けるか描けないかということは、その人がどれくらい日常性や論理性を無視できるかのちからによります。どんなに筆力や描写力に富んだ書き手でも、常識人ならばファンタジーの質は乏しく、ごく型どおりのものしか思いつかないでしょう。ことに作家という卓越したインテリジェンスを必要とする職業では、日常的、論理的なドラマトゥルギーに縛られています。(中略)そうなると、ぼくたちがふだんファンタジーと呼んでいる作品は、そのほとんどが擬似ファンタジーで、その実は、きわめて常識性の強い合理的なものが多いというわけになりますが、同様に、映像の分野でも、描写される対象が一見幻想的な空想に満ちた画面にみえても、その基盤が日常的な視野の上にあるものが、いかに多くて、ぼくたちが体験的な規模からいかに逃れられないかということがわかって来て、自分ながらがっかりしてしまいます。 *1

 ここで語られるのは、作品を構築するための想像力と、様々な事象の認識の方法との不可分な関係性である。この引用の後に述べられる、「宇宙人」の描き方が人型になってしまったり、昆虫や猿にどことなく似たような姿形で描いてしまったりする*2 のは、我々が自らの視野の内で、生物をそのように認識する限りにおいてなのであり、一見自由奔放であるようにみえる空想も、人間の認識によって容易に縛られたものになってしまうことを手塚は指摘する。このことは、我々が如何に因果律という認識方法に囚われているかをよく示す好例であるように思う。
そのため、手塚にとってのまんがの面白さはこのような因果律によって導かれるようなものではない。「あのしたたかなウソ、ホラ、デタラメ、支離滅裂、荒唐無稽さに出会ったときの楽しさったら、ないのである」*3 つまり、手塚は因果律がある程度狂ったような「おかしさ」をまんがに求めていた。
しかし、一方で、手塚が求めるそのような「おかしさ」は、手塚自身が読み手の側に立ち、自分の作品を読むということになると、事態が一変する。

 書き終わって見返したとき、今度は読み手としての常識論が頭をもたげてきて、不条理性や即興性のおもしろさが、やたら鼻についてくるのです。そして、そういう部分をどんどん削除し、修正していくうちに、構成や描写は一般化して、誰が見ても一応納得するものにはなりますが、奔放さはなくなってしまいます。 *4

 確かに、手塚の作品をいくつか思い返してみると、空を飛んだり、不老不死になったりすることがあったとしても、それがどうして可能になるのかということは物語の筋を論理的に追うことできちんと説明可能であり、実際登場人物が、そのような事象の説明の役回りを担うこともある。作品の中心には歴史や神話、科学技術が置かれ、全く荒唐無稽な作品は描いていないように思う。つまり、手塚の作品内で、現実世界において明らかに存在できないようなキャラクターが存在可能できるのは、我々が科学を信じるような認識の方法と同じような方法でそのキャラクターを認識するからであり、そのように我々を認識させるためには、説話論的構造や、細部の描写を厳密に構築することが求められる。つまり手塚が言うような「リアリティ」とは、自然主義的なリアリズムのことでは当然なく、ほぼ論理性と等置することが出来る。つまり作品が、論理的〔因果的〕一貫性において妥当するか否かが、「読み手」のレヴェルにおいて求められるのだ。そのため、ここにおいては、「高度に発達した魔法は科学技術と区別がつかない」というように言われるべきであろう。
そして手塚は「本物のファンタジー作品があるとして、それを受け手に理解させることはすごくむつかしいと思うのです。また論理的に解釈されるべきものでものでもないと思うのです」*5 と言い、大人の論理性と子供の不条理性を二分法的に対立させようとする。だが、手塚が称揚しようとする子供の不条理性は、あくまでも大人の論理性を前提としたものに過ぎず、手塚自身が説明していたはずの、子供の落書きに見られる一貫性 の側面*6が取捨されている。それに、この文章における「本物のファンタジー作品」なるものが、端的に子供の不条理性によってのみ可能になるのかどうかはいささか疑問であるし、大人と子供という二分法自体が近代的で作為的な対立軸である。それに、一貫性という言葉は必ずしも、論理的な一貫性だけを指すのではないと思われる。
しかしながら、この手塚のファンタジー論はひとつのジャンル論に留まらず、一種のまんが・アニメ批評として示唆に富んでいる。先週取り上げた『打ち上げ花火』や『君の名は。』は、現実世界を想起させるような舞台設定であるが、一種の奇蹟を描いている。
その奇蹟を「リアリティ」のあるものとして視聴者に捉えさせるためには、奇蹟を可能にする根拠が求められるが、それを説話論的構造に依る因果関係に求めることは出来ない。しかもこれらの作品は、想像力を我々の現実世界に限定しているため、手塚のSF作品のように世界をその根拠から構築していくことで、奇蹟を論理的な一貫性をもとに一般化してしまうことは出来ない。そのため、説話論的構造による一貫性だけに頼ると、どうしてもご都合主義的な展開にならざるを得ない。そのため、物語的ではありつつも、そこから逸脱するような展開に正当性を担保するような別の一貫性を作品全体に持たせることによって、作品の「リアリティ」を保証することが出来る。その一貫性を読む方法論のひとつとして、画面に散りばめられたレトリカルな細部の一貫性を作品の構造の根拠としてみるような主題論は可能になるであろう。無論、主題論にこだわらなくとも、精神分析的読解もあり得るし、作品をある思想の反映として読むことも可能ではあるだろうし、それ以外の読みも考えられる。「謎本」や「超読解」などの本を誘発する作品群は、手塚のように、ナレーションや登場人物に世界の根拠を語らせず、隠すことによって、中心がどこにあるのかを人々に語らせるのである。しかし、その中心はたとえ可視的であり、作者によって明示的に示されていたとしても、それが様々な読みを誘引することによってたえず移動をするのである。だが、モーリス・ブランショのいうように、アニメやマンガにおける中心が、書物における「中心への無知と欠如」と同様に語られてよいものであるか否かについては、まだ考察の余地があると言える。

(錠)

 

*1:手塚治虫手塚治虫大全2』(光文社、二〇〇八)二三、二四頁

*2:同書、二五頁参照。

*3:手塚治虫『マンガの描き方 似顔絵から長編まで』(光文社、一九九六)二九頁。

*4:手塚治虫手塚治虫大全2』(光文社、二〇〇八)二六頁。

*5:同書、同頁。

*6:手塚治虫『マンガの描き方 似顔絵から長編まで』(光文社、一九九六)一五、一六、一七頁参照。

死を看取ること『空の境界』

夏って感じですね!

先日夏コミに行ってきました。そこでアニバタという長く続いてる批評同人誌の、新刊は『けものフレンズ』特集でしたが、私は興味のある特集のバックナンバーを買いました。『ドゥルガ』2号も秋の文フリで頒布できるように頑張りたいと思います。

今年の夏コミで一番目立った作品、いわゆる“覇権”は、『けものフレンズ』かもしくは『Fate/Grand Order』(以下FGO)のように見えました。コスプレの人数も同人誌の冊数もこの二作品が席巻していました。
特に『FGO』のTYPE-MOONはもともと同人サークルで『空の境界』『月姫』はコミックマーケットで頒布されたものというのは周知のことで、『Fate/stay night』でメジャー化した同人サークルがそのFateシリーズで凱旋したというふうに思えます。もちろん『空の境界』が映画化した際にもTYPE-MOONが一般参加して『空の境界 未来福音』という同人誌を頒布したわけですし、今回の定期更新はFateシリーズより以前の作品『空の境界』について書きます。

ここから先は奈須きのこ著『空の境界』のネタバレを含みます。

 

 

空の境界(上) (講談社文庫)

空の境界(上) (講談社文庫)

 

 1〜7章+終章と外伝が二本で前述の「未来福音」と「終末録音」がある『空の境界』ですが、時系列通りに並べると2→4→3→1→5→6→7→終章で、外伝「未来福音」は3→1の間と終章の次になります。

主人公・両儀式が高校一年の冬に交通事故に遭い、三年間の昏睡の後に奇跡的に意識を回復しましたが、自分の半身、もう一つの人格で、男であり、肯定の「式」に対して否定の「織」を失っていました。彼には強い殺人衝動がありましたが、自分を殺すことでそれを耐えてきました。高校の同級、黒桐幹也両儀式が交通事故に遭う原因となった少年であり、彼女の回復を待ち続け、大学入学後すぐ中退して人形師・蒼崎橙子のアトリエに就職します。臨死体験をきっかけに死の線が視えるという異能力に目覚め、自暴自棄になった両儀式を橙子は雇います。彼らの前には両儀式と似た異能の力をもった少女が二人現れ、両儀式はそれを撃退、彼女たちの裏で糸を引いていた僧侶・荒耶宗蓮と対峙し消滅させ、最後の敵として三年前に両儀式黒桐幹也のまわりで起きていた殺人の犯人、白純里緒が立ちはだかり、黒桐幹也の静止も虚しく両儀式は白純を殺めてしまいます。

両儀式の祖父は人は一人しか殺せない、自分をあの世に送るときだけだと言い、彼女の殺人衝動を抑圧していました。その挿話を聞いていた黒桐幹也両儀式の死後、彼女をあの世に送るために自分の魂を使うと言います。あらゆるものの死を視ることができる両儀式にとって自分の死の瞬間を看取る黒桐幹也は自身の内側にあった半身にさえもなれなかった彼女の夢となり、もっとも外部的なものである死の恐怖から手を切っているとも言えるのではないでしょうか。

 

この作品には陰陽道や精神と肉体などの二元論が多く、終章のいわゆるアカシックレコードを見ている存在の話もあいまって、極めて超越論的な物語だと思います。世界の終わりを思わせるような外伝「終末録音」や物語の終わりを思わせるような未来視の外伝「未来福音」から、歴史の終わりを感じさせます。それは『FGO』にまで続く一貫したテーマなのだと思いますが、むしろ私はこの死を看取るという『空の境界』の両儀式黒桐幹也が結実させたモチーフに注目したいです。それこそ奈須きのこの謳う人間賛歌ではないでしょうか。

主題論的な、あまりに主題論的な『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』

f:id:durga1907:20170823013604j:plain(引用元:https://www.fashion-press.net/news/27685

公式サイト:www.uchiagehanabi.jp

原作:岩井俊二 総監督:新房昭之 監督、絵コンテ、キーレイアウト、美術設定:武内宣之 制作会社:シャフト

 

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』(以下『打ち上げ花火』)には円と四角、回転、投擲と打撃といった細部が反復されて呼応するように物語が進みます。


円は球形といってもいいかもしれません。冒頭の花火や風鈴のあとで自転車や風車が現れ、その次になずながキーアイテムの水晶玉のようなものを拾います。校舎は半円形で階段も奇妙な螺旋階段です。もちろんシャフトのアニメに特有の建物構造ではありますが、たとえば『化物語』一話の螺旋階段とは異なり、こちらではその円状の系列が時計の文字盤と関わり、ループを予期させます。
球形は立体を意味しています。しかし四角の系列、黒板やプールサイドの板、手紙などの平面は半円形の校舎の窓や螺旋階段の踏み面など円形を支える役割もしていますし、反対に円形が連なったコースロープによってプールは幾つもの四角形に仕切られます。それはトンボの目がなずなの像を無数の四角に分けているカットからも自覚的に行われている細部の連関であり、これらの反復によって花火が平面であるか立体であるかという問いを物語上に誘致することになります。
物語を進める細部として「もしも」を叶える水晶玉は掲示板の花火の広告にぶつかることで、つまり立体と平面がぶつかり合うところで効果を発揮するのではないでしょうか。二度目は平面化してしまった花火、三度目は海面に投げています。*1
この立体と平面の関係はアニメーション上の手描きとCGの問題に移行します。それは「もしも」電車に乗ることができていたならと願ったあとの、電車を追う母親のシーンと電車のなかで松田聖子をなずなが歌うシーンです。前者が手描きで後者がCGです。とうとつに歌うなずなの場面にも意図があるんですね。しかし結局、この二つの対比はそのあとで出現しなくなります。それは立体であっても平面であってもなずなにとってはどうでもよく、典道と一緒にいられればいいという灯台での発言に収束するのかもしれません。この時の花火は鳥の羽根を模したものでなずなの登場シーンに飛んでいた白い鳥が関係しているのでしょう。*2
典道が球を「投げる」ことで「もしも」の世界に移行しますが、その一方で大人たちは「打つ」仕草をしています。たとえば典道の母は柱を打ち、光石先生は職員室でエア素振りをして、祐介の父は診察室でパターマットを使ってゴルフの練習をし、なずなの母親の再婚相手は典道を殴ります。そして花火は花火師によって打ち上げられます。これは典道の「もしも」という妄想的な願望とは反対に現実的な決定(お祭でのフリーマーケット、恋人関係の発表、破傷風の否定、再婚と引っ越し)に関連するものであって、能動的な行動です。しかし典道の「もしも」は自分のためではなく飽くまで、なずなのためであり常に受動的です。それはまさに打ち上げ花火を、下から見るにしても横から見るにしても、ただ見ることしかできないという受動性と同じです。それは手描きであれCGであれ、アニメならば見ることしかできないという受動性に似ています。
そこにはキャラクターと観客の結節点があり、最後の花火を見るシーンで再びなずなとともに別れ、厳然と存在するキャラクターと観客の距離を取り戻します。*3
立体と平面、投擲と打撃を扱った極めて主題論的な作品であり、新海誠の作品を想起した人も多いと思います。新海誠は作品を横断して線路や雨を用いて線と円の主題を描く作家という側面を持ち合わせています。『秒速5センチメートル』では遮断機と線路と雲といった二人を妨げる線、『言の葉の庭』では環状線と雨の二人を繋ぐ円環の線、そしてその二つが合わさった『君の名は。』など。しかしそれらの主題は『君の名は。』の回想シーンまでは叙法を変化するまでに至ってはいませんでしたが、『打ち上げ花火』では極めて多様な描かれ方がされていました。『君の名は。』のように見るのはつまらないという意見をよく目にしますが、むしろこの作品ほどシャフトのなかで『君の名は。』に近い作品はないと思います。
ただ反復される細部の単調さを考えると、もう少し短めでも成り立ったかもしれないと思いました。
前述の主題の反復は整除だてられていていますし、音響設備の良い映画館ならば音楽や演技はとてもいいので、広瀬すずの拒絶する演技の洗練されていない感じとか、三木眞一郎の演じる義父特有のいやらしさとか、中学生男子っぽい馬鹿らしさとか、音楽の荘重さとか、物語を抜きに楽しめます。それにしても看護師が斎藤千和だとは気づかなかったなあ。

*1 平面が回転することで立体を作り出すというのはアニメーション自身に対する言及であり、そこには時間性が必須です。

*2 立体が現実で平面が虚構という象徴解釈は退けましょう。なぜなら四角=平面の系列である手紙は現実を宣告するものであり、反対に円=球形=立体の系列である水晶玉は「もしも」の虚構世界をつくるものです。この二つを同時に持っている冒頭の海を眺めるなずなを参照すれば平面と立体は対置されるものというよりは配置されるものであると言えます。それはセルルックアニメという現実においてCGと手描きが配置されているのと同じです。

*3 アバター(視点人物)化されたことによってラストに典道がいなくなるとも言えるでしょうし、内容的にはこの受動性は中学生という設定が条件の一つで、たとえば高校生である『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』では花火を打ち上げる側に回り、むしろ学校に来ます。キャラクターにとって固有名を呼ばれる際に応答するかどうか、たとえば先週の記事で取り上げた『あしたのジョー』のラストではリングの上で「矢吹ジョー」ではなくその亡霊としてチャンピオンから怖れられます。俺は誰と戦っているのだろうか。『心が叫びたがってるんだ。』においても名前を呼ばれることは重要な意味を持っていますし、だからこそ教師=大人の点呼に応答しないことにもキャラクター的な問題は潜んでいると思います。

(鰺)

ボクサーとしての属性 

  矢吹丈というボクサーの属性は、「ケンカ」や「野生児」といったような、既成のボクサーのスタイルを異化し、彼が正統から外れた存在であることを表すようなものを付与されています。それは、ジョーがボクシングを始めるに至った経緯や、彼の並外れた才能を踏まえてのことです。そのため、読者は当初、プロデビューしたジョーはひどく個性的なボクサーのように見えるでしょうし、実際、物語的にも、非凡な才能を持ち、正当なルートから少し逸したようなやり方でプロライセンスを取得しているために、一層そのような印象を強く持つでしょう。

しかし、様々な相手と対戦するに従って、ジョーのボクシング技術は当然のことながら向上していきます。そのため、段々とボクシングスタイルも、正統に近づきますが、そもそもジョーは、丹下団平によってはじめから正統なボクサーとして育てられていたのですから、彼が読者にもたらしていた異化作用は、物語冒頭の「ならず者」としてのジョーの名残によるものだと言えるでしょうし、さらにいえば、ジョーのボクサーとしての歩みを事細かに知る由のない観客が、未知の存在である彼を語り得るものにするための便利な表象としてそれらの属性は用いられています。

そのため、ジョーの成長はボクシングに馴染むことであると同時に「ボクシング」に対して与える異化作用を鎮静化させ、それによってジョーの個性をそれまで担っていた「属性」は次第に目立たなくなり、時折思い出したかのように実況や観客がそれを口にするにとどまっていきます。

物語がそれまで対戦してきた相手に対する「負い目」やボクシングそれ自体に対する狂おしいまでの情熱をジョーが抱いていたことを提示することで、読者は属性に還元しえないものをジョーにみることになるでしょう。このとき、ジョーは幾つかの属性を縫い合わせた、かませ犬のようなボクサーではなくなり、代替不可能なひとりのボクサーとしてリングに上がっているのです。

 確かに物語は様々な属性をキャラクターに付与します。しかし、その属性は必ずしもキャラクターの自己同一性を担保し続けるとは限らず、その属性のゆらぎや消滅によってかえってそこに「リアリティ」を感じる場合も考えられます。

 しかしながら、まずもって問題なのは、属性の付与からそのゆらぎ、消滅を動かすものは何によってなのかということですが、このことについて詳しくは秋文フリで書こうと思っています。恐らくこの作品に触れることはないと思いますが、「魔法少女」と「日常系」に関する問題の磁場を、別のジャンルの作品にも共鳴させることが出来るように、次号は書いていこうと勝手に考えています。