web版アニメ批評ドゥルガ

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アニメに纏わる記事を書いています。毎月第四水曜日に更新。担当者が異なります。

噛みすぎてはいけない――『リズと青い鳥』について

誰が言い出したのか、いつからかオーボエは「世界一難しい楽器」として金管楽器のホルンと並んでギネスに登録されてしまいました。この説は昔吹奏楽部でオーボエを吹いていた経験がある人間としてもいまいちしっくりこないどころか、個人的には申告した人間が気難しかったんじゃないかとさえ思うくらいなのですが、もしオーボエが世界一難しい楽器であるゆえんがあるとするなら、それは同じ状態を管理することの難しさ、つまり楽器自体の気難しさではないかと思います。

木製の楽器に共通することですが、オーボエは水分や風、温度変化に弱く、いきなり吹くと割れるので、寒い季節は手などで少し温めてから吹きはじめます。気温や湿度によって、ケースから楽器を出して組み立てるときの、ジョイント同士をさしこむ手ごたえも変わります(オーボエ本体は三つの部分に分かれますが、それらをつなぐジョイントにはコルクが巻かれているからです)。さらに繊細なのはリード、口にくわえる消耗品の部分で、先端部分は葦でできた繊維質が透けるくらいに限界までナイフで削られているので、不注意で唇に引っ掛けたり、噛みすぎたり(唇の圧が強すぎたり)すると簡単に欠けて使い物にならなくなりますし、どれだけ気をつけて扱っていても気づくと先端が歯車の歯のようにでこぼこになってしまって以前のような音は出なくなってしまうのです。吹奏楽部に所属しているなら、どれだけ怠慢に練習していたとしても一、二ヶ月もてばリードの寿命としてはいい方でしょう。

オーボエ、それからファゴットも含まれるダブルリード属のリードは、二枚の極薄の植物繊維の板が管のようになって呼気の通り道を作っています。原理は草笛と同じです。そこで大事になるのは二枚の板の噛み合い具合、その二枚が作る空間の形です。端正な細いラグビーボール型のような形が理想ですが、どこかが潰れていたり左右非対称だったりすると最悪音が出ないこともあります。奏者はリードの湿り具合を舌や私物の水入れ(カメラのフィルムケースはサイズ的にたいへん便利です)で工夫したり、微妙な圧を指でリードに加えたり、内側の繊維を不用意に削りすぎないように頻度に細心の注意を払いながらリードの内部に掃除用の小さな羽を通したりして、薄く開いた二枚のリードのあいだを顕微鏡を見るようにのぞき込みながら、演奏時にリードが最適な状態になることをつねに考えているわけです。オーボエの演奏は、実はそうした神経質なまでの繊細さによってできているのです。

その繊細さの美学を、もし映画に落とし込んだとしたら。おどけたフレーズもこなすけれども、やはりある種の静謐さがひとつの本領であるこの楽器の音色にひとつの物語と色彩を与えるなら。それはやはり、『リズと青い鳥』のような作品になるのでしょう。

 

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オーボエ・鎧塚みぞれ ©武田綾乃・宝島社/『響け!』製作委員会

 

響け!ユーフォニアム』のスピンオフであるこの作品は、しかしこれまでの『響け』本編とはかなり趣向を変えています。ユーフォニアム担当の黄前久美子の視点を中心にしたどこかスポ根のにおいがただよう群像劇としての本編に対し、『リズと青い鳥』では、オーボエ担当・鎧塚みぞれとフルート担当・傘木希美のどこか噛み合わないもろさをはらんだ関係、お互いがお互いに意識を向けていて、特にみぞれの希美に対するそれは限りなく依存に近いところさえあるいっぽう、二人は性格も感情の抱き方も異なっているというどこかひずみのある関係に焦点が当てられています。この記事の書き方に偏りがあるので言い添えなければなりませんが、オーボエのみぞれ視点というわけでは必ずしもなく、当然フルートの希美の物語でもあります。しかし、それ以外のキャラクターは、久美子や顧問の滝でさえ影の薄い脇役に徹することになります。

三年生になったみぞれと希美は夏のコンクールに向けて日々練習しています。その自由曲は「リズと青い鳥」という、同名の童話を題材にした楽曲で、そのハイライトにはオーボエとフルートが「リズ」と「青い鳥」を演じるかのように掛け合いをするソロがありました。二人はそのソロを吹くことになるわけですが、妙に噛み合いません。

映画本編は、学校生活と童話の世界が交互に進行していくような形をとっています。文字通り本当にほとんど学校のなかしか映らない日常生活のパートでは淡い青が全体を覆っているのに対し、日本のファンタジーアニメの文脈を想起させもする童話パートは、絵本さながらの色彩感にあふれています。音楽の付け方も根本から違っており、童話パートを彩るのはこれまでTVシリーズの劇伴を担当した松田彬人さんによるコンクールの自由曲のフレーズを思わせる音楽ですが、日常生活のパートに音楽を添えているのは、『聲の形』の牛尾憲輔さんです。そして、この映画が感情に迫ってくる要因の多くは、この牛尾さんの音楽、沈黙のなかに聞こえるものをすべて丁寧にすくいあげるような音楽によるものだと言ってもいいでしょう。

(音響ということで言うと、今回特に靴音は実に過敏なまでに丁寧に拾われています。革靴なのか上履きなのか、道を歩くのか、外階段なのか、廊下なのか、その違いが音響面で緻密に再現されています。山田尚子監督は足元のカットがあまりに多いことで有名で、今回も人物ごとに靴の扱い方まできちんと設定されているようですが(童話の主人公リズがベッドに入るときスリッパをきちんと揃えたのには驚きました)、この『リズと青い鳥』では足が立てる音というものを特に重視しているようです。それから、何かがこすれる音がよく聞こえるのも印象的でした。制服のスカートの衣擦れの音、楽譜のファイルをめくるときの薄いビニールの音、体育館で床とシューズがこすれる音。)

この二つのパートは最初こそあたかも別々であるかのように描かれますが、物語の終盤、一瞬だけ、童話の世界が現実に入り込んでしまったかのようなカットが訪れます。

 

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©武田綾乃・宝島社/『響け!』製作委員会

 

構図や、それまで青に統御されていた学校内のカットとは対照的な色彩がどのような象徴的意味をもつか、本編をご覧になった方は了解されるのではないかと思います。羽をもつ者ともたない者、そのアンバランスな関係の哀しさがこの一瞬に見え隠れするわけです。

ある少女二人の関係に焦点を当て、それを重層的に反復するところは、『響け』シリーズに共通する部分かもしれません。彼女たちはそれぞれが誰かにとっての「特別」になろうと願います(あるいは願わなかったりします)。このシリーズは「特別」という言葉に意味を負わせすぎるくらい負わせている気がしますが、『リズと青い鳥』においてもやはりみぞれが「特別」という言葉を口にします。本編では特にトランペットの高坂麗奈がよく使う言葉で、『リズと青い鳥』においても、高坂麗奈黄前久美子がフルートとオーボエのフレーズを遊びで練習するところに、フーガのような反復があらわれています。

そうした点だけでなく、あらゆるところで脚本にはゆるみがなく、どんな雑談もすべてあとで回収されてしまうような緊密なストイックさで全体が構成されています。そのぶれない軸を作っているのは明確なコンセプトであり、それが端的に表出しているのはタイトルよりも前に画面に映される〈disjoint〉の一単語でしょう。単語の成り立ちを汲みとれば「関節がはずれた(=out of joint)」というニュアンスが見えますし、辞書を引けば「…を支離滅裂にする」というような語義が出てきます(disjointedなら「脈絡がない」と訳してもいいかもしれません)。そして数学用語としては「(二つの集合が)共通の元(げん)をもたない、互いに素の」という意味になります。これが二人の関係性を示す明白なメタファーであることは監督自身も述べているとおりです。

最大公約数が1でしかない二人。歯車は噛み合わないまま、しかし噛み合っているような建前で、ここまで来たわけです。実に繊細微妙で、ある意味とても切ない関係性だということが強く示されているのでしょう。

と考えながら、以下余談になりますが、語学が好きな理系の友人にdisjointには「互いに素」の意味があるという話を雑談でしたところ、実は歯車というのは二枚の歯車の歯の数が「互いに素」である必要があるんです、と彼が言ったので私は面食らいました。どういうことかというと、たとえば十干十二支は60個の組み合わせがありますが、全ての要素を組み合わせるなら、10×12=120個の組み合わせがあるはずです。しかし、10と12は2という共通因数をもっているので(互いに素ではない)、必ず組み合わない組み合わせが存在するわけです(甲子、丙子…は存在するが、乙子、丁子、…は存在しない)。逆に二つが互いに素であれば、すべての組み合わせが存在することになります。このとき、歯車の場合では、共通因数があると常に同じ歯同士が噛み合って消耗に偏りが出てしまうのですが、歯数が互いに素であるならば、すべての歯が均等に噛み合って減り具合を減らすことができる、だから二つの歯車の歯数は互いに素でなければならない――というのでした。

もしかすると、disjointは必ずしも悲観すべきものでもないのかもしれません。噛み合わなかったからこそ、5年以上彼女たちは微妙な関係のままそれを維持することに成功したともいいうるわけなのです。

 

 

さて脈絡もなく関節の外れたような記事を書いてまいりました。「世の中の関節は外れてしまった」(The time is out of joint)という『ハムレット』の台詞(『絶園のテンペスト』で有名になりましたね)が頭から離れませんが本当に脈絡がないですね。

このブログの記事を書くたびに少し気がふさぎます。今まで京都アニメーション制作の作品の記事をこれ含めて四回私(奈)は書きましたが(別の担当者の記事も入れると五回のはず)、どうやっても上手くつかめる気がしません。もし何か書き漏れがあったときは、先月先々月の記事を書いてくれた担当者(中澤)がTwitterなり補足記事で足してくれるでしょう(と私は勝手に信じています)。映像面での批評はこのブログでは彼がいちばんでしょう。私はあんまり批評をやってません。

個人的なたいへん偏った『リズと青い鳥』の感想を蛇足のように足すと、昔オーボエを吹いていた人間にとってはとても魅力的でした。楽器の作画を担当されている高橋博行さんには頭が下がります(YouTubeでメイキングが見られます)。みぞれと希美の演奏を担当されている洗足音大の方の演奏にも言葉が出ません。単純な技術どうこうでなく、演奏が完全に演技になっていることに、楽器というもの自体の可能性を強く感じました。物語に合わせて演奏が確実に変化しています(「いまのピッチちょい微妙だったかな」というときのソロの掛け合いは本当に音程が微妙だったりします。終盤は言わずもがな)。それから、ダブルリード属の楽器の人物がこれからも露出が多いことを期待します。後輩の剣崎梨々花はいいキャラクターですね。コントラファゴットの子がいるというのはびっくりしましたが……

以前『劇場版 響け!ユーフォニアム』の記事で調子に乗って吹奏楽曲を紹介しましたが、今回はもういいですね。本編を見ていただければ、もう。

 

というわけで、「適当に読み飛ばしてください」と言うタイミングを失いましたが、長々と失礼いたしました。次はもっと短くなるようにがんばります。

では!

 

(奈)

ネタバレ有り感想。岡田麿里『さよならの朝に約束の花をかざろう』

 

この記事は岡田麿里が脚本・監督をした作品のネタバレを含んでいます。

 

 

 

先日、『さよならの朝に約束の花をかざろう』を見に行きました。岡田麿里監督で「花」っていうと『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』を否が応でも想起して仕舞いますが、今回はむしろ『あの花』ほどの岡田節(というのでしょうか)が感じられませんでした。

脚本岡田麿里の他作品と比べて

先ず物語から考えていくと『あの花』と『心が叫びたがってるんだ。』はともに現代が舞台で、一つの不在がお話の核になっていました。『あの花』の場合は「超平和バスターズ」という幼馴染の絆(メンマの死が原因になっています)。『ここさけ』の場合は主人公・成瀬の声(=本心を伝える手段)です。岡田麿里は生々しい恋愛描写が特徴的であるといった評判がありますが、代表作とされる作品の中心になっているのは、むしろ恋愛を越えた絆だったり、心だったりするのです。

この二作はA-1 Pictures元請けのオリジナルアニメで『超平和バスターズ』というグループの長井龍雪監督、田中将賀キャラクターデザインと一緒に制作していますが、今回の『さよならの朝に約束の花をかざろう』では周知のように『true tears』や『花咲くいろは』の元請けであるPA.WORKSが制作会社になっています。『凪のあすから』で岡田麿里脚本と組んだ篠原俊哉監督が『さよ朝』では副監督を担当しています——篠原監督は『あしたのジョー』などで有名な出崎統派で(とわたしは勝手に呼びますが)止め絵を多用した『グラスリップ』の絵コンテも切っていました——から今回はむしろ『あの花』『ここさけ』路線よりも『凪あす』路線だと思ったのですが、その勘は見事に外れてしまいました。

もちろん『tt』『いろは』『凪あす』においても作品の核は恋愛から少し逸れています。『tt』は少し難しいですが漠然と居場所、『いろは』は一緒に働くこと、『凪あす』なら海と陸との神話的な対立が物語を構成し、その中で多様な人間関係が縺れ合って成就したり破局を迎えたりします。この多様な人間関係こそが、むしろ岡田作品のひとつの強さだと思います。つまり生々しさの所以とでもいえるのでしょう。特に『凪あす』は昼ドラと形容されるほどに三角関係では割り切れないような関係の網の目に引っかかる若者たちのジュブナイルです。

しかしこの『さよ朝』は異なります。

 

ガンダム』の脚本をやっているので現代青春群像劇しか書けないというわけではないというのは知っていましたが、ここまで王道ファンタジーが来るとは思いませんでした。

さよならの朝に約束の花をかざろう』では。

『さよ朝』で作品の核になるのは「母親の愛」であり、時間上の制約もあるのでしょうが多くが母親・マキアと息子・エリアルの関係に終始するのです。もしくはマキアの幼馴染・レイリアと娘・メディメルとの対比が描かれていきます。先んじて言えばマキアとエリアルは血のつながりはありませんが、そのことによって恋愛関係に至ることもありません。エリアル自身は母子の関係に不満をもっていないわけでもなさそうな描写はあるのですが。つまり他の作品と比べて関係が狭いんですね。

同じ劇場版の『ここさけ』も確かに主要な登場人物を四人に絞っていますが、固定した男女関係や三角関係ではなく、常に変化していく成瀬の欲望によって人物関係もまた変化していくという物語でした。これについては玉子と王子・声と文字の『心が叫びたがってるんだ。』 - web版アニメ批評ドゥルガに詳しく書きました。

しかし今回の人間関係は基本的に一定です。レイリアとクリムの関係が変化してしまうだけで、それこそ歳をとるのが遅いという設定からか、より普遍的な母として描かれているような気がします。もちろん姿が変わらないために一時は姉と偽ったりしますが、しかし最後にお婆ちゃんといふうに描かれるのではなく、やはり母として描かれているのはその証な気がします。それこそ神話的なものとしての母ですよね。

そのため物語の構造は至って単純(だからこそ失敗はできないわけですが)です。

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↑公式サイトの人物相関図(引用元:http://sayoasa.jp/sp/history.html

レイリアとクリムの関係以外は凡そ同じです。クリムは終始レイリアを思いますし、マキアもクリムに協力しようとします。

わたしはもし小説が出るとしたら(出ると思っていますが)レイリアに仕えたイゾルマキアに支えようとしたラング、この二人のお話が主眼になると思います。

 

 

 

「単純」な物語にのせて。

脚本家が監督をやるなら、脚本で勝負するのだろうと思うのが普通ですし、わたしもそう思っていました。しかし、映画を見てからわたしが感じたのはこの作品の映像・音楽・脚本のバランスの良さです。

キャラクターが通行人の歩く街並みをすり抜け家に帰って子守をして床につき、朝になれば働きに出かける。酒場で働く描写もとても丁寧で、服飾や髪型も都度変わっていきます。機織りの同時に複数の方向に糸や木材が引っ張られて、それが何度も反復され布ができていき、工業地帯に建つ高層建築物に組み込まれた大きな歯車が外から見えて、成長したエリアルが夜勤に出かける。中世というよりは産業革命を思わせるような、そういった「生活」を短い時間内に効果的に描写していながら、王道ファンタジーというか殆ど昔話の形態学的な物語構造が共存し合いっていて、そしてその「生活」から「物語」への移行がとても自然です。

 

 

youtu.be

予告を見てわかる通り、縦運動がとても多く出てきます。映画本編の序盤ではほんとうに上にパンするカメラも多かったです。イヨルフの塔に吊るされる布(0.22)、レイリアの飛び込み(0.13)、花の胞子(0.16)、垂直に切られる旗(0.40)がPVでは見られます。映画本編ではレイリアの飛び込みはラストで伏線回収になってわかりやすいですが、それだけでなく最後にエリアルに会いに行った帰りにタンポポ(でしたっけ)の胞子が画面一杯に飛んでいくのに繋がっています。布が重要な位置を占めていて(布がイヨルフたちの言語なわけですが)布と対照的なのが旗であり、敗戦後の王国で旗が切り下ろされるのがしっかりと描かれています。

レナトという竜が出てきますが(1.12)、この竜の重量感がありそうでないのが絶妙だなと思いました。パレードのときの足の運びや塔で眠っているときなどは重そうなのに、飛んでいると凄くスカスカな感じがして神話感があったと思います。なんとなくですが2017秋~2018冬の二クールやっていた『魔法使いの嫁』のドラゴンを思い出しました。この竜で移動するのはかなり物語的だなあ、と思いました。魔法のアイテムを贈与されて移動するというのは昔話の典型ですから。

文明と神話の対立が主軸と見なすこともできるかもしれません。『凪あす』みたいに。しかしこの作品の視点がほとんどマキアにあって、「母になること」というテーマが何度も形を変えて繰り返されるから、もちろんこの作品は主題「母」だと思いますが。

血をめぐる問題。

しかし、その「母になること」というテーマの最後の部分で、わたしは違和感を覚えました。それは出産という、それこそ生生しいシーンなわけですが、それを戦火とカットバックしてしまっていることです。エリアルの戦闘シーンとエリアルの子を身籠ったディタの出産シーンは確かに同時系列に起きていることだといってしまえばそれまでですが、しかしエリアルと兵士が切り結び血が舞ったカットと子どもが生まれるのが完全に連続してしまっているのはちょっとヤバいのではないかと思いました。これはカットバック(隣接)が極点に達してマッチカット(類似)になる一つの例としてとても成功していると思いますが、言ってしまえば殺人と出産が「血」という生生しい物質を介して接続してしまっているんです。 エリアルと最初に出逢ったときに巻かれていた布にも血が付着していました。そしてそれをエリアルの最期に際してマキアが掛けてあげるわけなのですが、その血は染みになっています。エリアルの出自にも殺人と出産が重なり合っているんですね。 PVでレイリアが自分のお腹に髪飾りを突き刺そうとしているシーンがありますが(0.58)、凄いと思ったのはお腹よりも下のほうに手をおろすところです。狙いをつける仕草がとても丁寧です。

感情でも状況でもない雲

たぶん『さよ朝』の情報がはじめて出たのは雲、しかも夕焼けに染まりきらない雲の真ん中にタイトルがある画像だったと思うんですが、この雲とても複雑です。

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これですね。この雲のときにはエリアルと別れています。PVで(1.22)くらいです。

PA.WORKSにSHIROBAKOというアニメ制作を主題としたアニメがあって雲専門の美術監督が出てきます。その際にただ夏だからという理由で入道雲という思考停止のテンプレに怒りを呈しているわけですが、実際に風景(特に空模様)はよく状況や感情の説明として使われます。日本の近代文学が風景によって内面を描いたと分析した文芸批評家兼哲学者の柄谷行人の本が「新海誠を作った14冊」『ダ・ヴィンチ』に入っているのを勘案すると、アニメでは基本的な演出テクニックのようです。

ではこの作品の実質的なクライマックスをかざる雲は、しかし母子の別離や戦火の哀悼、誕生の喜び、神話への帰還そういった状況や感情には付帯していないように思えるんです。画面右側の前景に斜めに走る薄い雲、後景には前景よりは厚くて影のある雲、左側には弧を描くとても薄い雲が走っています。そして日光は左側から入り込んで、実は本編だとこれは夕暮れではなくて朝焼けなんですよね。ポスターは確実に夕焼けなんでしょうけど。美術がとても優れた作品だと思いました。

 

 

上映開始からかなり経ってしまいましたが『リズと青い鳥』も4月には上映開始しますし、4月からのTVアニメも期待の新作・続編がはじまりますから当分は退屈することないでしょうね。わたしは最近、東京喰種を1・2期見てとても良かったので、3期にとても期待しています。また1か月後に更新になると思いますが、一応ブログは継続していきますのでよろしくお願いします

「言葉の意味」の意味:なぜ外国語(なんか)をやるのか―『きんいろモザイク』#1から

自分がそのなかで生まれ育った言語、すなわち母語(≠母国語)があれば、それ以外の他者の言語(一般的に外国語と呼ばれますが、外国に存在する言語だけが母語と異なる言語であるとは言えません)も存在します。そのようなもともと自分のものではない(なかった)言語と、ひとはどのようにつきあえばいいのでしょうか。

おそらくそれはあまりにも多様で、概括することはおよそ不可能です。では範囲を狭めてみて、虚構のなか、たとえばアニメのなかで、外国語(本当は日本のアニメの場合なら日本語(共通語)以外の言語、としたいのですが、あまりに煩雑なので多少の語弊を承知で以下「外国語」とします)はどのように扱われているのでしょうか。

これも、たくさん例をみるほかないと思うのですが、ここではまずその思考の端緒として、あるいはテーマそのものに対する反例として、『きんいろモザイク』第一話を取り上げてみたいと思います。

 

 

きんいろモザイク』は、金髪少女が大好きで外国に憧れのある忍、日本が大好きなイギリスの金髪少女アリス、忍の友人の綾、同じく陽子、アリスの友人で日本人とイギリス人のハーフのカレンの五人の高校生活を主に描いたアニメです。「日常系」と言って間違いないと思います。ずいぶん前にこのブログで紹介しましたが、最近サービスが開始されたアプリゲーム『きららファンタジア』にも配信当初から参戦しています。

第一話で語られるのは、これから続いていく日常のプロローグとなる物語です。まだ中学生だった忍が、イギリスのアリスの家にホームステイすることになります。アリスの母は日本語も流暢に話せるのですが、のちに日本語をペラペラにして日本にやってくるアリスはまだほとんど日本語がわかりません(「こんにちは」「ありがとう」くらい)。忍に至っては「ハロー」以外の英語はまったくしゃべれません。「Thank you」も言いません(必ず「ありがとうございます」と言います)。彼女は物おじせずにどの場面でもほぼ日本語で話します。

したがって二人のあいだでは、少なくとも表面的な意味で言葉は通じません。しかもアリスはたいへんな人見知りだったので、忍とあまり話そうとしませんでした。一方忍は積極的にアリスに話しかけようとします。ある日、飼っている犬と一緒にアリスが外で遊んでいるところを見つけた忍はそこへ駆け寄っていきます。しかし犬が逆に忍へ駆け寄っていって、忍は水溜りに尻餅をついてしまいます。そうして忍はアリスに服やピンクの上着(おそらくセーター)を借りるのですが、そこで忍はその貸してくれた「お礼」を言おうと、借りた上着を羽織ってアリスの部屋へと向かいます。

忍は「ハロー」と言ってアリスの部屋に入ってきます。(英語は音声、≪≫はそのとき画面に出る字幕です)

 

忍  :(上着の肩の辺りを触りながら)これ、ありがとうございます、とっても暖かいです!

アリス:Arigato...Thank you? ≪ありがとう?≫

忍  :はい、ありがとうです。

アリス:Aren't you mad at me...? ≪怒ってないの……?≫

忍  :はい、とても暖かいです!

 

言葉は噛み合いません。二人の会話は妙にちぐはぐなまま、しかしこのことをきっかけに二人は仲良くなっていきます。ホームステイ最終日の前日の夜、アリスは忍の部屋を訪れます。

 

アリス:Can I sleep next to you? ≪一緒に寝てもいい?≫

忍  :ハロー!

 

アリス:What is Japan like? ≪日本ってどんな所?≫

忍  :ジャパン……日本? 日本はいま朝ですよ。不思議ですよね、ここはまだ夜なのに、もう太陽が昇ってるんです。なんだか私たちだけ、世界のはじっこに置いてかれてしまったようです。ふふ、こういう話は綾ちゃんが好きそうです。あ、綾ちゃんというのは……

アリス:(ひとりごとで)I hope I will visit Japan...some day. ≪いつか行ってみたいな……日本≫

 

やっぱり忍は英語をしゃべらないので(悪意からというより忍があまりにも天然すぎるということだと思うのですが、とりあえずアリスの言語すなわち英語に歩み寄らないのはどうなんだろうというのはここでは措きましょう)、会話は文字起こしをするとものすごくちぐはぐなことになります。しかし本編を見る限り、コミュニケーションが成り立っていないかというと、きっとそうではないと思うのです。彼女たちは言葉の外側、意味の外側で会話を成立させています。

そのことがもっとも端的にわかるのは、ホームステイの最後、忍がアリスの家を出発する場面です。淋しさを少し抱えながら、忍は車に乗り、アリスは家の前で見送ります。文字起こしした台詞では本当に伝わりにくいかもしれないのですが、想像で補っていただければ幸いです(できれば本編を見て下さるとありがたいです)。

 

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忍  :ハロー!

 

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アリス:Ko...Konichiwa---!!

 

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忍  :ハロー! ハロー!!

アリス:Konichiwa---!!

忍  :ハロー!!

アリス:Konichiwa---!!

 

二人が叫ぶのは出会いの挨拶であって、別れの場面で使うものではありません。だからここで重要なのは「Hello」「こんにちは」の本来の使い方や意味などではなく、本人たちが実際のところ何を伝えあっているかという、本来の意味とずれたところ、あるいはまったく関係ないところに存在しているものです。それを決定しているのは、おそらく文脈ではないかと思います。

単語の意味をすべて無視したコミュニケーションは成り立たないのかもしれませんが、それでも、言葉が伝達するものを決めているのはほとんど文脈なのではないかとときどき思うことがあります。たとえば、最近とみに使われだしたスラング「マジ卍」の意味を専門家が決めかねているというニュースのなかで、「マジ卍」の意味を訊かれた女子高校生が「意味なんてない。卍は卍。あるのは感情だよ」と答えたといいます*1。おそらく「マジ卍」に関しては文脈から切り離して意味を決めるのは無理なんだと思います。意味が決められないというのと意味がないというのが違うから専門家の方々は頭を抱えているのでしょう。こういったことは「マジ卍」に限った話ではなく、「やばい」「いみじ」といった特に強調語で以前からよくあることでしょうし、「言葉の意味」というのは簡単に、すくなくとも言葉で決めきるのはほぼ不可能なのではないかと思うのです。そう考えていくと、外国語というものに対する捉え方も微妙に変わってくるのではないか、とも思います。哲学や言語学の畑の方ならもっと深く考えている方も大勢いらっしゃると思いますのでこのあたりでやめますが、『きんいろモザイク』一話を観て思うのはそんなことです(変に思考をこんがらがせるくらいなら単純に見ればいいのかもしれませんが)。

 

今年はこういう、母語、日本語(共通語)以外の言語もはらんだ作品について、いろいろ見ていければいいなと思います。着地点どころか出発点もわからないような状態なので何かいいことが言える自信もあまりないのですが(上の『きんモザ』についてもまだ言えそうなのですが袋小路に入りそうで…)、とりあえず見るだけ見ていこうと思います。

気になっているのは、ドゥルガ二号で扱った『たまゆら』や以前の記事で取り上げた『ARIA』の佐藤順一監督がスタッフとして携わり、パリを舞台に日本少女が活躍する『異国迷路のクロワーゼ』(だから日本人のほうがカタコトだったりするのです)、主人公が他者の星の言語を少しづつ得ていく様子も描かれる『翠星のガルガンティア』などです。それから次の四月から放送予定の『ゴールデンカムイ』も楽しみです。まさか深夜アニメでアイヌ語が流れる日が来るとは。

日常系のくくりでは、夏に読書会を行った『映画けいおん!』が海外(ちょうどイギリス)に行く話でした。あのなかに出てくるイギリス人はネイティブの英語ですが字幕はありません。キャラクター達もあまり英語を理解できません。絶対的にわかりあえない他者が存在しないということがなかば暗黙の了解になっている日常系空間を少しだけ食い破っているようにも感じられます。

方言、というところまで拡張すると『咲-saki-』は面白いかもしれないと感じています。全国の都道府県の人物が登場するのに、方言を使うキャラクターは限定されているんですよね。

 

きんいろモザイク』は目の前にあるのがどうしようもなく現在なのになぜか「思い出」の存在を強く意識させる不思議な作品でもあります*2。日常系と時間・記憶の話はこれまでしつこいくらい書いてしまったような気がするのですが、気になったたびごとにまた何か言えればいいなと思います。

 

長くなってしまいました。それでは。

 

 

*画像はdアニメストアからのものです。

*1:毎日新聞、「マジ卍:意味や流行の起こりは? 専門家も「?」」2018年1月9日、

マジ卍:意味や流行の起こりは? 専門家も「?」 - 毎日新聞

*2:原作の最新8巻の初版には「おもいではぜんぶきんいろ。」と書かれた帯が巻かれていて、アリスたちが紅茶にマドレーヌを浸して食べるんじゃないかと心配になった、というのはただの悪い冗談です。

『アマガミ』の思い出

アマガミ』のネタバレ注意!

新年ですね。おめでたいです。そんなことより、Amazonプライムで『アマガミSS』と、『アマガミSS plus』が観られるようになっていて、とんでもなくめでたい、幸せな気分です。元アマガミスト(PSPが壊れた)の私としては、もう何度も観ている上に、聖地巡礼もしているので、もう一度観て、『アマガミ』に浸かっていた高校時代を思い出そう! と息巻いております。
 こんなに大好きな『アマガミ』ですが、今考えてみると、どうして『アマガミ』を買おうと思ったのかを思い出せません。PSP版を中古で買った時の、あの気恥ずかしさは憶えているんですけどね。多分どこかで実況動画を見たか、勧められたのでしょう。やっぱり人の記憶なんて、あてにならないものです。
 ですが、嫌な記憶となれば話は別で、忘れたいのに忘れられないという記憶を持っていると言う人は少なくは無いと思います。その記憶の内容は人それぞれでしょうが、「恋愛」に関する記憶を思い出したくないという人もいるのではないでしょうか。『アマガミ』の主人公もその一人で、彼(名前はあるのですが、設定でいくらでも変えられるのでここでは〈彼〉としておきましょう)は、中学生の時、好きな女の子をクリスマスイブにデートへと誘います。しかし、その女の子は約束の時間に現れず、その子へのプレゼントまで用意していた〈彼〉は、その後何年もこのことを引きずっており、挙句の果てに、このクリスマスイブの夜のことを夢にまで見てしまうのです。この一連の「記憶」は〈彼〉が乗り越えるべきトラウマとしてゲーム冒頭に示されます。これは「夢で見る」という偶然を装っていますが、プレイヤーにとってはプロローグとして必ず〈彼〉に想起させなければならない必然性を持ったイベントです。この「夢」と友人の梅原による言葉がきっかけで、〈彼〉は「クリスマスイブ(学園祭)までに彼女をつくる」という目標を自覚するわけですが、この「記憶」はそのためのきっかけと言えるでしょう。
この日からクリスマスイブ(学園祭)までの約一か月間を〈現在〉として、プレイヤーは一日に四回、同時に複数生起するイベントのどれを選択するかという形で〈彼〉を操作することが出来ます。そのため、先程のクリスマスイブの記憶はとりあえず〈過去〉の時間と呼んでおくことにしましょう。
〈彼〉はプレイヤーの選択に従って、〈現在〉の時間でヒロインとの恋愛を繰り広げることになりますが、その時間は限られていて、クリスマスイブまででどんな結末を迎えようとも〈現在〉は終わりを告げ、ヒロインと主人公のその後のことはエピローグという形、すなわち〈未来〉でしか明らかになることはありません。『アマガミ』における時間は基本的に、このような〈過去〉、〈現在〉、〈未来〉という三つの時間軸が存在します。これらを構成するイベントは常にゲームをプレイするプレイヤーにとっては現在ですが、ゲームの性質上、上記にあげた三つの時間の内のいずれかに分類されます。イベントの選択画面である行動マップを見ると、最初は行動マップが透明なのですごく分かりづらいものの、進めていくうちに中心部にプロローグ、すなわち〈過去〉があり、そこからヒロインたちのイベントが放射状に広がっていて、マップの周縁部にヒロインたちの各エピローグが散らばっていることがわかると思います。つまり、〈彼〉は限られた時間の中でヒロインと恋愛をし、期限が来て、〈未来〉をちらっと垣間見てしまえば全てを忘れて再び〈過去〉へと飛ばされ、恋愛をし、〈未来〉を見て……というループを繰り広げているようです。ちょっとメタなギャルゲーとかライトノベルなら、このループ構造を物語に組み込みそうではありますが、『アマガミ』はこうしたメタ要素には禁欲的だと言えるでしょう。少なくとも、ゲーム内の〈彼〉がこうした時間構造をメタ認知することはありません。
〈彼〉はゲーム内の〈現在〉で色んなヒロインと恋愛関係を持ちますが、基本的に同時に二人以上のヒロインを攻略しても、一回に観られるエピローグはひとつだけなので、最終的には攻略対象を一人に絞らなければなりません。すなわち、エピローグを観るためには、〈彼〉が主体的に行動する(しない)という選択をする必要があるということ、裏を返せば、一つのエピローグは現在において積み重ねた諸々の選択の集積の結果ということも出来ると思います。そのため、行動マップに散らばるひとつひとつのイベントは、様々なエピローグに向かうための小さな挿話であって(途中ルート分岐の為の星イベントがあり、これを経ることでルートが確定していきます)、それらの挿話が矛盾なく集積されることによって、ひとつのエピローグを迎えることになります。そのため、〈彼〉の自我は、〈過去〉において同一であり、〈現在〉における挿話同士でゆるやかに共有されていたとしても、どのような挿話を集積していくかによってその印象は全く違います。これはヒロインも同様で、主人公と結ばれるルートでも、どのような過程によってそうなるかによって(あるいはならないか)によって、ヒロインのキャラまでもが一変してしまうのが、『アマガミ』の面白いところでもあります。
ここまでは、ある意味恋愛シュミレーションゲームにおけるテンプレートな構造であるとも言えますが、敢えて『アマガミ』が虚構として優れているのは、「上崎裡沙」というキ隠しキャラクターの出し方だと思います。
このキャラクターは、主人公の〈過去〉、すなわちプロローグの原因である人物として登場する、ある意味黒幕的な存在です。彼女は小学生から〈彼〉のことを好きすぎるあまりストーカー化していて、本編では主人公の恋愛を妨害してしまいます。それでも攻略を進めていくと、彼女は中学生時代に主人公のトラウマとなっていたクリスマスイブの約束の時、〈彼〉の隙だった女の子に嘘の待ち合わせ場所を言うという妨害工作を働いていたということが明らかになります。これは、その女の子が、〈彼〉を馬鹿にするためにデートの約束を受けたという事情も重なってのことなのですが、とにかくこの隠しキャラクターは主人公の〈現在〉の原因である〈過去〉のキャラクターで、〈彼〉の行為の発端を成していると言えます。主体的な行為の根拠が、「苦手だった牛乳を飲んでくれた」だけで好きになってしまった女の子の行動という外在的な要素によって担保されていたということを知ることで、私たちは〈彼〉が紛れもない「物語」の中の人物であるということを知ります。
ギャルゲーというジャンルは「恋愛」を扱う以上、「時間」をどのように内容と形式をすり合わせるかが重要なポイントであり、『アマガミ』はその点で見てみると、非常に面白いと思います。

最後に聖地巡礼関係で、去年の三月に行ってきた銚子市の画像を幾つか紹介します。

銚子はアニメ版の聖地です。結構そのままの所もあれば、かなり変わってしまっている所もありました。昨年放送された『セイレン』の聖地でもありますし、銚子電鉄を中心に観光すると凄く楽しいのでこちらも是非。刺身丼が美味しいです。

(錠)

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俗に言う「七咲ブランコ」です。

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薫のバイト先。



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銚子ポートタワー。原作と異なって、水族館は併設されていません。エレベーターが地味に怖い。

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七咲膝枕の地

 

声だけの聖地巡礼―後藤明生「ピラミッドトーク」で幕張を歩く

椅子に座る仕事が連日続いていたのでそろそろ遠出したいと思っていたのですが、最近後藤明生の「ピラミッドトーク」を合評する機会があってちょっと歩いてみたいなと思ったので出かけることにしました。

 

首塚の上のアドバルーン (講談社文芸文庫)

首塚の上のアドバルーン (講談社文芸文庫)

 

 

短編「ピラミッドトーク」はこの『首塚の上のアドバルーン』の最初の一篇として収録されています。家になかったのでまず買ってからその足で出かけようと思ったのですが、近所の本屋を三軒回ってもなく、ブックオフにもなく、いちど新宿に出ることにして、そのあと二軒目の本屋でようやく発見しました。大して早起きだったわけではないのですでに正午を回っていました。三文の徳って本当だよなあと思いながら黄色い電車に乗ります。

マンションの14階に引っ越した語り手がその転居祝いとして、頂上を押すと女性の合成音声が時間を教えてくれるピラミッド形の時計、通称「ピラミッドトーク」を編集者の高田氏からもらうところから小説は始まります。ちょうど日航ジャンボ機墜落事故(1985年8月12日)が起きたときで、かい人21面相事件(1984・85年)の記憶もまだ新しい時代です。ちなみに初出は1986年5月号の「群像」なので、書かれた当時の時代の様相をある程度映していると言えそうです。マンションの場所は「そこの目の前の放送大学もベランダから眺めるだけ」とあることから幕張だとわかります(ちなみにそのあとの短編では地名が重要になっていくので「幕張」とはっきり書いてあります)。

小説のなかほどで、語り手はマンションを訪れることになった「吉沢氏」に電話で道順を説明します。これが一度では覚えきれないぐらい長く、ある意味詳しいといえば詳しいのです。

 

約半年の間に私は、何人かの来訪者に駅からの道順を電話で説明した。ほとんどが仕事のための来訪者で、すでに何度も会っている人々であったが、一度は説明しなければならない。電話は数日前のこともあり、前日のこともあった。電話の度に私の説明も次第に要領よくなってきたようである。 

 

というわけで、いま、後藤明生の案内音声にしたがって、駅から彼のマンションにたどりつくことを試みようと思います。

 

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各駅停車のみが停まる総武線幕張駅からスタートです。2017年のいま「幕張」と聞いたとき「幕張メッセ」「幕張新都心」といった現代的な街並みを思い出すことも多いと思うのですが、幕張駅から見える建物はどれも丈が低く、空が広いです。

 

国鉄の駅の南口、つまり海の方へ出て階段を降りて下さい。 するとタクシー乗り場があります。いつも二、三台停っていて、田舎ふうの中年の運転手が車の外で煙草を喫ったりしていると思いますが、そうです、もちろん乗る必要はありません。そのタクシー乗り場のすぐ前から商店街になっています」

 

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タクシー乗り場はありましたが、タイミングなのか時代の流れなのかタクシーは一台も停まっていませんでした。商店がまばらなので写真だとふつうの街路と違いがわかりにくいですが、たしかに商店街はあります。お昼時に南へ歩いているのでどうしても逆光です。

 

そうです、どこにでもある、古くさい田舎ふうの商店街ですが、とにかく道の左側を歩いて下さい。少し行くと電車の踏み切りがあります、そう、そう、京成の踏み切りです。 

 

「田舎ふう」かはわかりませんが、古いお店がそのまま残っているような印象はあります。

 

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京成千葉線の踏み切りです。総武線ほどではないにせよ古くからある路線のようです。

 

それを渡るとまた商店街で、間もなく歩道橋があります。旧千葉街道の歩道橋ですが、これは大して広くありませんし、登らずにそのまま信号で横断した方が便利です。 

 

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歩道橋の下の信号は「自動車専用」となっていて車両用の信号機と自転車用のレーンしかなく、「歩行者は歩道橋を通行してください」という看板もあったのですが、実際のところ信号を待っている人は普通の歩行者も多かったです。信号の方が便利なのは言う通りという感じがします。

 

そうです。それで、その一つ目の歩道橋が商店街の切れ目でして、そこを過ぎると、がらりと眺めが変ります。道幅が急に広くなり、ぽつんぽつんと喫茶店や食堂みたいなのがあったり、車のショールームのようなものやらマンションやらがあったりします。 

 

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確かに。

 

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写真だとわかりにくいのですが、中央に写っている建物に「放送大学」の文字が見えます。赤と白の鉄塔も放送大学のものです。

 

そう、そう、何だかとりとめのない、子供が画用紙に描いた地図というか、出来かけのニュータウンというか、そんな感じの風景ですが、とにかく、そのまま左側を歩いて来て下さい。そうしますと右手に真白い壁のバカでかいマンション、左手にバカでかいNTTのビルがあり、これまたバカでかい歩道橋にぶつかります。この二番目の歩道橋は登って下さい。

 

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「真白い壁のバカでかいマンション」「バカでかいNTTのビル」は見当たらない……時代が変わったんだろうか? でもこれは確かに「バカでかい歩道橋」ですね。

 

六車線で、中央に植え込みのあるかなり広い自動車道路ですから。そして、その歩道橋に登ると、そこから前方左手に、十八階建てのハイツが四棟、コの字形に建っているのが見えます。そうです、そうですね、色はダークグリーンということでしょうかね。

 

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んん……? コの字形のハイツは見えません。というか六車線なのかもわからないし、これは湾岸道路では……?

 

それで歩道橋を降りますと、左手は広い空地で、どこの土地なのかわかりませんけど、高い金網の柵がめぐらしてあります。その金網沿いに歩いて来るのですが、ところどころに車が停っています。本当はそこは歩道なんですがね、あ、そうか、吉沢さんは車は詳しかったですね。そうだな、乗用車が二、三台、それとライトバンみたいな車もあったかな、とにかく金網沿いに車が五、六台置いてあります。それで最初は、ひどい駐車違反だなと思っていたんですが、どうやら、そうではなくて捨てた車らしいんですね。そう、そう、粗大ゴミ、それですよ、まさに。粗大ゴミの車です。捨てるなら金網の中の空地に捨てればと思うんですが、入れないんでしょうね、おそらく。

 

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空き地ではなくて立派な施設が建っていますが……

 

それで、その金網の空地を通り過ぎると、もうすぐです。約百メートルくらいで、左側にこのハイツの入口があります。入口の門は道路に面してまして、建物は約五十メートル奥になりますが、入口を入って真正面の棟です。その真正面の棟の一番左端の、あれは何というのですか、玄関でもないし、ポーチというんですか、ちょっと出っ張った部分。そうです、その一番左手のエレベーターに乗って下さい。そう、十四階です。エレベーターは、各階の二軒専用式ですから、十四階で降りれば、すぐ左、いや右側かな。とにかく降りれば右か左かの二軒だけですから、すぐわかります 

 

以上で案内は終了です。

 

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それらしい建物にあたる前に京葉線の高架(ちなみに1986年3月開業)が見えてきてしまいました。「湾岸の向うの新国鉄京葉線は来春開通でしょう」という台詞があるので、幕張駅から歩いた場合は語り手宅→湾岸(湾岸道路)→京葉線、の順にならないといけないことになり、つまり行き過ぎたことになります。見事に失敗してしまったわけです。

何が悪かったのか。あとでストリートビューなども駆使して調べてみたところ、最初の自転車専用信号があった歩道橋を「バカでかい」「二番目の」歩道橋と考えれば辻褄が合いそうです。確かにその歩道橋があったのは「六車線で、中央に植え込みのある」道路でした。その先の左手に金網の柵のある空き地もありますし(放置車両はともかく)、道路に面したハイツもあって、そこが実際後藤明生が住んでいた場所であるようです。「一番目」の歩道橋は撤去されたのか、よくわかりませんが、あったとおぼしき交差点は歩道橋の跡どころか設置しうるスペースがありそうになく、道路も片側一車線だったので完全に気づきませんでした。「旧千葉街道」というところとかをヒントにしていればたどりつけたかもしれません。

こうして失敗してみて(ひどいレポートになってしまってえらい申し訳ないですが)思うのは、これまでの聖地巡礼は図像と地図に頼りきっていたというごく当たり前の事実です。言葉というものが不確かすぎるのです。地図を使うのは効率の問題なので措くとしても、アニメの聖地巡礼であれば対照する図像があるので、それと見比べて(あるいは思い出しながら)街を歩けばさしたる苦労はないし、「あっ、ここか!」と思う場所がいくつもあるかと思います。もとがただの言葉の場合はどうしても確信が持ちきれません。ひどい場合(たとえば今回のような場合)だと取り違えも起こるでしょう。

それにしても、実際に歩いて気づくのは、こんなにくだくだしい説明をしていながら道はものすごく簡単だということです。なぜなら一度も曲がらされていないからです。おそらく本当に要領のいい説明なら「駅の南口から1kmくらいずっとまっすぐ行くと左手に○○ハイツがあるのでそこの14階です」でも事足りそうです。すごく複雑そうな道をたどっていながら実は一本線だった、というのは、また『首塚の上のアドバルーン』を読み返した時に反映されるものがありそうです。

 

余談。

 

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京葉線海浜幕張駅。『Fate/staynight [Unlimited Blade Works]』で冬木市の新都として背景に使われたらしいです。Fateシリーズだと神戸にある赤い橋が聖地として有名ですが、土地性にこだわった一部のアニメをのぞく多くのアニメがそうであるように、現実の風景をつぎはぎ的にもってきてひとつの虚構都市を作っているわけですね。新都心という名前のとおりの現代的な街並みはたしかに作品と合致しているように思えます。駅周辺のマンションはどれも高くて、きっと三十年前といまとでは「バカでかい」の基準も違っていたんだろうという気がします(その辺も取り違えの原因である気もします)。

千葉だと『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』『きんいろモザイク』ほか多数聖地があるみたいですのでまたいろいろ行ってみたいですね。

 

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「ピラミッドトーク」では「人工海水浴場」となっていた幕張の浜。看板を見る限り「海水浴場ではないので遊泳禁止」であるようです。時代を経て方針が変わったのでしょうか。千葉のコンビナートから東京の湾岸の建造物、おそらくその先に川崎のコンビナートも見えました。スカイツリーや富士山もくっきり見えました。三浦半島は地勢的に難しそうではあります。

 

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首塚の上のアドバルーン』の首塚、馬加康胤(まくわりやすたね)の首塚と伝えられているという塚です。埋立地とはうって変わった傾斜地の中腹にあります。まわりもほとんど一軒家です。

 

というわけで年内の更新はおそらく最後です。どんな一年でしたでしょうか。アニメ的にどうだったのかというのは正直私にはわかりません。『けものフレンズ』が今年だったときいて驚いたくらいです。もうはるか昔のことのよう。

あんまり見てない人間が言うことでもないのかもしれないけれど、あとから見返したとき、もしかしたらそれこそ三十年後とかで、いま見ても面白いとか、こういう時代だったんだなとか、そう思えるアニメがいくつかでも残っていたら嬉しいなと個人的には思います。たとえば三十年前のアニメの聖地巡礼をして(よほどの物好きという感じですが)、虚構の風景と現実の風景のずれに気づくといった体験は、もしかしたら面白いのかもしれないと思います。

長くなりました。今年もドゥルガの記事を読んでくださり、まことにありがとうございました。よろしければ、来年もなにとぞよろしくお願いいたします。

 

 

*「ピラミッドトーク」からの引用はすべて後藤明生首塚の上のアドバルーン』(講談社文芸文庫、1999)によります。

*その他当時の出来事の年月日などはWikipedia等を参考にしたため、不正確な可能性がゼロではありません。申し訳ありませんが文献にあたる時間がありませんでしたのでご容赦ください。

 

(奈)

天空から宇宙へ

紅の豚 [Blu-ray]

機動戦士ガンダム 逆襲のシャア

私たちが空を仰ぎ見るとき、その向こう側に神話の世界が広がっているとは考えないのかも知れない。いくら向こう側に「未知の物質」や「UFO」があるのだと言ってみたところで、それを言わしめる想像力は私たちの足元から地続きで繋がっている。もはや「空」と「宇宙」の違いを、我々は地上からの距離や酸素濃度にしか認めないのだろうか。そうだとすれば、少しばかり寂しいような気がする。

 


 『機動戦士ガンダム』(特に「宇宙世紀」のシリーズ)を見ていると、やはり「宇宙」と「空」に対した違いはないように思える。むしろ、物語的に問題となるのは、「宇宙」と「地球」の対立であるのは明白であろう。それは「宇宙世紀」における中心的なキャラクターである「アムロ・レイ」と「シャア・アズナブル」という対にも現れている。物語はこの二人のキャラクターを同時に中心とする楕円的な構造を持ち、時に物語内に別の中心を引き入れつつ、「戦記」としての一貫性と、それぞれの人物のエピソードを描くという物語の上での膨らみを同時に演出している。
虚構内容に留まって考えるならば、彼ら二人は、二つの貴種流離譚の主人公であるという点において、「物語の嫡子」であるということが出来るだろう。アムロ・レイ*1は、地球連邦軍所属の父を持ちながらコロニー暮らしであり、ジオン軍の侵攻に伴って、「難民」となってしまう。 すなわち、地球に住むための正当な権利を持ちつつも、そこから疎外されている。シャア・アズナブルの場合はもっとわかりやすい。彼は元々ジオン共和国の首相であったジオン・ダイクンの嫡子でありながら、側近であったザビ家によって国を追われた身であり、名前を変えてジオン公国の兵士となるである。
このように、楕円状に形成された物語は、相対化された二つの貴種流離譚を内に含んでいるが、そこで描かれる対立は地球/宇宙という二元的な分割を直接の起源として持つ。
それならば、むしろ地球と宇宙の対立のパラフレーズとしての、空と宇宙の対立は重要ではないかという疑問が生まれるかも知れないが、そのように問いを立てるのはまずい問いの立て方である。地球と宇宙の対立は、背後に特権化された「地球」 の存在*2がある。まさしく、両者の対立は特権化され、制度化した「地球」によって保障された対立であろう。だからこそ、『逆襲のシャア』において、シャアはわざわざ地球が引力を持つということを語り直さねばならなかったのだ。

 


「空」が対立の構図としてではなく、まさしく「底なし」であるということに触れたのは、『紅の豚』のマルコにおいて他ならない。
彼が「豚」になるということは、物語内において、彼が唯一人物語から疎外されているということを示している。『紅の豚』の中での物語的対立は、まずマルコという「賞金稼ぎ」と「空賊」という形で現れる。だが、次第にその対立は、マルコへの陸軍からの取り締まりという形を取って、それが全く正当性を持たないということが明らかになり、今度は「イタリア政府」(空軍)とマルコという対立で現れて物語の表層に現れてくる。しかし、それもまたマルコは自らが「豚」であり、人間の法からは疎外された存在であると表明するのだから、このような対立も見せかけに過ぎない。もっぱら、物語の中心的として、マルコを対立軸の片方に置くことを、基本的に『紅の豚』の作中では許されていない。その意味で、『機動戦士ガンダム』シリーズとはいささか事情が異なっている。
では「マルコ」とは何なのかと問われれば、「キャラクター」であるとしか答えようがないのだから、困ってしまう。マルコというキャラクターは如何にして可能となるのだろうか。
マルコははじめから「豚」であったわけではない。勿論、映画の冒頭では既に豚だったのだが、彼は冒頭の時点で過去を既に縮約した形で保持していて、それが冒頭に豚という形姿を取って現れている。このことが示唆されるのは、中盤においてマダム・ジーナと会食する場面だ。ここで二人の会話に上がるのは、二人の飛ぶことを巡る過去である。このとき、ジーナは飛行機乗りばかりを夫にしていて、その夫となった人物は事故で死んでしまうということや、マルコはそんな中でひとり生き延びて今でも飛んでいる存在だということが明らかになる。この時、若きジーナとマルコを写したと思しき写真では、マルコの顔が黒塗りにされている。このとき、私たちは「飛ぶこと」と「死」が密接にここで関わっていることに気づく。
このことが直接的にマルコの口から語られるのはカーチスとの決闘前夜にフィオへ語った戦争の時に自身に起こった不思議な体験を通してであろう。
彼がその時に見たと語る「天空」は、敵味方がひとつの「星雲」の流れとして混ぜ合わされていく様であり、そこでは全てのイデオロギー的対立が無根拠であることを露呈させるような「底なし」の「天空」である。この空は「飛ぶこと」の限界であると同時に、そこから隔てられている限りにおいて「飛ぶこと」が可能となるような彼岸として示されている。マルコは、このような、「飛ぶこと」と「死」が重なりあう空間の中で、「飛ぶこと」を保証するものは何もない。「飛ぶこと」はどのようなイデオロギーによっても正当化され得ない「無根拠」なものであることに、気づかざるを得ない。マルコにとって、飛ぶことという行為はあらゆる社会的関係から隔絶され、彼の飛行する正当性を保証するものは何も無い。
マルコが「豚」であるのは、彼にとって「飛ぶ」という行為があらゆる人間的、社会的関係から疎外された行為であるからである。「飛べない豚はただの豚だ」というあまりにも有名なセリフで彼が吐露するのは、マルコにとって「飛ぶこと」はキャラクターとしての限界であるのだが、それと同時に彼は「飛ぶこと」によってしかキャラクターたり得ないということである。
紅の豚』において、人間であるということは、飛ぶことに何か目的を持つことだ。国のため、金の為、プライドの為……マルコははじめ、そのような対立からは疎外されているために「豚」なのであって、見た目上の差異は物語的対立によって裏付けることが出来ないものである。だが、その差異の解消、すなわち、マルコの形姿が人間に戻すことは、唯一物語だけが可能である。最後の決闘は、フィオを媒介とした物語への積極的な加担によって成り立っている。

 


 「逆襲のシャア」では、やはり地球と宇宙という対立が物語的な対立であるのだが、それは二つの相対的な貴種流離譚として同時的に描かれているために、『紅の豚』とは異なる形であるが、それらの対立が絶対的なものではないということが明らかになっている。しかし、諸対立がひとつに混ぜ合わせてしまうような彼岸としての境界を、地球と宇宙との間に見出すことは出来ない。
 そのせいで、物語は特権化された地球を中心としながら不断に対立の構図を書き換え続けるしかない。アムロやシャアはその書き換え続けられる制度の変動の中にいる。「宇宙世紀」という年号が付かなくてはならないのは、このような変動を超越的に保証する特権的な地球が要請するものだ。そのために、「機動戦士ガンダム」シリーズでは、変動する制度の中で唯一価値の変わることのない「ニュータイプ」という特権的な属性を置き、彼らが社会的な関係から離脱して物語的な関係へと抽出されてゆくことが求められる。だが、この構図も「地球=オールドタイプ」と「宇宙=ニュータイプ」という対立の構図に回収されてしまう。だが、物語的な対立は常に装われたものであるのだから、そのような対立の中に巻き込まれたアムロとシャアはニュータイプ同士で憎しみ、戦わなくてはならない。二人は物語という「メビウスの輪」に囚われ続ける。

 宇宙から地球を見れば、確かに境界線は引かれてなどいない。境界はいつも人が作るものだ。「物語」はそのような対立を創り出す装置である。しかし、そのような境界の中にあって、ひとつ「死」を巡る限界だけは、いくら人間が新たな「物語」を発明しようと、作為的に定めることは出来ない。物語が「死」を越えることは出来ないのだから。「天空」はそのような彼岸を指し示すように思えてならない。このことは宇宙を描くことによって飛び越せるものではない、ということをアムロとシャアによる「対話」が存分に物語っている。

(錠)

*1:アムロ・レイを「貴種」に大別することに抵抗があるかも知れないが、地球に出自を持つ者が、宇宙において特権的なマイノリティを形成していることは明らかであり、そのような特権的マイノリティを分有するはずの人物が、宇宙においてマジョリティに紛れて暮らしており、且つそこを追われて宇宙を「放浪」することを強いられるのは、充分「貴種流離譚」の変奏であると言える。

*2:「特権化された地球」は惑星としての地球そのものとは異なっている。宇宙に散らばる惑星の中のひとつとしての物質的な地球と、物語的な根拠としての「地球」は「機動戦士ガンダム」シリーズにおいては重ね合わされているが、ここでは別様なものとして考えなくてはならない。

「新海誠展」雑感

先日は文フリお疲れ様でした。ドゥルガ2号をお買い上げくださった方、誠にありがとうございます。

今後も毎週水曜日のブログ更新、またドゥルガ3号発行に向けての準備を行っていきますので、なにとぞよろしくお願いいたします。

 

さて、ひと段落ついたことだし小休憩、ということで乃木坂の国立新美術館で開催中の「新海誠展」にぶらりと行ってまいりました。運慶展はうかうかしているうちに終わってしまっておりました。行けばよかった……東大寺にでも行くしか……

 

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特別展があればだいたい国立新美術館には来るので特別感慨が、というわけでも正直ないのですが、記事のために写真をとってみました。新海誠という文脈だと一応『君の名は。』の聖地ですね。まだ10周年の現代的なデザインは『君の名は。』の東京のイメージとたしかに合っていると思います。月曜の開館直後に来た(暇人がばれる)ので人も少なく、いい天気で採光性の高いラウンジによく陽が差していたので、これまでに国立新美術館に来たなかでいちばんおだやかできれいな廊下でした。

 

shinkaimakoto-ten.com

 

行くまえ、新海誠の仕事を展示していったいどうするのだろう、と思う部分がありました。運慶やジャコメッティなら展覧会を開く意味が大いにあるでしょう。あるいはゴッホやダリにしても同様に。もっとも暴力的に理由を一言で表せばもちろん、本物が見られるから、ということになります。ではアニメーションにおいて「本物」とは?

今年の夏、作家のデビュー十五周年を記念した「西尾維新大辞展」に行ってきました。アニメーションやイラストも多いなか、展示のかなりの割合を文字が占めていたことが印象に残っています。文字というのはここでは当然印刷された活字であって、物質的側面において固有なものというのは存在しません。思えばある意味特殊な空間だったかもしれません。もっともアニメやそこから派生する文化にまつわるこうした展覧会は最近とみにメジャーになっているのだろうと思います。きっとある種のアウラを感じるために美術館に行くという考えはもうとうに古くて――たとえばヴェネツィア派の絵画を教会で見ないでどうするのかとか、便器を美術館に置いたら美術品になるのかとか、そういう古典的な問題が示しているように、美術館という場所がある種のねじれを抱えているのは昔から周知の事実ですが――、ある線に沿った知を得るために行く、あるいは単に囲まれるために行く、そういう場になっているのかもしれません。あるいはジャコメッティ展のような展覧会と「西尾維新大辞展」のような展覧会を区別して考えた方がいいのかもしれませんけれど。

exhibition.ni.siois.in

新海誠展」はその場合やはり後者に属します。展覧会中の解説でも強調されていましたが新海誠は特にデジタル処理を制作で多用している監督であり、原画や、アナログ式制作に一度回帰(アニメ史的に見れば回帰ですが、最初からデジタルで作業している新海にとってはひとつの挑戦といえます)した作品『星を追う子ども』に関連する一連のものたちなどをのぞけば、本で見るのと変わらないんじゃないかという気もしてきます。

ただ、これら全部に目を通したことがあるのは相当熱心なファンだろう、と思わせるようなかなりの数の資料群を一度に見ることができたのは、なかなか腰を据えて研究するほどの時間はない人間にとってはよかったかなと思います。『ダ・ヴィンチ』の新海誠を特集した号の「新海誠を作った14冊」というページがボードになって壁に展示されていたのですが、そのなかの一冊に柄谷行人日本近代文学の起源』があって、なんだかとても安心してしまいました。新海作品の風景の描き込み度合い、内面をめぐる物語、両者の密接性を考えれば本当にむべなるかなという感じですが、作り手の側にも念頭にあったのですね。ただ、そのボードの下に設置されたショーケースのなかに文芸文庫版の現物が展示物として得意げにおさまっているのを見たときはさすがにびっくりして笑いそうになってしまいましたが……うちにもあります……

アニメーションってやはり層なのだな、ということが今回感じられたことです。それはもちろんパラパラまんが的な意味での時間的な層の連なりということでもあるのですが、映像のなかのカット一枚を取り出してみてもそれが雲母のように層的に出来上がっていることが今回わかりました。たとえば『秒速5センチメートル』の場合、Photoshopで制作された背景の絵が50枚のレイヤーを重ねてできあがっているそうなのですが、その細かく分割された部分部分を光の加減など必要に応じて丁寧に調整することであのようなきめの細かい美術を実現することができているということでした。人物にしても輪郭線や色彩が数枚~数十枚の層で構成されてできています。特にデジタルで処理する場合は層の下の方にあるものもつぶれてなくなるわけではないので、効率的かつ繊細に画面をいじることができるという利点がここで生まれるわけです。同じ平面でも単なる油絵などとは明らかに違うよなと思わされます。

 

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出口のところのフォトスペース。自己聖地化が行われていました。ちなみに午前だったからか来場者の平均年齢は大学生よりは高い印象でした。表示は日本語と英語のほかに中国語・韓国語でも書かれていました。いちどロシア語(たぶん)も聞こえました。

ちなみに、第二外国語を勉強されている方は外国語版の『君の名は。』の予告を見比べると面白いです。最後の【(三葉)「あなたは……誰?」(瀧)「お前は……誰だ」(二人)「「『君の名は。』」」】の一連の流れであっこれ一番最初に覚えた例文じゃんってなります。たとえば仏語版だと【「Comment tu t'appelle?」「Comment tu t'appelle?」「「Quel est ton nom!?」」】、伊語版だと【「Chi sei?」「Chi sei?」「「Come ti chiami!?」」】。「Comment tu t'appelle?」「Come ti chiami?」あたりは特に教科書の最初に書かれてある可能性が高い文で、こういうこと言うのもたいへん恐縮ではあるのですが、ネイティブじゃない身からするとなかなかじわってしまいます。単純すぎる文であるがゆえに翻訳が難しいですね。仏語版の予告は「your name francais」とか検索すると出ます。

 

 

余計なことしかしゃべっていませんが、それではまた。

 

(奈)