web版アニメ批評ドゥルガ

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アニメに纏わる記事を書いています。毎月第四水曜日に更新。担当者が異なります。

ネタバレ有り感想。岡田麿里『さよならの朝に約束の花をかざろう』

 

この記事は岡田麿里が脚本・監督をした作品のネタバレを含んでいます。

 

 

 

先日、『さよならの朝に約束の花をかざろう』を見に行きました。岡田麿里監督で「花」っていうと『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』を否が応でも想起して仕舞いますが、今回はむしろ『あの花』ほどの岡田節(というのでしょうか)が感じられませんでした。

脚本岡田麿里の他作品と比べて

先ず物語から考えていくと『あの花』と『心が叫びたがってるんだ。』はともに現代が舞台で、一つの不在がお話の核になっていました。『あの花』の場合は「超平和バスターズ」という幼馴染の絆(メンマの死が原因になっています)。『ここさけ』の場合は主人公・成瀬の声(=本心を伝える手段)です。岡田麿里は生々しい恋愛描写が特徴的であるといった評判がありますが、代表作とされる作品の中心になっているのは、むしろ恋愛を越えた絆だったり、心だったりするのです。

この二作はA-1 Pictures元請けのオリジナルアニメで『超平和バスターズ』というグループの長井龍雪監督、田中将賀キャラクターデザインと一緒に制作していますが、今回の『さよならの朝に約束の花をかざろう』では周知のように『true tears』や『花咲くいろは』の元請けであるPA.WORKSが制作会社になっています。『凪のあすから』で岡田麿里脚本と組んだ篠原俊哉監督が『さよ朝』では副監督を担当しています——篠原監督は『あしたのジョー』などで有名な出崎統派で(とわたしは勝手に呼びますが)止め絵を多用した『グラスリップ』の絵コンテも切っていました——から今回はむしろ『あの花』『ここさけ』路線よりも『凪あす』路線だと思ったのですが、その勘は見事に外れてしまいました。

もちろん『tt』『いろは』『凪あす』においても作品の核は恋愛から少し逸れています。『tt』は少し難しいですが漠然と居場所、『いろは』は一緒に働くこと、『凪あす』なら海と陸との神話的な対立が物語を構成し、その中で多様な人間関係が縺れ合って成就したり破局を迎えたりします。この多様な人間関係こそが、むしろ岡田作品のひとつの強さだと思います。つまり生々しさの所以とでもいえるのでしょう。特に『凪あす』は昼ドラと形容されるほどに三角関係では割り切れないような関係の網の目に引っかかる若者たちのジュブナイルです。

しかしこの『さよ朝』は異なります。

 

ガンダム』の脚本をやっているので現代青春群像劇しか書けないというわけではないというのは知っていましたが、ここまで王道ファンタジーが来るとは思いませんでした。

さよならの朝に約束の花をかざろう』では。

『さよ朝』で作品の核になるのは「母親の愛」であり、時間上の制約もあるのでしょうが多くが母親・マキアと息子・エリアルの関係に終始するのです。もしくはマキアの幼馴染・レイリアと娘・メディメルとの対比が描かれていきます。先んじて言えばマキアとエリアルは血のつながりはありませんが、そのことによって恋愛関係に至ることもありません。エリアル自身は母子の関係に不満をもっていないわけでもなさそうな描写はあるのですが。つまり他の作品と比べて関係が狭いんですね。

同じ劇場版の『ここさけ』も確かに主要な登場人物を四人に絞っていますが、固定した男女関係や三角関係ではなく、常に変化していく成瀬の欲望によって人物関係もまた変化していくという物語でした。これについては玉子と王子・声と文字の『心が叫びたがってるんだ。』 - web版アニメ批評ドゥルガに詳しく書きました。

しかし今回の人間関係は基本的に一定です。レイリアとクリムの関係が変化してしまうだけで、それこそ歳をとるのが遅いという設定からか、より普遍的な母として描かれているような気がします。もちろん姿が変わらないために一時は姉と偽ったりしますが、しかし最後にお婆ちゃんといふうに描かれるのではなく、やはり母として描かれているのはその証な気がします。それこそ神話的なものとしての母ですよね。

そのため物語の構造は至って単純(だからこそ失敗はできないわけですが)です。

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↑公式サイトの人物相関図(引用元:http://sayoasa.jp/sp/history.html

レイリアとクリムの関係以外は凡そ同じです。クリムは終始レイリアを思いますし、マキアもクリムに協力しようとします。

わたしはもし小説が出るとしたら(出ると思っていますが)レイリアに仕えたイゾルマキアに支えようとしたラング、この二人のお話が主眼になると思います。

 

 

 

「単純」な物語にのせて。

脚本家が監督をやるなら、脚本で勝負するのだろうと思うのが普通ですし、わたしもそう思っていました。しかし、映画を見てからわたしが感じたのはこの作品の映像・音楽・脚本のバランスの良さです。

キャラクターが通行人の歩く街並みをすり抜け家に帰って子守をして床につき、朝になれば働きに出かける。酒場で働く描写もとても丁寧で、服飾や髪型も都度変わっていきます。機織りの同時に複数の方向に糸や木材が引っ張られて、それが何度も反復され布ができていき、工業地帯に建つ高層建築物に組み込まれた大きな歯車が外から見えて、成長したエリアルが夜勤に出かける。中世というよりは産業革命を思わせるような、そういった「生活」を短い時間内に効果的に描写していながら、王道ファンタジーというか殆ど昔話の形態学的な物語構造が共存し合いっていて、そしてその「生活」から「物語」への移行がとても自然です。

 

 

youtu.be

予告を見てわかる通り、縦運動がとても多く出てきます。映画本編の序盤ではほんとうに上にパンするカメラも多かったです。イヨルフの塔に吊るされる布(0.22)、レイリアの飛び込み(0.13)、花の胞子(0.16)、垂直に切られる旗(0.40)がPVでは見られます。映画本編ではレイリアの飛び込みはラストで伏線回収になってわかりやすいですが、それだけでなく最後にエリアルに会いに行った帰りにタンポポ(でしたっけ)の胞子が画面一杯に飛んでいくのに繋がっています。布が重要な位置を占めていて(布がイヨルフたちの言語なわけですが)布と対照的なのが旗であり、敗戦後の王国で旗が切り下ろされるのがしっかりと描かれています。

レナトという竜が出てきますが(1.12)、この竜の重量感がありそうでないのが絶妙だなと思いました。パレードのときの足の運びや塔で眠っているときなどは重そうなのに、飛んでいると凄くスカスカな感じがして神話感があったと思います。なんとなくですが2017秋~2018冬の二クールやっていた『魔法使いの嫁』のドラゴンを思い出しました。この竜で移動するのはかなり物語的だなあ、と思いました。魔法のアイテムを贈与されて移動するというのは昔話の典型ですから。

文明と神話の対立が主軸と見なすこともできるかもしれません。『凪あす』みたいに。しかしこの作品の視点がほとんどマキアにあって、「母になること」というテーマが何度も形を変えて繰り返されるから、もちろんこの作品は主題「母」だと思いますが。

血をめぐる問題。

しかし、その「母になること」というテーマの最後の部分で、わたしは違和感を覚えました。それは出産という、それこそ生生しいシーンなわけですが、それを戦火とカットバックしてしまっていることです。エリアルの戦闘シーンとエリアルの子を身籠ったディタの出産シーンは確かに同時系列に起きていることだといってしまえばそれまでですが、しかしエリアルと兵士が切り結び血が舞ったカットと子どもが生まれるのが完全に連続してしまっているのはちょっとヤバいのではないかと思いました。これはカットバック(隣接)が極点に達してマッチカット(類似)になる一つの例としてとても成功していると思いますが、言ってしまえば殺人と出産が「血」という生生しい物質を介して接続してしまっているんです。 エリアルと最初に出逢ったときに巻かれていた布にも血が付着していました。そしてそれをエリアルの最期に際してマキアが掛けてあげるわけなのですが、その血は染みになっています。エリアルの出自にも殺人と出産が重なり合っているんですね。 PVでレイリアが自分のお腹に髪飾りを突き刺そうとしているシーンがありますが(0.58)、凄いと思ったのはお腹よりも下のほうに手をおろすところです。狙いをつける仕草がとても丁寧です。

感情でも状況でもない雲

たぶん『さよ朝』の情報がはじめて出たのは雲、しかも夕焼けに染まりきらない雲の真ん中にタイトルがある画像だったと思うんですが、この雲とても複雑です。

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これですね。この雲のときにはエリアルと別れています。PVで(1.22)くらいです。

PA.WORKSにSHIROBAKOというアニメ制作を主題としたアニメがあって雲専門の美術監督が出てきます。その際にただ夏だからという理由で入道雲という思考停止のテンプレに怒りを呈しているわけですが、実際に風景(特に空模様)はよく状況や感情の説明として使われます。日本の近代文学が風景によって内面を描いたと分析した文芸批評家兼哲学者の柄谷行人の本が「新海誠を作った14冊」『ダ・ヴィンチ』に入っているのを勘案すると、アニメでは基本的な演出テクニックのようです。

ではこの作品の実質的なクライマックスをかざる雲は、しかし母子の別離や戦火の哀悼、誕生の喜び、神話への帰還そういった状況や感情には付帯していないように思えるんです。画面右側の前景に斜めに走る薄い雲、後景には前景よりは厚くて影のある雲、左側には弧を描くとても薄い雲が走っています。そして日光は左側から入り込んで、実は本編だとこれは夕暮れではなくて朝焼けなんですよね。ポスターは確実に夕焼けなんでしょうけど。美術がとても優れた作品だと思いました。

 

 

上映開始からかなり経ってしまいましたが『リズと青い鳥』も4月には上映開始しますし、4月からのTVアニメも期待の新作・続編がはじまりますから当分は退屈することないでしょうね。わたしは最近、東京喰種を1・2期見てとても良かったので、3期にとても期待しています。また1か月後に更新になると思いますが、一応ブログは継続していきますのでよろしくお願いします