web版アニメ批評ドゥルガ

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アニメに纏わる記事を書いています。毎月第四水曜日に更新。担当者が異なります。

アニメオリジナル〔日常〕から劇場版〔非日常〕へ 涼宮ハルヒの憂鬱『サムデイ イン ザ レイン』について

その日も寒い一日であったのだろうが、「地球をアイスピックでつついたとしたら、ちょうどいい感じにカチ割れるんじゃないかというくらい冷え切って」いるような印象もなく、明日が来てしまえばどのような日であったかも思い出せないような何気ない一日であったのだろう。『涼宮ハルヒの憂鬱』として放送されたテレビシリーズの最終話『サムデイ イン ザ レイン』は、それまで繰り広げてきたような非日常を巡る物語から一転して、このようなSOS団の何気ない「日常」を切り取ったような回である。
OPの直後からSOS団の面々がそれぞれ暇を持て余している様を部室の角から描くカットから始まり、背後からは運動部の掛け声が聞こえ、何かが起こる気配さえない。我々はそこから彼らを覗き見ているかのようだ。それぞれの様子を真上から描くカットが挟まれ、キョンの顔が映し出されると、彼はハッと何かから醒めたかのように、ナレーションを始める。そのナレーションの最中、キョンの視線の動きと共に、これまでの物語に登場した「小道具」の類が部室に堆積している様々な事件の記憶としてアニメの放送回順に次々と描き出され、キョンは、それらの小道具に導かれるようにして、事件のきっかけはいつも団員たちがまったりと過ごしている時にハルヒが突然部室へと入り込んでくることから始まるのだというこれまでの物語のパターンを想起する。その時、何かしらの非日常的な事件を期待する人々に「毎日そんなこと起こりはしない」とあらかじめ断りを入れる彼の言葉の端々からは宇宙人や未来人や超能力者と同じ空間にいながら、そのような非日常的空間に半年という時の経過で「馴れ」てしまった様子が見え隠れする。そして、ハルヒは彼の想起したパターン通りに部室へと姿を現すのだが、いつもと事情が違うのは、彼女の登場と共に、物語の端緒としてもたらされる「朗報」が物語の端緒とはなり得ないものであるという点だった。何故そう言い切れるかと言えば、その「朗報」と共にキョンに与えられた「商店街の電気屋から暖房器具を譲り受けてくる」という指令は、本来の目的とは別に、「みくるの写真撮影をしたい」というハルヒの思惑を達成するためにキョンを厄介払いする意図があってのことだからである。そのため、この指令はハルヒのやりたいこと(あるいは無意識の願望)にキョンが巻き込まれるという物語のパターンから外れたものであり、その結果、ハルヒキョンが同時間に別々で全く異なる意図で行動するということになる。常にハルヒキョンという二人のキャラクターを中心に形成してきた物語のパターンが、ここでは見事に外されている。
その結果、画面には、キョンの行動を映す場面とハルヒ達の行動を映す場面が交互に描かれることになる。無論、両者は互いの行動には関知しない。
このような同時間に異なる行動をする人物達を映すということは、原作小説において不可能であるということは明白であろう。原作はキョンの一人称視点による語りによって構成されている以上、我々はキョンの知り得ないことを知ることは出来ない。だが、アニメオリジナルであるこの回のみにおいて、我々はキョンの知り得ないSOS団の団員の姿を見ることになる。キョンが視点人物である時、画面の構図はキョンの視点を借りたものになるか、あるいはキョンハルヒなど主要なキャラクターを中心にしながら動かされていく。それは、原作小説がキョンの語りによって構成されており、そのことが作品世界の一貫性を担保するという形式に関わっているのだろうが、とにかく、このアニメーションは客観視点でありつつも、その構図や視点に関しては、キョンというキャラクターを介在して取られることは明らかだ。そうなると、キョンが部室を後にした後を映し出す「視点」は誰を介在するものなのか。
キョンが部室を出ると、ハルヒはみくるを被写体として撮影を始める。みくるは戸惑いながら抵抗するが、小泉はいつものように笑顔でハルヒの意向に従う。そして傍らでは長門が本を読む。キョンがいないことを除けば、いつもの光景だった。しかし、画面の構図という意味では、違和感が伴う。写真撮影の様子は、近影によってではなく、冒頭とは位置こそ代わっているものの、同じように部室の天井に防犯カメラが仕掛けられたような、部屋の角からのハイアングルな構図であったり、或いは本棚の中から部室を収める構図を取ったりしており、視点人物を欠いて正当に「見る」権利を失い宙に浮いた視点が、メタな設定や構造に敏感な彼女たちを憚りながらその様子を「隠し撮り」するような構図に終始する。
キョンに視点が移されると、彼がいつものようにナレーションで一人愚痴を零しながら登下校の道を辿り、ハルヒからの「依頼」を難なく達成する様子が描かれる。だが、そこに物語の端緒は見いだせない。電気屋の主人との会話は、新たな事件の萌芽こそ現れるものの、それは作品空間の中で全ての根拠となるハルヒの口を通して語られていない以上、根も葉もないうわさ話に過ぎないだろう。しかし、構図という点からしてみれば違和感はない。
 そして再び冒頭と全く同じ構図で部室が映し出された時、ハルヒとみくると小泉が唐突に部室から姿を消し、一人長門が冒頭と同じ場所に座りながら本を読んでいる様子が描かれる。このカットはしばらく構図を変えず、後ろからはラジオなのか演劇部の練習なのか漫才なのかよくわからないようなやり取りがとりとめもなく流れてくる。しかし、これによって「長門有希」という存在がいかにこの世界で薄い存在であるかに見る者は改めて直面することになる。
 作品空間の根拠であるハルヒを欠いていている中で、動くことなく読書を続ける長門を撮ったとしても、そこに物語は発生しえない。彼女が物語の構造から与えられる本来の役割は、キョンが知り得ない情報を与えたり、キョンが出来ないことを代行したりする補助の役割であり、作品の内容上の役割でも、「統合思念体」と呼ばれる存在が「涼宮ハルヒ」を観察するための存在でしかない。だからこそ、彼女は物語に「主体」的に関わることを許されてはいない。そのように二重の意味でプログラムされたキャラクターである。この「プログラム」は彼女に感情を表出させることや、不用意に言葉を発したり、行動をしたりすることを許さない以上、彼女にとっては「抑圧」として作用するだろうし、この構図そのものが、外で写真撮影をするハルヒたちから省かれ、一人でいつもと変わらぬ姿勢を強いられる長門を「観察」しているかのようだ。実際、この回において長門が声を発するシーンは無いし、読書をしている体勢から動くのは、みくるが無理やり着替えさせられる時にタイミングよく立ち上がって読んでいる本を取り換える時と、部室へみくるを探しに訪れた鶴屋さんに彼女たちの場所を教えるために窓の方を指さす時などのわずかな場面しかない。この防犯カメラのような視点が「カメラ」ではないことは、その後の場面において跳び箱を飛ぶみくるやチアバトンを回すみくるやハルヒを描いた場面が、文化祭の時に手に入れた「ビデオカメラ」で撮られたものであるようなカットであることから明らかになるだろう。この「ビデオカメラ」が介在する構図との差異によって、一人の長門を描くという物語上無意味な構図が初めて別の意味を帯び始める。
 鶴屋さんにみくるたちの位置を教えた後に取られる構図は、別の棟にいるハルヒ達の様子をどこかの部屋から窓越しに見ているような構図であった。この回で一番特異であると思われる視点は、もはや「隠し撮り」でさえない。この視点は、描かれている窓枠などから考えると明らかに誰かが部室から離れた所にいるハルヒ達を眺めるという視点を取っている。だが、本来そのような一人称視点を取りうるはずのキョンは部室にいない以上、この視点を取りうるのは長門以外にはいないのだ。

 この構図は長門の「内面」が表出したものだとするような考察を得て終わることも出来るが、さらにここで見てみたいのは、ハルヒ達を遠景で捉えるという長門の視点そのものが、長門が自己をSOS団から疎外化し、ハルヒ達を「外」の風景として捉えることを可能にするということだ。このとき、長門は物語の役割から解放され、それぞれの立場からの思惑がありつつも、感情を持ち人間として主体的に「日常」を生きる他のキャラクターから自らを疎外する。そのため、長門は言葉を用いることなしに、「内面」を発見したと言えるだろう。このことが、作品空間にいかなる変容を強いるかは、追って別の機会に劇場版を確認しようと思う。
 だが、ここでもひとつ見ておきたいのは、この長門に見られた自己疎外化は長門固有のものではないということだ。涼宮ハルヒが自分の「普通さ」を自覚した経験をキョンに語る場面がある。そこで語られる経験は、「自分はプロ野球観戦の時に球場に存在した溢れんばかりの人のうちの一人に過ぎないこと」を、「観客」という風景から自分を疎外化し、改めて近代的な等質的空間の中で、自らもまた「観客」という風景のうちに過ぎないということを確認する過程で「普通さ」を自覚するというものであった。物語の「主人公」たることが出来ないというルサンチマンが、彼女をキャラクターに仕立て上げたのだ。そしてキョンもまた、物語の冒頭にて、「主人公」に対するルサンチマンを独白する。この冒頭の独白は、近代日本文学における「告白という制度」と、語り手としての「キャラクター」に要請される制度の起源が同じものであること示してもいる。さらには、人間からの疎外化によって、非人間的なキャラクターの内面を描くことが可能になるという意味では、大塚英志手塚治虫のまんがから見出した「アトムの命題」が、キャラクターを生み出すひとつの「制度」となっているのだろう。

 

本記事においては、以下の文献を参考にした。
大塚英志アトムの命題 手塚治虫と戦後まんがの主題』(角川文庫、二〇〇九)
大塚英志『キャラクター小説の作り方』(星海社新書、二〇一三)
柄谷行人日本近代文学の起源 原本』(講談社学術文庫、二〇〇五)