web版アニメ批評ドゥルガ

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アニメに纏わる記事を書いています。毎月第四水曜日に更新。担当者が異なります。

声だけの聖地巡礼―後藤明生「ピラミッドトーク」で幕張を歩く

椅子に座る仕事が連日続いていたのでそろそろ遠出したいと思っていたのですが、最近後藤明生の「ピラミッドトーク」を合評する機会があってちょっと歩いてみたいなと思ったので出かけることにしました。

 

首塚の上のアドバルーン (講談社文芸文庫)

首塚の上のアドバルーン (講談社文芸文庫)

 

 

短編「ピラミッドトーク」はこの『首塚の上のアドバルーン』の最初の一篇として収録されています。家になかったのでまず買ってからその足で出かけようと思ったのですが、近所の本屋を三軒回ってもなく、ブックオフにもなく、いちど新宿に出ることにして、そのあと二軒目の本屋でようやく発見しました。大して早起きだったわけではないのですでに正午を回っていました。三文の徳って本当だよなあと思いながら黄色い電車に乗ります。

マンションの14階に引っ越した語り手がその転居祝いとして、頂上を押すと女性の合成音声が時間を教えてくれるピラミッド形の時計、通称「ピラミッドトーク」を編集者の高田氏からもらうところから小説は始まります。ちょうど日航ジャンボ機墜落事故(1985年8月12日)が起きたときで、かい人21面相事件(1984・85年)の記憶もまだ新しい時代です。ちなみに初出は1986年5月号の「群像」なので、書かれた当時の時代の様相をある程度映していると言えそうです。マンションの場所は「そこの目の前の放送大学もベランダから眺めるだけ」とあることから幕張だとわかります(ちなみにそのあとの短編では地名が重要になっていくので「幕張」とはっきり書いてあります)。

小説のなかほどで、語り手はマンションを訪れることになった「吉沢氏」に電話で道順を説明します。これが一度では覚えきれないぐらい長く、ある意味詳しいといえば詳しいのです。

 

約半年の間に私は、何人かの来訪者に駅からの道順を電話で説明した。ほとんどが仕事のための来訪者で、すでに何度も会っている人々であったが、一度は説明しなければならない。電話は数日前のこともあり、前日のこともあった。電話の度に私の説明も次第に要領よくなってきたようである。 

 

というわけで、いま、後藤明生の案内音声にしたがって、駅から彼のマンションにたどりつくことを試みようと思います。

 

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各駅停車のみが停まる総武線幕張駅からスタートです。2017年のいま「幕張」と聞いたとき「幕張メッセ」「幕張新都心」といった現代的な街並みを思い出すことも多いと思うのですが、幕張駅から見える建物はどれも丈が低く、空が広いです。

 

国鉄の駅の南口、つまり海の方へ出て階段を降りて下さい。 するとタクシー乗り場があります。いつも二、三台停っていて、田舎ふうの中年の運転手が車の外で煙草を喫ったりしていると思いますが、そうです、もちろん乗る必要はありません。そのタクシー乗り場のすぐ前から商店街になっています」

 

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タクシー乗り場はありましたが、タイミングなのか時代の流れなのかタクシーは一台も停まっていませんでした。商店がまばらなので写真だとふつうの街路と違いがわかりにくいですが、たしかに商店街はあります。お昼時に南へ歩いているのでどうしても逆光です。

 

そうです、どこにでもある、古くさい田舎ふうの商店街ですが、とにかく道の左側を歩いて下さい。少し行くと電車の踏み切りがあります、そう、そう、京成の踏み切りです。 

 

「田舎ふう」かはわかりませんが、古いお店がそのまま残っているような印象はあります。

 

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京成千葉線の踏み切りです。総武線ほどではないにせよ古くからある路線のようです。

 

それを渡るとまた商店街で、間もなく歩道橋があります。旧千葉街道の歩道橋ですが、これは大して広くありませんし、登らずにそのまま信号で横断した方が便利です。 

 

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歩道橋の下の信号は「自動車専用」となっていて車両用の信号機と自転車用のレーンしかなく、「歩行者は歩道橋を通行してください」という看板もあったのですが、実際のところ信号を待っている人は普通の歩行者も多かったです。信号の方が便利なのは言う通りという感じがします。

 

そうです。それで、その一つ目の歩道橋が商店街の切れ目でして、そこを過ぎると、がらりと眺めが変ります。道幅が急に広くなり、ぽつんぽつんと喫茶店や食堂みたいなのがあったり、車のショールームのようなものやらマンションやらがあったりします。 

 

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確かに。

 

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写真だとわかりにくいのですが、中央に写っている建物に「放送大学」の文字が見えます。赤と白の鉄塔も放送大学のものです。

 

そう、そう、何だかとりとめのない、子供が画用紙に描いた地図というか、出来かけのニュータウンというか、そんな感じの風景ですが、とにかく、そのまま左側を歩いて来て下さい。そうしますと右手に真白い壁のバカでかいマンション、左手にバカでかいNTTのビルがあり、これまたバカでかい歩道橋にぶつかります。この二番目の歩道橋は登って下さい。

 

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「真白い壁のバカでかいマンション」「バカでかいNTTのビル」は見当たらない……時代が変わったんだろうか? でもこれは確かに「バカでかい歩道橋」ですね。

 

六車線で、中央に植え込みのあるかなり広い自動車道路ですから。そして、その歩道橋に登ると、そこから前方左手に、十八階建てのハイツが四棟、コの字形に建っているのが見えます。そうです、そうですね、色はダークグリーンということでしょうかね。

 

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んん……? コの字形のハイツは見えません。というか六車線なのかもわからないし、これは湾岸道路では……?

 

それで歩道橋を降りますと、左手は広い空地で、どこの土地なのかわかりませんけど、高い金網の柵がめぐらしてあります。その金網沿いに歩いて来るのですが、ところどころに車が停っています。本当はそこは歩道なんですがね、あ、そうか、吉沢さんは車は詳しかったですね。そうだな、乗用車が二、三台、それとライトバンみたいな車もあったかな、とにかく金網沿いに車が五、六台置いてあります。それで最初は、ひどい駐車違反だなと思っていたんですが、どうやら、そうではなくて捨てた車らしいんですね。そう、そう、粗大ゴミ、それですよ、まさに。粗大ゴミの車です。捨てるなら金網の中の空地に捨てればと思うんですが、入れないんでしょうね、おそらく。

 

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空き地ではなくて立派な施設が建っていますが……

 

それで、その金網の空地を通り過ぎると、もうすぐです。約百メートルくらいで、左側にこのハイツの入口があります。入口の門は道路に面してまして、建物は約五十メートル奥になりますが、入口を入って真正面の棟です。その真正面の棟の一番左端の、あれは何というのですか、玄関でもないし、ポーチというんですか、ちょっと出っ張った部分。そうです、その一番左手のエレベーターに乗って下さい。そう、十四階です。エレベーターは、各階の二軒専用式ですから、十四階で降りれば、すぐ左、いや右側かな。とにかく降りれば右か左かの二軒だけですから、すぐわかります 

 

以上で案内は終了です。

 

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それらしい建物にあたる前に京葉線の高架(ちなみに1986年3月開業)が見えてきてしまいました。「湾岸の向うの新国鉄京葉線は来春開通でしょう」という台詞があるので、幕張駅から歩いた場合は語り手宅→湾岸(湾岸道路)→京葉線、の順にならないといけないことになり、つまり行き過ぎたことになります。見事に失敗してしまったわけです。

何が悪かったのか。あとでストリートビューなども駆使して調べてみたところ、最初の自転車専用信号があった歩道橋を「バカでかい」「二番目の」歩道橋と考えれば辻褄が合いそうです。確かにその歩道橋があったのは「六車線で、中央に植え込みのある」道路でした。その先の左手に金網の柵のある空き地もありますし(放置車両はともかく)、道路に面したハイツもあって、そこが実際後藤明生が住んでいた場所であるようです。「一番目」の歩道橋は撤去されたのか、よくわかりませんが、あったとおぼしき交差点は歩道橋の跡どころか設置しうるスペースがありそうになく、道路も片側一車線だったので完全に気づきませんでした。「旧千葉街道」というところとかをヒントにしていればたどりつけたかもしれません。

こうして失敗してみて(ひどいレポートになってしまってえらい申し訳ないですが)思うのは、これまでの聖地巡礼は図像と地図に頼りきっていたというごく当たり前の事実です。言葉というものが不確かすぎるのです。地図を使うのは効率の問題なので措くとしても、アニメの聖地巡礼であれば対照する図像があるので、それと見比べて(あるいは思い出しながら)街を歩けばさしたる苦労はないし、「あっ、ここか!」と思う場所がいくつもあるかと思います。もとがただの言葉の場合はどうしても確信が持ちきれません。ひどい場合(たとえば今回のような場合)だと取り違えも起こるでしょう。

それにしても、実際に歩いて気づくのは、こんなにくだくだしい説明をしていながら道はものすごく簡単だということです。なぜなら一度も曲がらされていないからです。おそらく本当に要領のいい説明なら「駅の南口から1kmくらいずっとまっすぐ行くと左手に○○ハイツがあるのでそこの14階です」でも事足りそうです。すごく複雑そうな道をたどっていながら実は一本線だった、というのは、また『首塚の上のアドバルーン』を読み返した時に反映されるものがありそうです。

 

余談。

 

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京葉線海浜幕張駅。『Fate/staynight [Unlimited Blade Works]』で冬木市の新都として背景に使われたらしいです。Fateシリーズだと神戸にある赤い橋が聖地として有名ですが、土地性にこだわった一部のアニメをのぞく多くのアニメがそうであるように、現実の風景をつぎはぎ的にもってきてひとつの虚構都市を作っているわけですね。新都心という名前のとおりの現代的な街並みはたしかに作品と合致しているように思えます。駅周辺のマンションはどれも高くて、きっと三十年前といまとでは「バカでかい」の基準も違っていたんだろうという気がします(その辺も取り違えの原因である気もします)。

千葉だと『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』『きんいろモザイク』ほか多数聖地があるみたいですのでまたいろいろ行ってみたいですね。

 

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「ピラミッドトーク」では「人工海水浴場」となっていた幕張の浜。看板を見る限り「海水浴場ではないので遊泳禁止」であるようです。時代を経て方針が変わったのでしょうか。千葉のコンビナートから東京の湾岸の建造物、おそらくその先に川崎のコンビナートも見えました。スカイツリーや富士山もくっきり見えました。三浦半島は地勢的に難しそうではあります。

 

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首塚の上のアドバルーン』の首塚、馬加康胤(まくわりやすたね)の首塚と伝えられているという塚です。埋立地とはうって変わった傾斜地の中腹にあります。まわりもほとんど一軒家です。

 

というわけで年内の更新はおそらく最後です。どんな一年でしたでしょうか。アニメ的にどうだったのかというのは正直私にはわかりません。『けものフレンズ』が今年だったときいて驚いたくらいです。もうはるか昔のことのよう。

あんまり見てない人間が言うことでもないのかもしれないけれど、あとから見返したとき、もしかしたらそれこそ三十年後とかで、いま見ても面白いとか、こういう時代だったんだなとか、そう思えるアニメがいくつかでも残っていたら嬉しいなと個人的には思います。たとえば三十年前のアニメの聖地巡礼をして(よほどの物好きという感じですが)、虚構の風景と現実の風景のずれに気づくといった体験は、もしかしたら面白いのかもしれないと思います。

長くなりました。今年もドゥルガの記事を読んでくださり、まことにありがとうございました。よろしければ、来年もなにとぞよろしくお願いいたします。

 

 

*「ピラミッドトーク」からの引用はすべて後藤明生首塚の上のアドバルーン』(講談社文芸文庫、1999)によります。

*その他当時の出来事の年月日などはWikipedia等を参考にしたため、不正確な可能性がゼロではありません。申し訳ありませんが文献にあたる時間がありませんでしたのでご容赦ください。

 

(奈)

天空から宇宙へ

紅の豚 [Blu-ray]

機動戦士ガンダム 逆襲のシャア

私たちが空を仰ぎ見るとき、その向こう側に神話の世界が広がっているとは考えないのかも知れない。いくら向こう側に「未知の物質」や「UFO」があるのだと言ってみたところで、それを言わしめる想像力は私たちの足元から地続きで繋がっている。もはや「空」と「宇宙」の違いを、我々は地上からの距離や酸素濃度にしか認めないのだろうか。そうだとすれば、少しばかり寂しいような気がする。

 


 『機動戦士ガンダム』(特に「宇宙世紀」のシリーズ)を見ていると、やはり「宇宙」と「空」に対した違いはないように思える。むしろ、物語的に問題となるのは、「宇宙」と「地球」の対立であるのは明白であろう。それは「宇宙世紀」における中心的なキャラクターである「アムロ・レイ」と「シャア・アズナブル」という対にも現れている。物語はこの二人のキャラクターを同時に中心とする楕円的な構造を持ち、時に物語内に別の中心を引き入れつつ、「戦記」としての一貫性と、それぞれの人物のエピソードを描くという物語の上での膨らみを同時に演出している。
虚構内容に留まって考えるならば、彼ら二人は、二つの貴種流離譚の主人公であるという点において、「物語の嫡子」であるということが出来るだろう。アムロ・レイ*1は、地球連邦軍所属の父を持ちながらコロニー暮らしであり、ジオン軍の侵攻に伴って、「難民」となってしまう。 すなわち、地球に住むための正当な権利を持ちつつも、そこから疎外されている。シャア・アズナブルの場合はもっとわかりやすい。彼は元々ジオン共和国の首相であったジオン・ダイクンの嫡子でありながら、側近であったザビ家によって国を追われた身であり、名前を変えてジオン公国の兵士となるである。
このように、楕円状に形成された物語は、相対化された二つの貴種流離譚を内に含んでいるが、そこで描かれる対立は地球/宇宙という二元的な分割を直接の起源として持つ。
それならば、むしろ地球と宇宙の対立のパラフレーズとしての、空と宇宙の対立は重要ではないかという疑問が生まれるかも知れないが、そのように問いを立てるのはまずい問いの立て方である。地球と宇宙の対立は、背後に特権化された「地球」 の存在*2がある。まさしく、両者の対立は特権化され、制度化した「地球」によって保障された対立であろう。だからこそ、『逆襲のシャア』において、シャアはわざわざ地球が引力を持つということを語り直さねばならなかったのだ。

 


「空」が対立の構図としてではなく、まさしく「底なし」であるということに触れたのは、『紅の豚』のマルコにおいて他ならない。
彼が「豚」になるということは、物語内において、彼が唯一人物語から疎外されているということを示している。『紅の豚』の中での物語的対立は、まずマルコという「賞金稼ぎ」と「空賊」という形で現れる。だが、次第にその対立は、マルコへの陸軍からの取り締まりという形を取って、それが全く正当性を持たないということが明らかになり、今度は「イタリア政府」(空軍)とマルコという対立で現れて物語の表層に現れてくる。しかし、それもまたマルコは自らが「豚」であり、人間の法からは疎外された存在であると表明するのだから、このような対立も見せかけに過ぎない。もっぱら、物語の中心的として、マルコを対立軸の片方に置くことを、基本的に『紅の豚』の作中では許されていない。その意味で、『機動戦士ガンダム』シリーズとはいささか事情が異なっている。
では「マルコ」とは何なのかと問われれば、「キャラクター」であるとしか答えようがないのだから、困ってしまう。マルコというキャラクターは如何にして可能となるのだろうか。
マルコははじめから「豚」であったわけではない。勿論、映画の冒頭では既に豚だったのだが、彼は冒頭の時点で過去を既に縮約した形で保持していて、それが冒頭に豚という形姿を取って現れている。このことが示唆されるのは、中盤においてマダム・ジーナと会食する場面だ。ここで二人の会話に上がるのは、二人の飛ぶことを巡る過去である。このとき、ジーナは飛行機乗りばかりを夫にしていて、その夫となった人物は事故で死んでしまうということや、マルコはそんな中でひとり生き延びて今でも飛んでいる存在だということが明らかになる。この時、若きジーナとマルコを写したと思しき写真では、マルコの顔が黒塗りにされている。このとき、私たちは「飛ぶこと」と「死」が密接にここで関わっていることに気づく。
このことが直接的にマルコの口から語られるのはカーチスとの決闘前夜にフィオへ語った戦争の時に自身に起こった不思議な体験を通してであろう。
彼がその時に見たと語る「天空」は、敵味方がひとつの「星雲」の流れとして混ぜ合わされていく様であり、そこでは全てのイデオロギー的対立が無根拠であることを露呈させるような「底なし」の「天空」である。この空は「飛ぶこと」の限界であると同時に、そこから隔てられている限りにおいて「飛ぶこと」が可能となるような彼岸として示されている。マルコは、このような、「飛ぶこと」と「死」が重なりあう空間の中で、「飛ぶこと」を保証するものは何もない。「飛ぶこと」はどのようなイデオロギーによっても正当化され得ない「無根拠」なものであることに、気づかざるを得ない。マルコにとって、飛ぶことという行為はあらゆる社会的関係から隔絶され、彼の飛行する正当性を保証するものは何も無い。
マルコが「豚」であるのは、彼にとって「飛ぶ」という行為があらゆる人間的、社会的関係から疎外された行為であるからである。「飛べない豚はただの豚だ」というあまりにも有名なセリフで彼が吐露するのは、マルコにとって「飛ぶこと」はキャラクターとしての限界であるのだが、それと同時に彼は「飛ぶこと」によってしかキャラクターたり得ないということである。
紅の豚』において、人間であるということは、飛ぶことに何か目的を持つことだ。国のため、金の為、プライドの為……マルコははじめ、そのような対立からは疎外されているために「豚」なのであって、見た目上の差異は物語的対立によって裏付けることが出来ないものである。だが、その差異の解消、すなわち、マルコの形姿が人間に戻すことは、唯一物語だけが可能である。最後の決闘は、フィオを媒介とした物語への積極的な加担によって成り立っている。

 


 「逆襲のシャア」では、やはり地球と宇宙という対立が物語的な対立であるのだが、それは二つの相対的な貴種流離譚として同時的に描かれているために、『紅の豚』とは異なる形であるが、それらの対立が絶対的なものではないということが明らかになっている。しかし、諸対立がひとつに混ぜ合わせてしまうような彼岸としての境界を、地球と宇宙との間に見出すことは出来ない。
 そのせいで、物語は特権化された地球を中心としながら不断に対立の構図を書き換え続けるしかない。アムロやシャアはその書き換え続けられる制度の変動の中にいる。「宇宙世紀」という年号が付かなくてはならないのは、このような変動を超越的に保証する特権的な地球が要請するものだ。そのために、「機動戦士ガンダム」シリーズでは、変動する制度の中で唯一価値の変わることのない「ニュータイプ」という特権的な属性を置き、彼らが社会的な関係から離脱して物語的な関係へと抽出されてゆくことが求められる。だが、この構図も「地球=オールドタイプ」と「宇宙=ニュータイプ」という対立の構図に回収されてしまう。だが、物語的な対立は常に装われたものであるのだから、そのような対立の中に巻き込まれたアムロとシャアはニュータイプ同士で憎しみ、戦わなくてはならない。二人は物語という「メビウスの輪」に囚われ続ける。

 宇宙から地球を見れば、確かに境界線は引かれてなどいない。境界はいつも人が作るものだ。「物語」はそのような対立を創り出す装置である。しかし、そのような境界の中にあって、ひとつ「死」を巡る限界だけは、いくら人間が新たな「物語」を発明しようと、作為的に定めることは出来ない。物語が「死」を越えることは出来ないのだから。「天空」はそのような彼岸を指し示すように思えてならない。このことは宇宙を描くことによって飛び越せるものではない、ということをアムロとシャアによる「対話」が存分に物語っている。

(錠)

*1:アムロ・レイを「貴種」に大別することに抵抗があるかも知れないが、地球に出自を持つ者が、宇宙において特権的なマイノリティを形成していることは明らかであり、そのような特権的マイノリティを分有するはずの人物が、宇宙においてマジョリティに紛れて暮らしており、且つそこを追われて宇宙を「放浪」することを強いられるのは、充分「貴種流離譚」の変奏であると言える。

*2:「特権化された地球」は惑星としての地球そのものとは異なっている。宇宙に散らばる惑星の中のひとつとしての物質的な地球と、物語的な根拠としての「地球」は「機動戦士ガンダム」シリーズにおいては重ね合わされているが、ここでは別様なものとして考えなくてはならない。

「新海誠展」雑感

先日は文フリお疲れ様でした。ドゥルガ2号をお買い上げくださった方、誠にありがとうございます。

今後も毎週水曜日のブログ更新、またドゥルガ3号発行に向けての準備を行っていきますので、なにとぞよろしくお願いいたします。

 

さて、ひと段落ついたことだし小休憩、ということで乃木坂の国立新美術館で開催中の「新海誠展」にぶらりと行ってまいりました。運慶展はうかうかしているうちに終わってしまっておりました。行けばよかった……東大寺にでも行くしか……

 

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特別展があればだいたい国立新美術館には来るので特別感慨が、というわけでも正直ないのですが、記事のために写真をとってみました。新海誠という文脈だと一応『君の名は。』の聖地ですね。まだ10周年の現代的なデザインは『君の名は。』の東京のイメージとたしかに合っていると思います。月曜の開館直後に来た(暇人がばれる)ので人も少なく、いい天気で採光性の高いラウンジによく陽が差していたので、これまでに国立新美術館に来たなかでいちばんおだやかできれいな廊下でした。

 

shinkaimakoto-ten.com

 

行くまえ、新海誠の仕事を展示していったいどうするのだろう、と思う部分がありました。運慶やジャコメッティなら展覧会を開く意味が大いにあるでしょう。あるいはゴッホやダリにしても同様に。もっとも暴力的に理由を一言で表せばもちろん、本物が見られるから、ということになります。ではアニメーションにおいて「本物」とは?

今年の夏、作家のデビュー十五周年を記念した「西尾維新大辞展」に行ってきました。アニメーションやイラストも多いなか、展示のかなりの割合を文字が占めていたことが印象に残っています。文字というのはここでは当然印刷された活字であって、物質的側面において固有なものというのは存在しません。思えばある意味特殊な空間だったかもしれません。もっともアニメやそこから派生する文化にまつわるこうした展覧会は最近とみにメジャーになっているのだろうと思います。きっとある種のアウラを感じるために美術館に行くという考えはもうとうに古くて――たとえばヴェネツィア派の絵画を教会で見ないでどうするのかとか、便器を美術館に置いたら美術品になるのかとか、そういう古典的な問題が示しているように、美術館という場所がある種のねじれを抱えているのは昔から周知の事実ですが――、ある線に沿った知を得るために行く、あるいは単に囲まれるために行く、そういう場になっているのかもしれません。あるいはジャコメッティ展のような展覧会と「西尾維新大辞展」のような展覧会を区別して考えた方がいいのかもしれませんけれど。

exhibition.ni.siois.in

新海誠展」はその場合やはり後者に属します。展覧会中の解説でも強調されていましたが新海誠は特にデジタル処理を制作で多用している監督であり、原画や、アナログ式制作に一度回帰(アニメ史的に見れば回帰ですが、最初からデジタルで作業している新海にとってはひとつの挑戦といえます)した作品『星を追う子ども』に関連する一連のものたちなどをのぞけば、本で見るのと変わらないんじゃないかという気もしてきます。

ただ、これら全部に目を通したことがあるのは相当熱心なファンだろう、と思わせるようなかなりの数の資料群を一度に見ることができたのは、なかなか腰を据えて研究するほどの時間はない人間にとってはよかったかなと思います。『ダ・ヴィンチ』の新海誠を特集した号の「新海誠を作った14冊」というページがボードになって壁に展示されていたのですが、そのなかの一冊に柄谷行人日本近代文学の起源』があって、なんだかとても安心してしまいました。新海作品の風景の描き込み度合い、内面をめぐる物語、両者の密接性を考えれば本当にむべなるかなという感じですが、作り手の側にも念頭にあったのですね。ただ、そのボードの下に設置されたショーケースのなかに文芸文庫版の現物が展示物として得意げにおさまっているのを見たときはさすがにびっくりして笑いそうになってしまいましたが……うちにもあります……

アニメーションってやはり層なのだな、ということが今回感じられたことです。それはもちろんパラパラまんが的な意味での時間的な層の連なりということでもあるのですが、映像のなかのカット一枚を取り出してみてもそれが雲母のように層的に出来上がっていることが今回わかりました。たとえば『秒速5センチメートル』の場合、Photoshopで制作された背景の絵が50枚のレイヤーを重ねてできあがっているそうなのですが、その細かく分割された部分部分を光の加減など必要に応じて丁寧に調整することであのようなきめの細かい美術を実現することができているということでした。人物にしても輪郭線や色彩が数枚~数十枚の層で構成されてできています。特にデジタルで処理する場合は層の下の方にあるものもつぶれてなくなるわけではないので、効率的かつ繊細に画面をいじることができるという利点がここで生まれるわけです。同じ平面でも単なる油絵などとは明らかに違うよなと思わされます。

 

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出口のところのフォトスペース。自己聖地化が行われていました。ちなみに午前だったからか来場者の平均年齢は大学生よりは高い印象でした。表示は日本語と英語のほかに中国語・韓国語でも書かれていました。いちどロシア語(たぶん)も聞こえました。

ちなみに、第二外国語を勉強されている方は外国語版の『君の名は。』の予告を見比べると面白いです。最後の【(三葉)「あなたは……誰?」(瀧)「お前は……誰だ」(二人)「「『君の名は。』」」】の一連の流れであっこれ一番最初に覚えた例文じゃんってなります。たとえば仏語版だと【「Comment tu t'appelle?」「Comment tu t'appelle?」「「Quel est ton nom!?」」】、伊語版だと【「Chi sei?」「Chi sei?」「「Come ti chiami!?」」】。「Comment tu t'appelle?」「Come ti chiami?」あたりは特に教科書の最初に書かれてある可能性が高い文で、こういうこと言うのもたいへん恐縮ではあるのですが、ネイティブじゃない身からするとなかなかじわってしまいます。単純すぎる文であるがゆえに翻訳が難しいですね。仏語版の予告は「your name francais」とか検索すると出ます。

 

 

余計なことしかしゃべっていませんが、それではまた。

 

(奈)

11月23日文学フリマ東京出店のお知らせ

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明日の11月23日の文学フリマ東京にて、ドゥルガは第二号となる冊子を頒布します。価格は恐らく二百円。場所は『二人称・彷徨・東京』という冊子を頒布予定のサークルPABULUMと同じB‐49です。詳しい情報は明日の朝、Twitterでお知らせいたします。
今回は「魔法少女と日常系」という特集で、三本の記事が収録されています。若干魔法少女度は少なめです……。

各記事を読み返してみると、全く異なる作品をそれぞれの方法で論じているにも関わらず、私たちの関心が「時間」という問題に向けられていることに気づきました。勿論、アニメーションは視覚芸術であると同時に時間芸術としての側面も持ち合わせているのですから、このことは至極当たり前のことであるのかも知れませんし、「日常」という語が、ある種の滞留としての時間性を私たちに想起させたのかも知れません。しかし、「時間」という問題は一元的なものではなく、虚構内における時間や画面の上で流れている継起的な瞬間の集積としての時間が考えられるように、複数の次元において考察されるべきものでしょう。私たちの記事をそのような時間論として読むこともできるのかな、と思いました。それ以外にも様々な視点を取って作品が論じられているので、是非とも各記事を読み比べてみて欲しいと思います。もし購入された方がいらっしゃれば、ご感想を頂ければ幸いです。

それでは、明日ブースにてお待ちしております!

(錠)

ある演出的到達点としての映画『聲の形』

先日、『心が叫びたがってるんだ。』に引き続いて映画『聲の形』の勉強会を行いました。

 

koenokatachi-movie.com

 

作中には花や植物がちりばめられています。しかもかなりの種類にのぼり、それぞれアップで映されたりするのです。名前を確認できたものだけでも(花についてそこまで詳しくないので漏れがありますが)、桜/つつじ/シクラメンマリーゴールドシュウメイギク/銀杏/ススキ/コスモス/川の水草カタバミシロツメクサ青いバラのリース/ヒマワリ/ヒメジオンシロツメクサペチュニアサフィニア?)、等々。キク科植物が多い印象です。花言葉の分析を行うと面白いかもしれませんが、ともあれこれだけの種類の植物を精細に描きわけたのは、これまで京都アニメーションが積み重ねてきた写実主義に対する追求のひとつの到達点であるかもしれません(これまでの記事で『涼宮ハルヒの憂鬱』『けいおん!』『響け!ユーフォニアム』について書いたものがありますのでよろしければ参照ください)。

アップで花を画面に収めるには必ず接写する必要があります。つまり対象に近接しなければなりません。そこで問題になるのは遠近法です。『聲の形』においては、カメラを強く意識させるようなピントの切り替え(『聲の形』のなかには写真が登場するので内容面とも無縁とはいえません)やある人物の視点からのカットが多用されることによって遠近感のある空間的な画面がつくり出されました。冒頭と終盤で反復される飛び降りと花火の連関が映えるのも遠近法がそなわっているゆえのことです。それは写実主義的であると同時に、柄谷行人が『日本近代文学の起源』でいうような近代的な場の創出(風景の発見)であり*1、あるいはその遠近法のみで物語を進行させうる、奇蹟が起こらなくても日常的な空間のみでひとつの物語が作られうることを示しています。このことはメタSFとしての『涼宮ハルヒの憂鬱』から、徹底して日常を描写しつづける『けいおん!』を経て現実主義的展開を前面に打ち出した『響け!ユーフォニアム』に至る京都アニメーションの遍歴を考えるうえで重要なものです。

あるいは山田尚子監督に特徴的な演出を考えるうえでも『聲の形』は重要な通過点になったともいえます。それはすなわち手足の描写です。聴覚障がいを扱った作品ということで手話が必然的に描かれることになり、手や腕の精確な描写の技術がいかんなく発揮されているのですが、むしろここで重要なのは足のほうにあります。『けいおん!』などにおいても重要な場面で首から下、あるいは足(脚)が感情を表現してきたわけですが、『聲の形』においてはそれに内容的な必然性が生まれます。主人公・石田将也は自分がヒロイン・西宮硝子をいじめ、因果応報的に同級生からいじめられたことによって、屈折した自意識を抱えてしまい「下ばかり見て歩く」ようになります。画面のカットが石田将也の視点を映すとき、そこには必然的に足が映されるわけです。つまりここで足を映すという表現手法と内容的な要請が一致したことになります。

もっとも、『聲の形』の内容面のみを抽出してとらえたときには賛否が分かれるだろうと思います。物語的にいえば、登場人物たちは誰かを特権的な中心にすることで連帯を維持しているわけですが、その中心たりうる性質とはすなわちマイノリティー性だからです。いじめによるクラスカーストの頂点にいる者、底部にいる者がここでは多数派から逸脱した者になり、頂点にいた者が都落ち的転落を果たすというきわめて原始的な物語の欲望の因果によってすべてが始まります。その具体的な背景にあるものはもはや言及するまでもありません。要は西宮硝子以外にも耳の聞こえない人物が登場したならばこの物語がどのように変質したかを考えるべきなのではないか、という意見が勉強会の中でも出されました。しかし、いじめの問題や身体障がいの問題に真っ向から向き合った作品があらわれたこと自体は歓迎すべきなのかもしれません。難しいところです。

アニメにおけるマイノリティー性については田中ロミオ『AURA~魔竜院光牙最後の闘い~』について考察した記事がありますので、よろしければご参照ください。

 

durga1907.hatenablog.com

 

ともあれ、映像的にとても質が高く声の演技もすばらしい作品だったと思います。青と緑を基調とした映像のなかで無条件に淡い空の色と協賛のみずほ銀行のブルーがよく映えます。今後の京都アニメーションあるいは山田監督の作品でこれまで積み上げてきた演出技法がどのように発展・変質をとげるのか楽しみです。『リズと青い鳥』が公開されたらまた記事を書くことになるでしょう。

 

(奈)

*1:ごく簡単にいえば柄谷は、日本近代小説における内面・自我が、小説において遠近法的な風景が描写され、その風景を見る主体が風景と対置されることによってはじめて見出される、と述べています。詳しくは文フリ販売冊子『ドゥルガ2号』でサークル員が執筆した『ひだまりスケッチ』『魔法少女まどか✩マギカ』の論考をご覧いただければ幸いです(上述した柄谷の理論及びそれの上述二作品への応用という形です)。また、日本アニメーションが日本近代文学の文脈を汲んだものであるかぎり、ドゥルガの論考において柄谷行人は引かれつづけるのかもしれません。

玉子と王子・声と文字の『心が叫びたがってるんだ。』

心が叫びたがってるんだ。』のネタバレ注意!

 

先日、三回目の勉強会を行いました。

A-1 Pictures制作 超平和バスターズ原作の『心が叫びたがってるんだ。』を一緒に見ていきました。

わたしがレジュメをつくったのですが、話すことを念頭においていたので、大幅に改稿して図とともに説明していこうと思います。

www.kokosake.jp

 

 

 

 

 基本的には、お話の分析です。

 

 

物語論的アプローチ

ナラトロジー分析などがある物語論のなかの説話論ですが、たとえばウラジミール・プロップの『昔話の構造分析』や精神分析科医オットー・ランク『英雄神話の誕生』などに代表される一種の構造分析です。彼らは多くの物語に共通される要素を見つけ、一つながりの物語を分節化して、キャラクターやアイテムなどを一定の機能に還元する見方をとりました。日本だと蓮實重彦『小説から遠く離れて』や大塚英志『物語の体操』が有名です。

ここで採用したのはネットでも有名なグレマス行為者モデルです。グレマスはリトアニア生まれのフランス文学研究者で、主著に『意味について』があります。

 

 

意味について (叢書 記号学的実践)

意味について (叢書 記号学的実践)

 

 

小説から遠く離れて

小説から遠く離れて

 

 

 

 

 

ですがここでは最も単純な図式を『心が叫びたがってるんだ。』にいれて考えていこうと思います。

王子様とお姫様を見送る少女

心が叫びたがってるんだ。』は少女・成瀬順が小学生の時分に、山のうえにあるお城(=ラブホテル)から出てくる父親と見知らぬ女性を目撃するところから始まります。

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↑高校生になった成瀬順(出典:アニメ映画『心が叫びたがってるんだ。』

ここで成瀬はこのように妄想します。父親が王子様、不倫相手の女性がお姫様、母親が魔女である、と。昔話のキャラクターの役割に代入しているのです。

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↑グレマスの行為項モデルに当て嵌めた図。

主人公は対象を欲望し、それを援助者や敵対者が手助けあるいは阻止します。主人公の行為によって送り手は対象を受け手に渡します。

つまり

父親が不倫相手を愛していて、母親はその欲望に対する障害です。しかし成瀬の無意識的な告発によって父親はお姫様と一緒になることになります。

ここで重要なのは援助者と敵対者は主人公の受け取り方に応じてどちらにも転化するということです。

成瀬は、父親に「お前のせいじゃないか」と言われてしまいますが、成瀬は物語の構造上においては父親を冒険へと旅立たせる賢者としての役割を果たしているのです。

そしてこの父親と不倫相手の物語から成瀬は締め出されることになります。

以降作中に、父親は現れませんし、上記の行為項モデルは完全に変形されてしまいます。

見送る=賢者=援助者の立場から一転して成瀬順は、主人公の役割を担うことになるのです。

偽装されたマイノリティとしての成瀬

durga1907.hatenablog.com

以前、うえの記事で挙げた偽装されたマイノリティである「中二病」「ドリーム・ソルジャー」を扱った作品『AURA~魔竜院光牙最後の闘い~』を折口信夫貴種流離譚の概念から見ました。

心が叫びたがってるんだ。』の成瀬順も偽装されたマイノリティ性によって主人公たる権利を得ている、と考えらえると思います。

たとえば『ハリー・ポッター』のハリーの額の傷は、悪い魔法使いヴォルデモートが放った死の魔法を母の愛が守ったというエピソードの痕跡・聖痕として機能しています。彼はこの傷によってヴォルデモートとリンクし、主人公として定立されるのです。

しかし、成瀬順は、もともと主人公という立ち位置ではありません。

だからこそ自分が主人公であるために聖痕をつくらなくてはなりません。

その聖痕として、無口属性が選ばれたのです。

疾患化・問題化された無口属性

ここで傍流ではありますが、無口属性について。

無口属性で代表的なのは

エヴァ』の綾波レイ、『涼宮ハルヒ』の長門有希だと思われます。両者とも人気なキャラクターです。そしてどちらも活発なキャラクターがメインヒロインあるいはダブルヒロインになっていることが共通しています。ここから分かる通り、無口属性のキャラクターがメインヒロインになるケースは少ないのです。

もちろん『Darker than Black』の銀や『これはゾンビですか?』のユークリッドなど、メインヒロインになることはありますし、『涼宮ハルヒの消失』では長門有希が一時的にメインヒロインとして扱われます。

しかし無口属性のキャラクターがメインになる場合はいずれもその属性もしくはその原因が問題化されます。それはたとえば疾患のような扱いでです。

長門有希ならヒューマノイドインターフェース、銀ならばドール、ユークリッドなら異常な量の魔力という形で発話することの困難が問題化されます。

成瀬はこの典型のようなもので、発話障害の解消が物語の対象になります。

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成瀬はこのように援助者の立場から主人公になったのです。

不倫をする王子様 変形する行為項モデル

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(↑坂上拓実)

成瀬は歌を手段に発話を取りもどそうとしますが、そこで歌を教える存在として坂上拓実が選ばれます。その過程で成瀬は、坂上を自分の王子だというふうに、ふたたび昔話の役割に代入し、それをミュージカル上の配役と一致させます。

そこで先ほどあげた行為項モデルは即座に変形します。

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成瀬がお姫様で、王子様が坂上拓実、それを見ているのが仁藤菜月というふうに物語はつくりかえられます。

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(↑仁藤菜月 手前の人です)

坂上と仁藤は中学生のときに付き合っていました。坂上の両親が離婚し、落ち込んでいたときに彼を慰めてあげられなかった仁藤は負い目から関係をうやむやにしてしまいました。しかし依然として好意を持ちつづけていて、野球部の元エースである田崎大樹に告白されても付き合っている人がいると断ります。仁藤と付き合っている坂上を、成瀬は自分の王子様に据えている。このことから上の図は、父親と不倫相手、母親の関係と類似していると言えます。

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(↑田崎大樹)

田崎大樹は野球部のエースでしたが、けがで休部し、担任兼音楽教師の勝手な人選によりこの四人を「地域ふれあい交流会」の実行委員に任命し、クラスで成瀬原作のミュージカルを行うことになります。

ふれあい交流会前日の準備中に、坂上と仁藤が昔付き合っていて今も思いあっていることを立ち聞きしてしまった成瀬は、実は自分が主人公ではなく、敵対者である魔女であるのだと気づいてしまい、山のお城に逃げてしまいました。ふれあい交流会当日、坂上は成瀬を迎えに行きます。

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成瀬の告白を拒絶し、同時に和解。学校へ連れもどし、舞台を成功させ、片づけのさなか田崎大樹は成瀬に告白し、顔を赤らめる成瀬。そして坂上は仁藤に告白しようとするも、中断され、映画は終わります。

声・文字・身体からのアプローチ

ここまで物語の大枠を見てきました。長編アニメーション制作の多くは集団制作で、脚本からつくられることが多く、表現を先に決めることは稀です。

あの今敏も脚本から先につくり、映像に耐えられるまでに練り上げていったそうです。

心が叫びたがってるんだ。』は脚本:岡田麿里の個性(サークル員によれば癖の強い)に監督・絵コンテ:長井龍雪が合わせているという印象がありました。

そこでみてきた物語がどのようにアニメーション表現と関わっているかを考えていこうと思います。

玉子と王子の混同

成瀬の発話障害の原因となったトラウマにあたり、王子と玉子の類似をあげることができます。この類似は以下のように展開できるでしょう。

食べることと話すこと 成瀬の身体と「心」

まず玉子は彼女の口を二重にふさぎます。

母親によって玉子焼きをつっこまれ、玉子の妖精によって口をチャックされます。

口→食物・口→声宮崎駿作品のおおきな主題で、『この世界の片隅に』にも表れていて、現在の日本アニメーションに通底する問題ですが(フランスの現代思想ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは舌、言語、食べ物の系列を指摘しています)『心が叫びたがってるんだ。』においては成瀬のメモ帳の中身や、暗い食卓が町会集金とのコミュニケーションの不可能と重なって描かれることから、同じ問題系を共通していることがわかります。

成瀬が声を発すると腹痛がするのは、まさに声と食物がつながっているからです。そして声は心につながっているのです。

声→食物→心という連鎖です。

たとえば宮崎駿は食べることを重要視し、ある時点から職業声優を起用しなくなります。それがどちらも「人間性」をキャラクターに付与するのを目的としていることは明白です。

もう少し詳しい話と『この世界の片隅に』に関してはドゥルガ一号に書いてます。http://ux.getuploader.com/durga_anime/download/2/

 

 

メールと歌 「心」に変換するツール

そこで音声は文字と対置されます。しかし対置といっても二分法ではなく、二つによって「心」を描いているのですが、

しかし音声とは異なり、文字は画面内の表象、つまり絵です。

成瀬がメモ帳に書くのは買わなくてはいけないものと、レシピ、玉子の絵です。

これは前回のフーコーともつながると思いますが、カリグラフィーをしなくとも文字を絵とみなすことは一般的です。たとえば書道やフォントなど文字そのもののアート作品が挙げられます。

durga1907.hatenablog.com

しかし、そこまで考えなくても、

文字は可視的ですが、音声は不可視的

だと分けることができるでしょう。

そしてまた

身体は可視的心は不可視的

なものであり、

心が叫びたがってるんだ。』ではまさに

文字と声が一致する場もしくは文字が声になる場において心が表現されている

と考えられます。

声が腹痛になったのとは逆に、身体が心に、文字が音声に。

坂上が歌う「玉子の歌」を聞いて自分の考えが読み取られてしまったと勘違いし、屋上に立つ成瀬の「心の中を見られてしまった」というモノローグと暗転の白文字の一致は切実な心内語として機能しています。

そしてこの一致は主に

メールを歌にすることによって成功し、文字→声→心を叫ぶことができるようになるというわけです。

メール→歌・玉子→王子

そしてこの可視的な文字=絵は「王子」と「玉子」を混同させます。玉子が手のひらに示した「、」を隠すと王子になっているように、成瀬は王子を玉子だと錯覚してしまいます。舞台上で玉子の役を務めた田崎大樹が、最終的に成瀬に告白し、王子様になることを示唆して終わるように、玉子の声をした坂上を王子だと錯覚してしまいます。

グレマスの行為項がずれる原因は文字上のずれ、玉子と王子を取り違えることなのです。そのため本当に物語が欲望しているのはこのずれの解消ということになります。

坂上は文字上のずれとともに、音声上のずれも引き受けてしまいます。田崎は坂上のことを坂崎と呼びまちがえ、内山昂輝の声はナレーション、玉子、坂上とずれていってしまいます。DTM研の仲間が彼のことを、殻にこもったというのがそこではむしろ一般的な慣用句ではなく、字義通り玉子・王子の連関という殻にこもっていることを示唆します。

この文字のずれ・音声のずれを引き受けるからこそ彼は成瀬の打ったメールを歌に変換する役割を負うことになるのです。

そして成瀬が舞台に戻ってきてお姫様の声として登場するとき、彼女は心そのものになっていると言えるでしょう。

身体であり文字、音声であり、心です。しかしそれは依然として仁藤菜月と成瀬順の確固とした別の人物であり、歌は二重化するのです。坂上とは反対です。

固有名=キャラクター

坂上は玉子や王子、坂崎など文字や音声の同一性によって自発的なキャラクターではなく、受動的な存在となっています。

彼は基本的に巻き込まれるだけで自発的に行動することはなく、アバターとして扱われます。アバターとは探偵小説やライトノベルに多く見られるワトソンやキョンのような役柄です。

しかし坂上は前述のような他のキャラクターの声や田崎による名前の呼び間違い・音のズレ、成瀬による偽の主人公への措定など様々な別のものとの同一性を与えられキャラクター化されていきます。たとえば玉子がはなす「君」と「黄身」、「王子がおじゃんになる」などの「王子」「玉子」のずれ、キャラクターを指示する言葉の対象がずらされることで。

私たちの共感を担うアバターでありながら

キャラクターデザインされるアバター

と言ってもいいかもしれません。

すこし込み入った話ですが今度の文フリの雑誌に『冴えない彼女の育てかた』を対象にして書きましたのでぜひ。

そのような多様な同一性をもってしまうアバターが、確固とした自己を定立するのに、

成瀬に名前を呼ばれる必要があるのです。

固有名は言語体系上で特異な位置を占めます。柄谷行人の『探求』の一つのテーマです。しかし固有名はここでは、むしろ同じ著者の「内面の発見」につながっていると思われます。

発見された内面 坂上拓実の涙

内面がもとからあるから告白するのではなく、告白しようとするから内面が発見されるという転倒によって近代的自我が生まれると柄谷は言います。

坂上は玉子や王子、坂崎ではなく成瀬順に「坂上拓実、坂上拓実、坂上拓実、坂上拓実」と呼ばれることによって固有の「坂上拓実」になり、玉子の変な臭いは、腋臭という身体的な問題に回収され、彼の瞳からは涙が溢れるのです。そして彼は、自分が本当の気持ちを伝えたかったけれど、それができなくなっていたのだと告白します。しかし、それはむしろこの場において初めて昔話の役割から逃れ、近代的な自我を形成したのだと考えることができると思います 。

探究(1) (講談社学術文庫)

探究(1) (講談社学術文庫)

 

 

***

 

勉強会ではシンメトリーの構図や、電車、自転車、バス、車のCGを確認し、舞台と現実の描写の差異を見ました。

劇とアニメーションの立場から『ひなこのーと』や『クラナド』『結城友奈は勇者である』について話しましたが、『ガラスの仮面』をはじめ劇とアニメーションの主題は面白いと思いました。

また吉浦康裕『アルモニ』の装われたマジョリティとの対比を見たり、と間アニメーション性に触れました。

 

 

わたしがこの映画で最も好きなシーンは、表札が変わった玄関の扉が開いてゴミ袋を持った成瀬がカギを掛けようとして、やめて、髪を撫でながら、見上げると、風景を映すカメラが上昇して、タイトルロゴがインする、初めの場面です。

次に好きなのが、舞台の斜め後ろから見ているアングルで手前に人影がポーズを取っているところから仁藤菜月がスポットライトのなかへ登場するシーンと劇に戻って来た成瀬が歌いながら入場し、ステージに昇って、暗転するシーンです。

 

次回の勉強会は11月12日、『聲の形』です。

 

「心が叫びたがってるんだ。」オリジナルサウンドトラック

「心が叫びたがってるんだ。」オリジナルサウンドトラック

 

 

 

 

 

秋文フリ記事紹介に代えて――ミシェル・フーコー『これはパイプではない』を読む

 黒板に書きつけられた「これはパイプではない(Ceci n’est pas une pipe)」という文はどこに向けられているのだろう。同じく黒板に描かれたパイプに向けたものなのか、あるいは黒板の上方に浮かんでいるようにみえる大きなパイプに向けたものなのだろうか。雄弁に自己の存在を主張している二本のパイプの、その雄弁さをあざ笑うかのような否定文は、我々が無意識のうちに期待している明瞭なイメージの到来を裏切ろうとする。しかし、その「裏切り」は言葉とそれによって指し示される対象との間にある不均衡を意識させ、そのせいで落としどころの見つからない居心地の悪さを感じてしまう。この居心地の悪さの背景には、絵と言葉を分離するような制度、あるいは絵が沈黙のうちに内包する断言=肯定(この絵は○○である)の制度がある。ルネ・マグリットの「これはパイプではない」の画は、このような西洋絵画が隠蔽してきた画像と文のあいだの関係を遊戯的に脅かすのだ、とフーコーは言う。
 その時に引き合いに出されるのは「カリグラム」である。カリグラムはアポリネールが同名の詩集で行ったように、あるテクストの文字をそのテクストが表そうする対象の形態に合わせて配列したものである。もっとわかりやすく、文字によって絵を描いたものと言っても差し支えないだろう。フーコーは「カリグラム」が修辞学的なトートロジーとは別のトートロジーであるという。修辞学に基づくトートロジーは、言語の過剰さのもたらす、「寓意(アレゴリー)」的な価値によって可能になる。*1対してカリグラム的なトートロジーは物の輪郭を保つ「線」としての価値、さらに言葉がひとつならりの連鎖によって展開されることによる記号としての価値によって可能になる。すなわち、「カリグラム」は言語を用いて何かを「言うこと」と、絵によって何かを「表象すること」との対立を遊戯的に抹消する。しかし、カリグラムはそれを読んでしまえば画としての形態を保つことが出来ず、線的な語の連なりへと還元されるし、画のままであれば、それが何であるかを言明することが出来ない。そのためカリグラムにおいては「決して時を同じくして言いかつ表象することは出来ない」のだ。
 そのため、二本のパイプの画は、「これがパイプである」ということを「言う」ことが出来ず、黒板に書かれた文は形態的に何かを「表象」してはしない。「言うこと」と「表象すること」とのあいだにはこのようなせめぎ合いがある。そのため「これはパイプではない」という文の否定は、「パイプの画」とそれを名指すことの出来る「文」とが相補関係にあることに向けられていたのだ。このことは同時に、「文」と「画」が存在することができる「共通の場」の消滅を意味する。
 この「共通の場」は、古典西洋絵画の二つの原理によって担保されてきた、とフーコーは言う。まず、「造形的表象=再現(類似を前提とする)と言語的対象(類似を排除する)との分離を確立する」ことによって、「絵」と「言語」の役割を制度的に分離する。*2 つまり絵画は類似に基づく対象の視覚的(形態的)再現であり、言語は何かを指し示すという機能へと中心化され、言語からは言語がかつて持っていた表意的な要素(類似)を排除される。そのため、絵画はそれが「何か」を明確に指示はしないし、「言語」はそれが何であるかを表象出来ないため、「絵画」と「言語」との間には何らかの従属関係がなくてはならない。しかし、その主従の方向が問題なのではなく、むしろ問題であるのは「「言語的記号」と「視覚的表象=再現」とは決して一挙に与えられることがない」ということである。
 さらに「似ているという事実と、そこに表象=再現のつながりがあるということの肯定=断言とのあいだの等価性を定立する」という原理によって、絵画は、モデルとなる事物と「似ている」という事実がすぐさま事物の「再現」として認知され、「絵画」は沈黙のうちに、「それは○○である」という肯定=断言の言表と等しくなる。このとき、モデルが実在するか否かは問題ではない。「これは○○である」という肯定=断言が、実在しないモデルとの類似関係を創出することも可能である。そのため、類似関係と肯定=断言とは分離することが出来ない。つまり、第一の原理によって言語的要素が入念に排除されたかに見える絵画の中に、「肯定=断言(これは○○である)」という言説が再導入されてしまうのだ。このように、第二の原理に遡行することで明らかになるのは、古典西洋絵画が言説の空間に依拠していたという事実であり、画像と文の相補関係が成立するような同質性を持つ場を前提としていたということである。
 フーコーマグリットの絵画を分析する過程で強調するのは、「絵画」においては、「似ている」ことを保持しつつ、そこから言説としての「肯定=断言」を排除するという方法である。その方法は「似ている」という事実において、「類似」と「相似」を明確に区別する。
 「類似」は一個の母型(パトロン)を持ち、常にコピーは母型からの距離によって序列化されている。類似は、コピーとモデルとの間の距離を測ることによって言葉と物の関係を秩序化するような「思考」と不可分である。一方で「相似」はある物とある物の関係であり、いかなる「モデル」にも従属しない。相似に基づく反復は始まりも終わりもない可逆的に広がる関係であり、そのような関係のもとで描かれた画はコピーではなくシュミラークル(模像)となる。そのため、物と物との相似関係は「同一平面状での連続性、ひとつらなりの移行、一方から他方への連続的な溢出」という運動性として捉えられる。こうして絵画は単に言説に依拠するものから、「お互いが相似の関係であるような場と、類似の様態に基づく思考とが垂直に交わる地点」となる。
 この観点から「これはパイプではない」を再び見てみると、パイプの画はあるモデルに従属するものではなく、描かれた画同士は物と物とが織りなす相似関係の網の目を構成していることがわかる。しかし、この絵画は言説の空間をイロニックに再導入しているように見せかけることで、言説への従属をも模倣する。しかし、「共通の場の不在」の只中において、もはや言語は絵画との相補関係を保ちえない。だが、そこには新たな言語と物との関係が示唆されている。

(錠)

 

ミシェル・フーコー『これはパイプではない』(豊崎光一、清水正訳、哲学書房、一九八六年)

 

 

これはパイプではない

これはパイプではない

 

 

これはパイプではない

これはパイプではない

 

 

*1:例えば隠喩や換喩は一つの「物」についての多様な表現の仕方を可能にするだろうし、そのような幅のある表現が幾つもの「物」に当てはまってしまうこともあり得る。

*2:ここで言われる言語的対象における類似の排除とは、ヒエログリフのような画と言語が未分化であるような状態から、言語がそれを指し示す画と類似してしまわないように形態的な区別をするということであろう。