web版アニメ批評ドゥルガ

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アニメに纏わる記事を書いています。毎月第四水曜日に更新。担当者が異なります。

吹奏楽曲を紹介しながら『響け!ユーフォニアム』について語る

きのうドゥルガのサークル員と一緒に『劇場版 響け!ユーフォニアム~届けたいメロディ~』を観てきました。

 

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「届けたい」というフレーズはたとえばJポップの歌詞などでよく見られますけれど、『きみの声をとどけたい』などもありましたし、近年流行ってきているのでしょうか。予告編で京都アニメーションの新作映画が告知されていましたが、片方の副題は "Take On Me" (『映画 中二病でも恋がしたい!』)かたや "Take Your Marks" (『特別版 Free!』で、やはり言葉にも流行があるんじゃないかと思いました。もっとも水泳アニメの『Free!』で "Take Your Marks" (スタート直前の「用意」の掛け声)というフレーズが採用されるのは必然ですし何よりtakeという基本動詞でそんなこと言ってもしょうがないのでほとんど冗談のようなものです。

「届けたい」という言葉がえてして含意するものはコミュニケーションの一方向性です。相手がまだ知らないこちらの意思や感情を知らせようと思う過程があってはじめて「届けたい」という考えが生まれます。それは場合によっては自分のことをさりとて特別だとは思っていない相手を振り向かせたいという欲望にも結びつきます。

この劇場版は二期の総集編ですが、特に主人公・黄前久美子ユーフォニアム)とその先輩・田中あすか(同)の関係に焦点を絞って描かれています。ある種「みんなの副部長」であり部全体に対してもかなりの影響力をもっているあすかと、部内ではあくまで一介の新入部員であるのみでただ同じ楽器であるがゆえにあすかと接する機会の多い久美子という非対称的な関係が軸となっていることがよりはっきりするわけです。そうした関係は家族を置いて自分の目的へ向かう久美子の姉と彼女から大きな影響を受けた久美子という関係などとも重なるわけですが、総集編という形で短い尺に収めることの難しさを感じたのは、それを暗示していた二期前半の傘木希美(フルート)と鎧塚みぞれ(オーボエ)の関係、誰とでも仲良くする希美と彼女のことを一心に考えて楽器を吹き続けるみぞれの関係にまつわる物語がどうしてもカットされざるをえない(あるいは別枠でやられざるをえない)ということでした。

吹奏楽部のなかの人間関係は濃淡のつきかたが運動部などよりはっきりする印象があります。同期であること以上に同じパートであれば当然関係は濃くなります(とにかく接点が増えるので仲良くなるということだけでなく嫌いになることまで含みます)し、隣接したパート(たとえば木管楽器どうし)ではその次に濃く、逆に関係の薄いパートどうしだと関係が薄くなったりします。しかし関係の薄いひととも同じ曲を同じ場で演奏するので決して無関係でいることはできません。結局、学年・役職(部長・副部長とか)だけでなくパートの配置が関係しながら、部内のひとりひとりのあいだに濃淡の違った無数の関係の線が引かれることになります。したがって、ひとりの人間から複数の線がのびている以上、吹奏楽部の人間関係のどこを切り取ったとしても、非対称でないつりあった関係はほとんど見られないことになりますし、芋づる式に関係の糸がどこまでも続いていくことになります。そう考えていくと、吹奏楽部を描くにあたってある二人の関係に絞るというのはわりあい難しいことのようにも感じられるのです。

 

さて。

もと吹奏楽部員にとって『響け』を感情的に見ないのはきわめて難しいものです。吹奏楽部とひとくちに言っても、どれぐらいの規模か、強いのか、共学なのか、顧問はどれくらい練習にくるのか、外部指導員はどうなのか……ということで雰囲気がかなり変わると思うのですが、このシリーズは多くの吹奏楽部経験者の体験(あるいはトラウマ)を見事に抉っていると思います。私も二期の前半でかなり抉られました(オーボエだったこともそうなんですが、似たような体験もありまして、ね……)。こういうことってよくあるんだなあと思いましたし、ああ物語になっちゃうんだなあと思いました。

というわけでここからは批評から遠ざかって趣味に振り切り、吹奏楽の有名曲を紹介しながら思いついたことを雑記的に書いていこうと思います。もはやこのブログの趣旨を見失いそうですが許してください。ぜんぶ聴くと長くて大変ですから気になった曲ひとつだけでもいいのでぜひ。文章もやたら情報量が多いので読み飛ばしてください。あくまで私は強豪でもない学校で三年だけやった身なのでにわかっぽかったりときどき間違っているかもしれません。

 

・天国の島/佐藤博昭


2011年度吹奏楽コンクール課題曲Ⅱ 天国の島

毎年コンクールのために課題曲が近年は5曲(だいたいマーチ=行進曲が2曲とそれ以外が3曲)発表され、一番編成の大きなA組(上限55人)のコンクールに出場する場合(全国を目指すならA組になります)はその中から一曲選んで演奏することになります。劇中では(おそらく『響け』一期の放送時期に合わせて)2015年度の課題曲『マーチ「プロヴァンスの風」』が演奏されていました。

この「天国の島」は2011年度の課題曲で、日テレの番組『ザ!鉄腕!DASH!!』のコーナー「DASH島」のBGMとしても使われています。課題曲ですべての楽器が活躍するというのは実際難しいなか(オーボエファゴットの譜面には"option"=いなくてもOKとか書いてあったりします)、この曲ではほとんどどの楽器にも見せ場があり、各楽器の役割や音色がわかるという意味でもおすすめしたい曲です。

ほかの課題曲では、たとえば1977年度の「ディスコ・キッド」がいまなお根強い人気があります。

 

・宝島/和泉宏隆作曲、真島俊夫編曲


宝島

吹奏楽部にいると、コンクールなどで演奏するクラシックな曲のほかに、定演(定期演奏会)・学園祭・その他イベント等でポップス曲を演奏する機会があり、そのとき流行っているJポップの吹奏楽アレンジを振りをつけながら演奏してみたり、ディズニーやジブリのメドレーをちょっとしたお芝居をつけながらやってみたりします。そうしたなかで流行に左右されずに演奏され続けているのが「宝島」です。吹奏楽経験者ならおそらく一回は吹くと思いますし、好きな人もきっと多いはずです。聴いていると楽器を吹くときのあの楽しさをいつも思い出します。

劇中では駅ビルコンサートの場面で使われており、テンポの揺らぎや音のバランス、緊張した指回しが伝わるようなバリトンサックス(小笠原晴香)のソロなどがある写実的な意味でそうしたイベントのクオリティなのですが、この曲が演奏の場や団体によって変わる(まあこの曲に限らずですが)のがこの動画からも分かるかと思います。演奏機会は多い曲だと思いますので中高生のコンサートに何回か行けばおそらく生で聴けると思います。

ポップス曲としては同じくT-SQUARE作曲・真島俊夫編曲の「オーメンズ・オブ・ラブ」や、「吹奏楽ポップスの父」とも呼ばれる岩井直溥編曲の「シング・シング・シング」「コパカバーナ」・高校野球応援でおなじみの「エル・クンバンチェロ」「アフリカン・シンフォニー」などが定番です。

 

・ハーレクイン/フィリップ・スパーク(P.Sparke)


Harlequin of Philip sparke by Bastien Baumet and the Taichung philharmonic Wind Ensemble

ユーフォニアムの魅力をもっと知りたいあなたに。優雅なメロディーの前半部と軽妙な超絶技巧の後半部によってユーフォの長所が存分に発揮されているのがこの「ハーレクイン」です。ユーフォのソロ奏者と吹奏楽団が共演する形になっています。ほれぼれしますね。

劇中で久美子はとても「ユーフォっぽい」とあすかに言われますが、どういう意味で受け取ろうかとずっと考えていました。物語にひきつけて考えるなら、中音域という吹奏楽において中間的な位置(中心というのとはまた違います)に立ち、低音楽器としての役回りもメロディや対旋律も幅広くこなすところが、部内であくまで中心には立たずに各パートで起こるいろいろなことに関わる(ほぼ傍観しているだけかもしれませんが)久美子の立ち回りと近いのかもしれない、と余計なことを考えました。余談ですが楽器の名前はユーフォニアムユーフォニウムもどちらも使われています。

ところでユーフォニアムトロンボーンのマウスピースって同じなんですよね。ユーフォニアムの子の姉がトロンボーンをやっていたというのはとても親族って感じがしますね。

「ハーレクイン」の作曲者フィリップ・スパークは、「オリエント急行」「宇宙の音楽」「ドラゴンの年」などで有名な、吹奏楽界で屈指の人気を誇るイギリスの作曲家です。ユーフォニアムのための作品としては「パントマイム」なども知られています。スパークはいいぞ。

 

・フェスティヴァル・ヴァリエーション/クロード・トーマス・スミス(C.T.Smith)


【吹奏楽】 フェスティヴァル・ヴァリエーション

コンクール自由曲の定番、と呼ばれるような曲はそれこそ無数にあり、年によって流行りがあったりもして一曲だけ挙げるのは難しいです。というわけでコンクールでの演奏頻度はとりあえず措き、コンクールで演奏されることも多い曲、として独断でこの「フェスティヴァル・ヴァリエーション」を選びました。華やかで聞いていて楽しい曲なのですが難易度は尋常でなく、特に冒頭は「ホルン殺し」として知られています。

劇中のコンクール自由曲「三日月の舞」はこのアニメのために作られたのではなく既成の曲なんじゃないかと思うくらいに何か「吹奏楽っぽい」です。確かに急・緩・急の三部構成の曲は吹奏楽では多いのですが、それにしてもすごく研究されて作られていると感じます。なぜか「アルヴァマー序曲」を思い出しました。

原作小説ではコンクールの自由曲はナイジェル・ヘスの「イーストコーストの風景」という曲で、確かにコンクールで演奏されている印象があります。私がコンクールでやったのはヴァーツラフ・ネリベルの「二つの交響的断章」という曲でした。ネリベルなんかだと完全に現代音楽という感じですがコンクールではそうした色調のものも好まれます。あとは二期の劇中で使われたボロディンダッタン人の踊り」をはじめ、ラヴェル「ダフニスとクロエ」、レスピーギ「ローマの祭」といった管弦楽の曲の吹奏楽編曲版もよく聴かれます。

 

吹奏楽の曲はたくさんYouTubeにあがっているのでよければ挙げた曲を検索してみたり関連動画からいろいろご覧になったりしてみてください。元オーボエ吹きとしてはほかに紹介したいような曲もあるのですがそれは(今回の記事が怒られなかったら)来年四月に公開される『響け』シリーズの新作『リズと青い鳥』のときにしましょう。フルートの希美とオーボエのみぞれの関係が描かれるということでまた何か抉られて精神が崩れない自信がないのですが、二人の関係だけじゃなくて「ダッタン人の踊り」でオーボエソロとからむ木管楽器、とりわけイングリッシュホルンオーボエ属の楽器)の子との関係が見られるんじゃないかと期待しているのはたぶん私だけなんでしょう。

それでは!

 

(奈)

『ラブライブ!サンシャイン!!』第二期、第一話を見て

 

 

ラブライブ!サンシャイン!!』の二期が放送開始となり、早速第一話を見ました。前作と同様に、もはや不可避となったかにみえる母校の統廃合という事態に対して、Aqoursによるスクールアイドル活動を通じて、どうにか「奇蹟」を起こそうと奮闘する物語が始まったのだということを改めて感じました。第一期では、彼女たちがスクールアイドルを始める契機であり、彼女たちの目標としてあったμ’sに近づきたいと思いながらも、彼女達自身が「輝く」ために、あえてμ’sとの差異を受け入れるという物語を経ています。そのせいもあってか、二期の一話においてμ’sの影は見当たりません。彼女たちは既にして彼女達自身の物語の時間を生きています。
サンシャイン!!の第一期を見た時、μ’sの物語を見ていた時とは明らかに違う何かを感じていましたが、第二期の一話においてはこの「何か」がごっそり欠落しているように私は思います。この「何か」を正確に言い表すことは出来ないのでしょうが、そのことを考えるヒントとして、先程挙げたμ’sAqoursの間にある「模倣」の関係に注目してみましょう。
ラブライブ!』と『ラブライブ!サンシャイン!!』は共に中心となるメンバーが「スクールアイドル」と出会うということが、物語の契機となっています。しかし、同じような説話論的構造のように見えて、両者には隔たりがあります。それは「模倣」を志向するか否かです。前者においては高坂穂乃果が「A-RISE」というスクールアイドルと出会うことによって物語が始まりますが、このときに彼女が出会うのは「スクールアイドル」という制度であり、ここでは「スクールアイドル」という言葉は物語上いかなるコンテクストも持たず、A-RISEという特権化されたスクールアイドルが、その語の使用に対して絶対的な権威を保持しているという構図が示されるのみです。このとき、「スクールアイドル」という制度はまだ母校を救う手段として適切であるかはわかりません。そのため、物語の冒頭においては模倣の対象であったA-RISEは、メンバーが揃うとすぐさま母校を救う手段としての「スクールアイドル」という物語を書き込んでいくために、倒すべき敵対者(ライバル)へと変化します。その結果、ラブライブでA-RISEを倒したμ’sは劇場版において、「スクールアイドル」の象徴的存在となった後解散し、μ’sの物語は神話化されます。
ラブライブ!サンシャイン!!』はこのような「スクールアイドル」が廃校になりかけた母校を救うための手段として示された物語の上に成り立っています。そのため、高海千歌μ’sを初めて見る場面の意味は、高坂穂乃果がA-RISEを見た場面と説話論的機能は同じであっても、その効果は異なると言えます。サンシャイン!!においては既に「スクールアイドル」という言葉は、μ’sという強度の強い物語のコンテクストの中にあります。そのため、Aqoursは、μ’sが辿った道を模倣することによって、「スクールアイドル」のコンテクストに巻き込まれていこうとするのです。
しかし、強烈な「スクールアイドル」のイデア的存在であるμ’sに近づこうとすればするほど、Aqoursμ’sの差異は際立っていきます。このとき、Aqoursは「スクールアイドル」のイデアとしてのμ’sから、「スクールアイドル」としての正当性を無言の内に無底化しようと彼女たちに迫ります。つまり、何が真の「スクールアイドル」なのか、自分たちは悪しきコピーに過ぎないのではないかという問いが、μ’sとの距離において顕在化するのです。このようなプラトン的な問答法(弁証法)に対して、Aqoursはモデル‐コピーの関係から自らの固有性を発見することによってそこから逸脱し、「スクールアイドル」の同一性を堅持するイデアとしてのμ’sの絶対性を揺るがせにするような「スクールアイドル」のシュミラークルとなることによって、自らの「スクールアイドル」としての正当性を担保するのです。恐らく私が感じていた「何か」はこのμ’sとの距離にあるのではないかと思っています。一期の冒頭において示されたように、彼女たちもまた、視聴者と同じようにμ’sが築き上げた物語を認知し、そのコンテクストの元で共に生きているという感覚を与えることが出来るような「近さ」がある種の「リアリティ」を彼女たちにもたらしていたのではないでしょうか。
しかし、μ’sからの逸脱が果たされたはずの第二期の一話においては、μ’sの影が消え、彼女たちの「スクールアイドル」としての物語を生き始めたという点において、彼女たちは我々からは遠ざかりはじめています。その意味において、彼女たちはμ’sと再び接近しつつあると言えるでしょう。しかし、「奇蹟」の物語は既にしてμ’sによって語られている以上、再びその物語を語り直すのであれば、単に何度も消費可能な「奇蹟」のシュミラークルとなってしまう可能性を否定することは出来ません。そのため、彼女達がどのようにして一回きりの物語を強く生きてゆくのかについてを今後楽しみに見ていきたいと思います。

(錠)

 

ラブライブ!サンシャイン!!TVアニメオフィシャルBOOK
 

 

眼球=視線の導き――長井龍雪『とらドラ!』第一OP

よく言われる事、キャラクターにとってよく口にされることは、このようなものです。

こんな人間いる訳ない。身体は小さくてやたらと頭は大きいし、長すぎる足は栄養失調みたいに細いし、髪の色がピンク、青、緑で、それで優等生や地味な性格なんて成り立つわけない。顔だって鼻と口がほとんどないし、呼吸もできやしないだろう。などなど。

それに「可愛いキャラクター」は「目一杯可愛く」しないといけないのか、仕草まで目一杯可愛くして「被写体からの制約がなくて緊張感がない」「あれは映画に似て映画にあらざるも」のではないか、とは俳優兼映画監督・伊丹十三の『うる星やつら』(押井守監督)の評価です。(『映画狂人、語る』p177)三四年前と現在でキャラクターデザインは大きく変化していますが、おおよそ上のことは違う言葉で、あるいはまったく同じ言葉で反復されてきた紋切型な批判で、目一杯に「」が大きいという解剖学的にはまっとうな批判がその最たるものだというのは周知の事実でしょう。

しかし問題は「眼球の大きさ、その移動がどんな空間を生み出して(捏造して)いるか、ということであって、ヒトとの身体的構造の差異ではありません。伊丹の言葉を借りればアニメは実写映画ではないのだから、そんなことに態々説明責任を持ってあげる必要はないでしょう。

前回の記事から引き続きOP・ED特集ですが、前回の記事にも名前が挙がった長井龍雪監督『とらドラ!』の第一OP「プレパレード」を対象にします。コンテは同監督です。

さっそく見ていきましょう。

以下画像の出典もとはJ.C.STAFFとらドラ!』です。

とらドラ! Blu-ray BOX

とらドラ! Scene1 (通常版) [DVD]

まず初めにピンク色の円が白い背景に広がります。それと同時に橙色ついで空色ついで黄土色ついで肉桂色ついでピンク色ついで橙色の円が広がり、最後に空色の円が広がる前にソックスを履きかけの足がそこに降ろされると円は茶色のシーツの掛かったベッドにすり替わって背景になります。

 

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カメラは弧を描きながら上昇し金髪の少女がソックスを履く姿と彼女の起きたばかりで不機嫌そうな眼球を収めます。しかしこの時、彼女の視線はカメラを捉えているのではなく、斜め手前を睥睨するのですが、その視線を反映したかのようなアングルで先ほど彼女を撮っていたカメラの動きに連動するかのように弧を描いて上昇し、青い髪の少年の後姿を映します。彼は野菜炒めを作っているのかフライパンを振り上げる動きに合わせてソーセージやニラのようなものを油とともに浮かび上がらせます。そして少年もまた視線をこちらに向けますが、今度は不意打ちのように彼の目にクローズアップしていきます。画面には点描のトーンが貼られてクローズアップが最大限にまでなされると点は円になって、タイトルロゴの「と」と白く書かれたピンクの円形が少年の目から現れてきます。

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するとその隣を先ほどの金髪の少女が横向きに左へ歩いていきます。その後は順々に「ら」「ド」「ラ」「!」と同じような円形がそれぞれ橙色、空色、黄土色、肉桂色をして右に連なるように出てきて、それに応じて先ほどの青い髪の少年、ピンクの髪色の少女、緑色の髪をした少年、青い髪の少女が行進のように並んで左方向へ歩いていきます。そこをクローズアップし、再び色とりどりの円形が白い画面に広がると金髪の少女のちらかった部屋が映されます。

もちろんここで現れた円の色は主要キャラクターを象徴するもので、この映像のあとに五人の紹介のように名前が現れるところで単色になるのですが、そこで活かされています。

そして円形、点描、眼球という類似の系列で駆動する映像はカメラ目線では停止を、視線を逸らす場合は移動を導きます。たとえばキャラクター紹介で金髪の少女は背後から撮られ、左方向を向いています。青い髪の少年は階段を降りながら、前髪を左に引っ張り、視線は右向きです。その後にピンク色の髪の少女と一緒に少女は右から左へ、緑の髪の少年と一緒に少年は左から右へと移動します。二人が重なり合うところで少年は左を、少女は右を見ます。場面が変わり、右に少しカメラが移動してピンク色の髪の少女が視線をカメラに合わせます。すると固定の俯瞰カメラで緑色の髪の少年がこちらを見上げてカメラ目線で笑顔を向けます。場面が変わり、見上げる動作に呼応するようにカメラが上昇して座り込んでいる青い髪の少女を映します。彼女もカメラ目線で、しかもクローズアップされます。アップされるとお得意の背景のない画面です。まず四人が並びます。緑髪の少年の横に顔を赤らめながら見上げている金髪の少女、スペースを空けて、青い髪の少年が驚いた顔をしながら見下ろすピンク髪の少女。先ほど二人が重なったときの視線をここで同じ画面に取り込んでいます。

同様にクローズアップされた弁当を食べる金髪の少女が慌てた様子でカメラから左へと視線を逸らすと、場面が変わり、住宅街を奥へと走って、カメラが横につき、右から左へと走り抜いた少女がピンク髪の少女へと飛びつくといった視線を左に逸らすと人物が左へと移動するという運動の連関は自然でありながらとても活き活きとしています。さらにクローズアップされたネイルに息を吹きかける青い髪の少女の顔が映ると視線をカメラに向け、しかしそれは先程クローズアップされたときとは異なり(まず視線に軽蔑のような気怠さがあるのですが)空間がその視線によって作られたかのように、カメラが引いて、青い髪の少年が外を歩くのをカフェのガラス越しに見ている青い髪の少女を映します。

そして弧を描く三幅対という一番の見せ場に入る前に五人を俯瞰からクロースしていき、アップしおわると五人全員で視線をカメラに向けます。三幅対で視線を合わせないのとは対照的です。ソフトボールのユニフォームを着たピンク髪の少女が打席でバットを構えるのを横から捉え、煽るカメラにチアリーダーの衣装の少女が青い髪に手を当てて撫で上げ、金髪の少女が今まで下ろしていた木刀を持ち上げ肩に載せます。この三幅対はドラムのリズムとも相まってかなりスリリングです。そして今まで交錯していた視線=眼球が一挙に画面を支配して金髪の少女の目がやっとカメラを捉えると、

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背景のない白い画面に少年と少女は背中合わせに、互いに視線を向けあうようにしながら、その視線のためにカメラは回って、再び五人になるとタイトルロゴが現れて、本編です。

とらドラ!』のOPが眼球=視線によって駆動されていることは此処まで見てきた通りです。

眼球の類似=点描 視線の移動=運動空間をそれぞれ導いています。

ではどうして『とらドラ!』の第一OPが眼球=視線を重視するかといえば、それは主人公である「高須竜二」が目つきが悪いせいでクラスで誤解されているという設定だから、と言えば足ることでしょう。目が口よりもものを言う、目が表情を、心象を示してしまうのですから。同じようにこの作品では多くのキャラクターの本音と建前が交錯しています。ジュブナイルものの定番でもある他者と「向かい合う」という主題を反映しているともいえるのではないでしょうか。

もちろん解釈など無用ですが、一つの細部が複数に分岐してそれぞれ別々の細部を呼び込んできてつくられた映像は音楽と相俟って見ていてとても気持ちの良いものです。ぜひOPは二話からですが、鑑賞推奨です。

 

平面をめくる、めく―石浜真史のOP映像

すこしまえ、『かみちゅ!』を見ていてOP映像の手法になんだか見覚えがあるなと思ったら、コンテ・演出が石浜真史さんでした。

 

かみちゅ! Blu-ray BOX

かみちゅ! Blu-ray BOX

 

 

アニメのOPの役割はなんでしょうか。作品本編とタイアップした楽曲を産みだすこと、本編の印象を要約すること、その他さまざまあると思いますが、事務的な意味で重要なのは「制作スタッフのクレジットを表示する」ということに尽きるはずです。石浜真史さんは、よくブルーレイ版の特典として同梱されるような「ノンクレジットOP・ED」というのが意味をなさないような、クレジットが画面の構成要素として見事に機能しているOP・ED映像を多く演出しています。

たとえば 『かみちゅ!』のOPでは、主人公の日常風景(朝起きて、登校し、弁当を食べ、夕方になれば下校する)の描写のなかに、たとえば新聞の紙面やノートの落書き、テレビの画面といった形でスタッフクレジットを織り込んでいます。

 

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(『かみちゅ!』DVDから)

 

こういうわけです。

Aチャンネル』や『ヤマノススメ セカンドシーズン』のOPでは、より大胆にクレジットの文字がデザインとして取り込まれています。背景画がなく平面的で、遠近法的な消失点はありません。キャラクターの影もなくベタ塗りになっています。しかしその平面が重なり、回転し、あるいは画面の平面とずれることで、文字通り「めくるめく」疾走感――「目眩く」のはもちろん、層になった平面を高速で「めくる」ような、ある意味もっともプリミティヴなパラパラ漫画的・アニメ的爽快感――のある立体的な映像になっています。参考として『Aチャンネル』のOPのカットをご紹介します(どうしても映像でなければ伝わらない部分が大きいですし、神前暁さんプロデュースのOP楽曲もすばらしいのでよろしければ本編をご覧ください)

 

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(『Aチャンネル』DVDから)

 

全体に、この作品にとってもっとも大事な文字、すなわち「A」の横線や斜線が基調として活かされているように思います。三枚目・四枚目はサビのカットですが、画面に映るケータイを見るトオル(三枚目、黒髪セミロング)がすぐ引きになってゆん(四枚目、金髪セミロング)のケータイの画面に収まり、画面が回転してゆんを正面から映すとふたたび引きになって別のキャラクター(ユー子)のケータイに収まり、再び同じ要領で四人目のキャラクター(ナギ)が映る、という画面の流れになっています。短時間のうちに平面がすばやく層化し回転するため、本当に「めくるめく」映像になります。

上記の三作だけだと日常系チックないわゆる「ゆるい」雰囲気のアニメに携わっている印象を受けるかもしれませんが、『BLEACH』『進撃の巨人』『PSYCHO-PASS サイコパス 2』などの作品では、動きや色使いが作品に合わせて洗練されたスタイリッシュなOP映像をみることができます。

 

www18.atwiki.jp

 

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(『N・H・Kにようこそ!』dアニメストアから。ただ文字が黄色い背景の上に配されているかと思いきや、人物や文字の影によって文字の手前と奥もあわせて三層の奥行きがあることがわかります)

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(『東京レイヴンズ』dアニメストアから。キャラクターの素早い動きがぴたりと止まり、前の絵の部分と奥のベタ塗りの影の部分が分かれてずれていきます。上下・左右の運動と停止のメリハリが映像に疾走感をもたらしています)

一貫しているのは、上述したとおりクレジットをほかの絵と同じように導入すること(デザインとしてとりこんだり、ただ画一的に見せるのでなく文字のフォントや角度を調和させたり)のほかに、四角・丸といった平面的な図形、上下左右といった平面的な移動(『ヤマノススメ セカンドシーズン』のOPでキャラクターが左へずっと歩くように)と、斜めの線や平面による奥行きが的確に混在していることでしょう。文字を事務的な夾雑物として仕方なく埋め込んでただ作品の要約を提示するというようなOP・EDでは決してありえず、時間性・立体性をもった排除する要素がどこにもないひとつの完成された映像になっているわけです。

「OP・ED職人」と呼ばれるような方は多くいらっしゃるので(個人的には梅津泰臣さんや長井龍雪さんがすぐに思い浮かびます)、他の方についても機会があれば取り上げてみたいですし、他の担当者が折に触れて取り上げることもあるかもしれません。

 

(奈)

アニメオリジナル〔日常〕から劇場版〔非日常〕へ 涼宮ハルヒの憂鬱『サムデイ イン ザ レイン』について

その日も寒い一日であったのだろうが、「地球をアイスピックでつついたとしたら、ちょうどいい感じにカチ割れるんじゃないかというくらい冷え切って」いるような印象もなく、明日が来てしまえばどのような日であったかも思い出せないような何気ない一日であったのだろう。『涼宮ハルヒの憂鬱』として放送されたテレビシリーズの最終話『サムデイ イン ザ レイン』は、それまで繰り広げてきたような非日常を巡る物語から一転して、このようなSOS団の何気ない「日常」を切り取ったような回である。
OPの直後からSOS団の面々がそれぞれ暇を持て余している様を部室の角から描くカットから始まり、背後からは運動部の掛け声が聞こえ、何かが起こる気配さえない。我々はそこから彼らを覗き見ているかのようだ。それぞれの様子を真上から描くカットが挟まれ、キョンの顔が映し出されると、彼はハッと何かから醒めたかのように、ナレーションを始める。そのナレーションの最中、キョンの視線の動きと共に、これまでの物語に登場した「小道具」の類が部室に堆積している様々な事件の記憶としてアニメの放送回順に次々と描き出され、キョンは、それらの小道具に導かれるようにして、事件のきっかけはいつも団員たちがまったりと過ごしている時にハルヒが突然部室へと入り込んでくることから始まるのだというこれまでの物語のパターンを想起する。その時、何かしらの非日常的な事件を期待する人々に「毎日そんなこと起こりはしない」とあらかじめ断りを入れる彼の言葉の端々からは宇宙人や未来人や超能力者と同じ空間にいながら、そのような非日常的空間に半年という時の経過で「馴れ」てしまった様子が見え隠れする。そして、ハルヒは彼の想起したパターン通りに部室へと姿を現すのだが、いつもと事情が違うのは、彼女の登場と共に、物語の端緒としてもたらされる「朗報」が物語の端緒とはなり得ないものであるという点だった。何故そう言い切れるかと言えば、その「朗報」と共にキョンに与えられた「商店街の電気屋から暖房器具を譲り受けてくる」という指令は、本来の目的とは別に、「みくるの写真撮影をしたい」というハルヒの思惑を達成するためにキョンを厄介払いする意図があってのことだからである。そのため、この指令はハルヒのやりたいこと(あるいは無意識の願望)にキョンが巻き込まれるという物語のパターンから外れたものであり、その結果、ハルヒキョンが同時間に別々で全く異なる意図で行動するということになる。常にハルヒキョンという二人のキャラクターを中心に形成してきた物語のパターンが、ここでは見事に外されている。
その結果、画面には、キョンの行動を映す場面とハルヒ達の行動を映す場面が交互に描かれることになる。無論、両者は互いの行動には関知しない。
このような同時間に異なる行動をする人物達を映すということは、原作小説において不可能であるということは明白であろう。原作はキョンの一人称視点による語りによって構成されている以上、我々はキョンの知り得ないことを知ることは出来ない。だが、アニメオリジナルであるこの回のみにおいて、我々はキョンの知り得ないSOS団の団員の姿を見ることになる。キョンが視点人物である時、画面の構図はキョンの視点を借りたものになるか、あるいはキョンハルヒなど主要なキャラクターを中心にしながら動かされていく。それは、原作小説がキョンの語りによって構成されており、そのことが作品世界の一貫性を担保するという形式に関わっているのだろうが、とにかく、このアニメーションは客観視点でありつつも、その構図や視点に関しては、キョンというキャラクターを介在して取られることは明らかだ。そうなると、キョンが部室を後にした後を映し出す「視点」は誰を介在するものなのか。
キョンが部室を出ると、ハルヒはみくるを被写体として撮影を始める。みくるは戸惑いながら抵抗するが、小泉はいつものように笑顔でハルヒの意向に従う。そして傍らでは長門が本を読む。キョンがいないことを除けば、いつもの光景だった。しかし、画面の構図という意味では、違和感が伴う。写真撮影の様子は、近影によってではなく、冒頭とは位置こそ代わっているものの、同じように部室の天井に防犯カメラが仕掛けられたような、部屋の角からのハイアングルな構図であったり、或いは本棚の中から部室を収める構図を取ったりしており、視点人物を欠いて正当に「見る」権利を失い宙に浮いた視点が、メタな設定や構造に敏感な彼女たちを憚りながらその様子を「隠し撮り」するような構図に終始する。
キョンに視点が移されると、彼がいつものようにナレーションで一人愚痴を零しながら登下校の道を辿り、ハルヒからの「依頼」を難なく達成する様子が描かれる。だが、そこに物語の端緒は見いだせない。電気屋の主人との会話は、新たな事件の萌芽こそ現れるものの、それは作品空間の中で全ての根拠となるハルヒの口を通して語られていない以上、根も葉もないうわさ話に過ぎないだろう。しかし、構図という点からしてみれば違和感はない。
 そして再び冒頭と全く同じ構図で部室が映し出された時、ハルヒとみくると小泉が唐突に部室から姿を消し、一人長門が冒頭と同じ場所に座りながら本を読んでいる様子が描かれる。このカットはしばらく構図を変えず、後ろからはラジオなのか演劇部の練習なのか漫才なのかよくわからないようなやり取りがとりとめもなく流れてくる。しかし、これによって「長門有希」という存在がいかにこの世界で薄い存在であるかに見る者は改めて直面することになる。
 作品空間の根拠であるハルヒを欠いていている中で、動くことなく読書を続ける長門を撮ったとしても、そこに物語は発生しえない。彼女が物語の構造から与えられる本来の役割は、キョンが知り得ない情報を与えたり、キョンが出来ないことを代行したりする補助の役割であり、作品の内容上の役割でも、「統合思念体」と呼ばれる存在が「涼宮ハルヒ」を観察するための存在でしかない。だからこそ、彼女は物語に「主体」的に関わることを許されてはいない。そのように二重の意味でプログラムされたキャラクターである。この「プログラム」は彼女に感情を表出させることや、不用意に言葉を発したり、行動をしたりすることを許さない以上、彼女にとっては「抑圧」として作用するだろうし、この構図そのものが、外で写真撮影をするハルヒたちから省かれ、一人でいつもと変わらぬ姿勢を強いられる長門を「観察」しているかのようだ。実際、この回において長門が声を発するシーンは無いし、読書をしている体勢から動くのは、みくるが無理やり着替えさせられる時にタイミングよく立ち上がって読んでいる本を取り換える時と、部室へみくるを探しに訪れた鶴屋さんに彼女たちの場所を教えるために窓の方を指さす時などのわずかな場面しかない。この防犯カメラのような視点が「カメラ」ではないことは、その後の場面において跳び箱を飛ぶみくるやチアバトンを回すみくるやハルヒを描いた場面が、文化祭の時に手に入れた「ビデオカメラ」で撮られたものであるようなカットであることから明らかになるだろう。この「ビデオカメラ」が介在する構図との差異によって、一人の長門を描くという物語上無意味な構図が初めて別の意味を帯び始める。
 鶴屋さんにみくるたちの位置を教えた後に取られる構図は、別の棟にいるハルヒ達の様子をどこかの部屋から窓越しに見ているような構図であった。この回で一番特異であると思われる視点は、もはや「隠し撮り」でさえない。この視点は、描かれている窓枠などから考えると明らかに誰かが部室から離れた所にいるハルヒ達を眺めるという視点を取っている。だが、本来そのような一人称視点を取りうるはずのキョンは部室にいない以上、この視点を取りうるのは長門以外にはいないのだ。

 この構図は長門の「内面」が表出したものだとするような考察を得て終わることも出来るが、さらにここで見てみたいのは、ハルヒ達を遠景で捉えるという長門の視点そのものが、長門が自己をSOS団から疎外化し、ハルヒ達を「外」の風景として捉えることを可能にするということだ。このとき、長門は物語の役割から解放され、それぞれの立場からの思惑がありつつも、感情を持ち人間として主体的に「日常」を生きる他のキャラクターから自らを疎外する。そのため、長門は言葉を用いることなしに、「内面」を発見したと言えるだろう。このことが、作品空間にいかなる変容を強いるかは、追って別の機会に劇場版を確認しようと思う。
 だが、ここでもひとつ見ておきたいのは、この長門に見られた自己疎外化は長門固有のものではないということだ。涼宮ハルヒが自分の「普通さ」を自覚した経験をキョンに語る場面がある。そこで語られる経験は、「自分はプロ野球観戦の時に球場に存在した溢れんばかりの人のうちの一人に過ぎないこと」を、「観客」という風景から自分を疎外化し、改めて近代的な等質的空間の中で、自らもまた「観客」という風景のうちに過ぎないということを確認する過程で「普通さ」を自覚するというものであった。物語の「主人公」たることが出来ないというルサンチマンが、彼女をキャラクターに仕立て上げたのだ。そしてキョンもまた、物語の冒頭にて、「主人公」に対するルサンチマンを独白する。この冒頭の独白は、近代日本文学における「告白という制度」と、語り手としての「キャラクター」に要請される制度の起源が同じものであること示してもいる。さらには、人間からの疎外化によって、非人間的なキャラクターの内面を描くことが可能になるという意味では、大塚英志手塚治虫のまんがから見出した「アトムの命題」が、キャラクターを生み出すひとつの「制度」となっているのだろう。

 

本記事においては、以下の文献を参考にした。
大塚英志アトムの命題 手塚治虫と戦後まんがの主題』(角川文庫、二〇〇九)
大塚英志『キャラクター小説の作り方』(星海社新書、二〇一三)
柄谷行人日本近代文学の起源 原本』(講談社学術文庫、二〇〇五)

ネオ・ヴェネツィアの想像力――『ARIA』聖地巡礼

以下批評とあんまり関係ない文章になるので恐縮ですが、ヴェネツィアに行ってまいりました。

ご存知の方も多いと思いますが、ヴェネツィアはさまざまな創作物の舞台ともなっていて、アニメファンには『ARIA』の舞台「ネオ・ヴェネツィア」のモデルとしても知られています(『ジョジョ』などの聖地でもあります)。

 

ARIA The ANIMATION Blu-ray BOX

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ごく簡単にですが概略書いていこうと思います。写真に慣れていないのでうまく撮れた写真があんまりないのですが貼っていきます。(もとから風景がきれいなのでそれで補正されます)

 

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いかにも水の都です。天気にも恵まれました。

車は入れないので自分の足とヴァポレット(水上バス)が移動手段です。ゴンドラは移動手段というよりは観光用です。乗りたかったのですが……いいお値段しまして……

 

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ヴェネツィアは潟(ラグーン)の上に建物を築く形で街ができました。駅や街のシンボルのサンマルコ広場があるヴェネツィア本島のほかにも島が点在しています。写真は街の南にあるサン・ジョルジョ・マッジョーレ島の鐘楼から本島のほうを見たものです。右の高い塔(鐘楼)のある場所がサンマルコ広場です。奥にはイタリアの本土もうっすら見えます(本土とヴェネツィア本島は3850mのリベルタ橋でつながっています)。島内に地形的な起伏はほぼないので、地面が平坦なぶん、空がとても広く感じられます。かなり平面的な地形です。

ARIA』はテラフォーミングによって水の惑星となった火星《アクア》を舞台としており、ネオ・ヴェネツィアは火星入植の際に地球《マンホーム》にあったヴェネツィアの建造物を移転した街であるという設定です。それゆえヴェネツィアの地勢や伝統を下敷きにしつつもさまざまな点で差異が多くみられます。ネオ・ヴェネツィアの空にはアクアの気温を適温に維持するための《浮き島》が浮かび、アクアとマンホームの間を行き来する宇宙船(というべきかなんというべきか)が飛び、空を飛んでものを配達する職業の人がいたりします。あるいは話数が進むにつれ地中で働く人の存在が明らかになったりもします。地形的な面でも、街から少し離れたところに丘があったりなどけっこう場所によっては起伏のある様子がうかがえます。そういうわけで、ネオ・ヴェネツィアは実際のヴェネツィアよりかなり上下に幅のある立体的な世界をしている印象があります。

 

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溜息の橋です。前にゴンドラが写っていますが、後ろでオールを漕いでいる赤と白のボーダーシャツを着た人がゴンドラ漕ぎの人です。見た限りほとんどすべてのゴンドラ漕ぎの人が同じような格好・年齢の男性でした。

 

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ホテル・ダニエリ。高級ホテルです。主要人物のひとり・藍華の所属する「姫屋」の建物のモデルです。漫画でみるとこれよりかなり建物の幅が広いように感じます。

 

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本島の北にあるヴェネツィアンガラスで有名なムラーノ島です。

 

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猫です。『ARIA』作中でもだいじな動物として登場するので変な感慨がありました。

 

写真がなぜかないのですがヴェネツィアは路地歩きが楽しいです。ヴェネツィアの入口であるローマ広場やサンタルチア駅からサンマルコ広場への道は観光客がたくさんいてそれ向けの店が軒を連ねているのですが、主要な道からはずれると閑静な、それこそ迷路のように入り組んだ細い道がたくさんあります。路地と同じくらい細い運河や橋も無数に存在します。あの細い道や運河の先にちょっと不思議で素敵なことが、というような『ARIA』の想像力は実際にモデルになった街を歩くと納得できることです。

しかし『ARIA』の想像力は(ネオ・)ヴェネツィアの内側だけでなく外側にも広がっています。ネオ・ヴェネツィアの街の外側には、日本の雰囲気をもった村のある島(伏見稲荷などをモデルにしているようです)があり、丘があり、その他実際のヴェネツィアにないような場所がたくさん存在しているからです。ヴェネツィアは水に囲まれている以上、一般の人にとっては大陸との間の橋か空港とヴェネツィアを結ぶ水上交通しか外に出る道筋がなくある意味で閉鎖的な印象を受けるのですが、ネオ・ヴェネツィアで暮らす主人公たちはゴンドラ漕ぎ(ウンディーネ)であり、ゴンドラで自由に街の外へ行くことができるので、ネオ・ヴェネツィアはかなり外側にも広いというか、『ARIA』の世界の周縁がかなり遠くにあるように感じられます。《アクア》もネオ・ヴェネツィアも全体像は見えず、ことなった断片的な細部だけがいくつもあらわれることによって場のイメージが形成されているように思います。

結論を言えば、『ARIA』のネオ・ヴェネツィアは実際のヴェネツィアよりもかなり内側だけでなく外側にも上下にも広く感じられるな、ということで、それは「素敵んぐ」な想像力の産物なのでしょう、と歩きながら考えたのでした。

ARIA』にテラフォーミング等々のSF的な設定が必要だったのだろうかと数年来思っていたのですが、本当のヴェネツィアではおそらくあそこまで自由に広がりのある世界を描くことは確実に不可能だったな、と今回感じた次第です。

 

(奈)

 

何故「ファンタジーなんて描けない」のか――認識と一貫性に関する一考察

「高度に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない」というアーサー・C・クラークの有名な文言がある。本人がどのような文脈でこれを述べたかは知らないが、この言葉からは発展に従って人類の手から離れてゆこうとする科学技術に対する戸惑いのようなものを感じずにはいられない。
このとき、科学技術に対置される「魔法」という言葉は、与えられた結果に対して、その原因を説明できない場合に用いられるものであろう。そう考えてみると、今から百年前の人々が今この現在に飛ばされてきたら、それこそ町中が「魔法」で満ちているに違いない。
しかし、今の我々が享受する様々な科学技術を、我々が「魔法」ではなく「科学技術」であると認識するのは、その技術のひとつひとつが理論的に説明可能であること、すなわち原因‐結果のプロセスによって認識することが可能であり、且つそうであると信じることによる。我々はあらゆる事象が科学的に説明可能だと信じる限りにおいて、ある技術を科学技術だと認識するのである。だから、必ずしもある科学技術の仕組みを完璧に説明できる必要はない。ごく簡単な物理法則の幾つかを知っており、世界はそのごく簡単な法則を基盤として説明可能なものであると信じていれさえすれば、人は簡単にある技術を「科学」と思いこむ。そのため、ありもしない間違った結果を捏造し、それを既存の物理化学の法則のプロセスによって説明することで正当化するような「似非科学」が人々の間で簡単に信じられてしまう。つまり、科学も一種の宗教たりうる存在である。宗教が、この世界や生の起源や根拠を与えるように、科学もまた、それぞれの対象を語ることによってその「原因」を明らかにすることによって、様々な事象に根拠を与える。宗教と科学において異なるのは、「原因」を明らかにするプロセスにおける客観性と厳密性である。宗教における「奇蹟」は自由に再現出来ないが、科学に依れば、ある法則はいくらでも同じ結果を再現することが出来るという点において、科学に信を置くという人々が今の社会においては主流である。
しかし、発達するにつれて専門分化した科学は、素人からみると原因‐結果の関係が非常に複雑化したために、容易にそれを掴むことはできなくなった。そのため、原因‐結果の関係が条理を逸しているのか否かの判別がつかないために、先程のような文言が生まれたのだろう。


 さて、前置きがいささか長くなってしまったが、これをフィクションに置き換えるとどうであろうか。一見、フィクションにおいては何事も可能であるように思われるし、実際のところそうである。創作においては科学法則などに囚われる必要性はない。それこそ「魔法」をいくら描いても構わないわけだ。
 しかし、手塚治虫は『ファンタジーなんか描けません』という文章の中で、タイトル通り、「ファンタジー」を日常性や論理性から逸脱した「狂気の産物」であるとした上で、それを描くことの難しさを述べている。

 優れたファンタジー描写が描けるか描けないかということは、その人がどれくらい日常性や論理性を無視できるかのちからによります。どんなに筆力や描写力に富んだ書き手でも、常識人ならばファンタジーの質は乏しく、ごく型どおりのものしか思いつかないでしょう。ことに作家という卓越したインテリジェンスを必要とする職業では、日常的、論理的なドラマトゥルギーに縛られています。(中略)そうなると、ぼくたちがふだんファンタジーと呼んでいる作品は、そのほとんどが擬似ファンタジーで、その実は、きわめて常識性の強い合理的なものが多いというわけになりますが、同様に、映像の分野でも、描写される対象が一見幻想的な空想に満ちた画面にみえても、その基盤が日常的な視野の上にあるものが、いかに多くて、ぼくたちが体験的な規模からいかに逃れられないかということがわかって来て、自分ながらがっかりしてしまいます。 *1

 ここで語られるのは、作品を構築するための想像力と、様々な事象の認識の方法との不可分な関係性である。この引用の後に述べられる、「宇宙人」の描き方が人型になってしまったり、昆虫や猿にどことなく似たような姿形で描いてしまったりする*2 のは、我々が自らの視野の内で、生物をそのように認識する限りにおいてなのであり、一見自由奔放であるようにみえる空想も、人間の認識によって容易に縛られたものになってしまうことを手塚は指摘する。このことは、我々が如何に因果律という認識方法に囚われているかをよく示す好例であるように思う。
そのため、手塚にとってのまんがの面白さはこのような因果律によって導かれるようなものではない。「あのしたたかなウソ、ホラ、デタラメ、支離滅裂、荒唐無稽さに出会ったときの楽しさったら、ないのである」*3 つまり、手塚は因果律がある程度狂ったような「おかしさ」をまんがに求めていた。
しかし、一方で、手塚が求めるそのような「おかしさ」は、手塚自身が読み手の側に立ち、自分の作品を読むということになると、事態が一変する。

 書き終わって見返したとき、今度は読み手としての常識論が頭をもたげてきて、不条理性や即興性のおもしろさが、やたら鼻についてくるのです。そして、そういう部分をどんどん削除し、修正していくうちに、構成や描写は一般化して、誰が見ても一応納得するものにはなりますが、奔放さはなくなってしまいます。 *4

 確かに、手塚の作品をいくつか思い返してみると、空を飛んだり、不老不死になったりすることがあったとしても、それがどうして可能になるのかということは物語の筋を論理的に追うことできちんと説明可能であり、実際登場人物が、そのような事象の説明の役回りを担うこともある。作品の中心には歴史や神話、科学技術が置かれ、全く荒唐無稽な作品は描いていないように思う。つまり、手塚の作品内で、現実世界において明らかに存在できないようなキャラクターが存在することができるのは、我々が科学を信じるような認識の方法と同じような方法でそのキャラクターを認識するからであり、そのように我々を認識させるためには、説話論的構造や、細部の描写を厳密に構築することが求められる。つまり手塚が言うような「リアリティ」とは、自然主義的なリアリズムのことでは当然なく、ほぼ論理性と等置することが出来る。つまり作品が、論理的〔因果的〕一貫性において妥当するか否かが、「読み手」のレヴェルにおいて求められるのだ。そのため、ここにおいては、「高度に発達した魔法は科学技術と区別がつかない」というように言われるべきであろう。
そして手塚は「本物のファンタジー作品があるとして、それを受け手に理解させることはすごくむつかしいと思うのです。また論理的に解釈されるべきものでものでもないと思うのです」*5 と言い、大人の論理性と子供の不条理性を二分法的に対立させようとする。だが、手塚が称揚しようとする子供の不条理性は、あくまでも大人の論理性を前提としたものに過ぎず、手塚自身が説明していたはずの、子供の落書きに見られる一貫性 の側面*6が取捨されている。それに、この文章における「本物のファンタジー作品」なるものが、端的に子供の不条理性によってのみ可能になるのかどうかはいささか疑問であるし、大人と子供という二分法自体が近代的で作為的な対立軸である。それに、一貫性という言葉は必ずしも、論理的な一貫性だけを指すのではないと思われる。
しかしながら、この手塚のファンタジー論はひとつのジャンル論に留まらず、一種のまんが・アニメ批評として示唆に富んでいる。先週取り上げた『打ち上げ花火』や『君の名は。』は、現実世界を想起させるような舞台設定であるが、一種の奇蹟を描いている。
その奇蹟を「リアリティ」のあるものとして視聴者に捉えさせるためには、奇蹟を可能にする根拠が求められるが、それを説話論的構造に依る因果関係に求めることは出来ない。しかもこれらの作品は、想像力を我々の現実世界に限定しているため、手塚のSF作品のように世界をその根拠から構築していくことで、奇蹟を論理的な一貫性をもとに一般化してしまうことは出来ない。そのため、説話論的構造による一貫性だけに頼ると、どうしてもご都合主義的な展開にならざるを得ない。そのため、物語的ではありつつも、そこから逸脱するような展開に正当性を担保するような別の一貫性を作品全体に持たせることによって、作品の「リアリティ」を保証することが出来る。その一貫性を読む方法論のひとつとして、画面に散りばめられたレトリカルな細部の一貫性を作品の構造の根拠としてみるような主題論は可能になるであろう。無論、主題論にこだわらなくとも、精神分析的読解もあり得るし、作品をある思想の反映として読むことも可能ではあるだろうし、それ以外の読みも考えられる。「謎本」や「超読解」などの本を誘発する作品群は、手塚のように、ナレーションや登場人物に世界の根拠を語らせず、隠すことによって、中心がどこにあるのかを人々に語らせるのである。しかし、その中心はたとえ可視的であり、作者によって明示的に示されていたとしても、それが様々な読みを誘引することによってたえず移動をするのである。だが、モーリス・ブランショのいうように、アニメやマンガにおける中心が、書物における「中心への無知と欠如」と同様に語られてよいものであるか否かについては、まだ考察の余地があると言える。

(錠)

 

*1:手塚治虫手塚治虫大全2』(光文社、二〇〇八)二三、二四頁

*2:同書、二五頁参照。

*3:手塚治虫『マンガの描き方 似顔絵から長編まで』(光文社、一九九六)二九頁。

*4:手塚治虫手塚治虫大全2』(光文社、二〇〇八)二六頁。

*5:同書、同頁。

*6:手塚治虫『マンガの描き方 似顔絵から長編まで』(光文社、一九九六)一五、一六、一七頁参照。