web版アニメ批評ドゥルガ

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アニメに纏わる記事を書いています。毎月第四水曜日に更新。担当者が異なります。

あまりに主題論的な『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』

f:id:durga1907:20170823013604j:plain(引用元:https://www.fashion-press.net/news/27685

公式サイト:www.uchiagehanabi.jp

原作:岩井俊二 総監督:新房昭之 監督、絵コンテ、キーレイアウト、美術設定:武内宣之 制作会社:シャフト

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』(以下『打ち上げ花火』)には円と四角、回転、投擲と打撃といった細部が反復されて呼応するように物語が進みます。

円は球形といってもいいかもしれません。冒頭の花火や風鈴のあとで自転車や風車が現れ、その次になずながキーアイテムの水晶玉を拾います。校舎は半円形で階段も奇妙な螺旋階段です。もちろんシャフトのアニメに特有の建物構造ではありますが、たとえば『化物語』一話の螺旋階段とは異なり、こちらではその円状の系列が時計の文字盤と関わり、ループを予期させます。

球形は立体を意味しています。しかし四角の系列、黒板やプールサイドの板、手紙などの平面は半円形の校舎の窓や螺旋階段の踏み面など円形を支える役割もしていますし、反対に円形が連なったコースロープによってプールは幾つもの四角形に仕切られます。それはトンボの目がなずなの像を無数の四角に分けているカットからも自覚的に行われている細部の連関であり、これらの反復によって花火が平面であるか立体であるかという問いを物語上に誘致することになります。

物語を進める細部として「もしも」を叶える水晶玉は掲示板の花火の広告にぶつかることで、つまり立体と平面がぶつかり合うところで効果を発揮するのではないでしょうか。二度目は平面化してしまった花火、三度目は海面に投げています。

*平面が回転することで立体を作り出すというのはアニメーション自身に対する言及であり、そこには時間性が必須です。

この立体と平面の関係はアニメーション上の手描きとCGの問題に移行します。それは「もしも」電車に乗ることができていたならと願ったあとの、電車を追う母親のシーンと電車のなかで松田聖子をなずなが歌うシーンです。前者が手描きで後者がCGです。とうとつに歌うなずなの場面にも意図があるんですね。しかし結局、この二つの対比はそのあとで出現しなくなります。それは立体であっても平面であってもなずなにとってはどうでもよく、典道と一緒にいられればいいという灯台での発言に収束するのかもしれません。この時の花火は鳥の羽根を模したものでなずなの登場シーンに飛んでいた白い鳥が関係しているのでしょう。

*立体が現実で平面が虚構という象徴解釈が退かないといけません。四角=平面系列の手紙は現実を宣告するものであり、反対に円=球形=立体の水晶玉は「もしも」の虚構世界をつくるものです。この二つを同時に持っている冒頭のなずなを参照すれば平面と立体は対置されるものというよりは配置されるものであると言えます。

典道が球を「投げる」ことで「もしも」の世界に移行しますが、その一方で大人たちは「打つ」仕草をしています。たとえば典道の母は柱を打ち、光石先生は職員室でエア素振りをして、祐介の父は診察室でパターマットを使ってゴルフの練習をし、なずなの母親の再婚相手は典道を殴ります。そして花火は花火師によって打ち上げられます。これは典道の「もしも」という妄想的な願望とは反対に現実的な決定(お祭でのフリーマーケット、恋人関係の発表、破傷風の否定、再婚と引っ越し)に関連するものであって、能動的な行動です。しかし典道の「もしも」は自分のためではなく飽くまで、なずなのためであり常に受動的です。それはまさに打ち上げ花火を、下から見るにしても横から見るにしても、ただ見ることしかできないという受動性と同じです。それはセルアニメであれCGであれアニメであるならば見ることしかできないという受動性と似ています。

そこにはキャラクターと観客の結節点があり、最後の花火を見るシーンで再びなずなとともに別れ、厳然と存在するキャラクターと観客の距離を取り戻します。

立体と平面、投擲と打撃を扱った極めて主題的な作品であり、新海誠の作品を想起した人も多いと思います。新海誠は作品を横断して線路や雨を用いて線と円の主題を描く作家という側面を持ち合わせています。『秒速5センチメートル』では線路と飛行機雲といった二人を妨げる線、『言の葉の庭』では環状線と雨の二人を繋ぐ円環の線、そしてその二つが合わさった『君の名は。』など。しかしそれらの主題は『君の名は。』の回想シーンまでは叙法を変化するまでに至ってはいませんでしたが、『打ち上げ花火』では極めて多様な描かれ方がされていました。『君の名は。』のように見るのはつまらないという意見をよく目にしますが、むしろこの作品ほどシャフトのなかで『君の名は。』に近い作品はないと思います。

 ただ反復される細部の単調さを考えると、もう少し短めでも成り立ったかもしれないと思いました。

前述の主題の反復は整除だてられていていますし、音響設備の良い映画館ならば音楽や演技はとてもいいので、広瀬すずの拒絶する演技の洗練されていない感じとか、三木眞一郎の演じる義父特有のいやらしさとか、中学生男子っぽい馬鹿らしさとか、音楽の荘重さとか、物語を抜きに楽しめます。それにしても看護師が斎藤千和だとは気づかなかったなあ。

ボクサーとしての属性 

  矢吹丈というボクサーの属性は、「ケンカ」や「野生児」といったような、既成のボクサーのスタイルを異化し、彼が正統から外れた存在であることを表すようなものを付与されています。それは、ジョーがボクシングを始めるに至った経緯や、彼の並外れた才能を踏まえてのことです。そのため、読者は当初、プロデビューしたジョーはひどく個性的なボクサーのように見えるでしょうし、実際、物語的にも、非凡な才能を持ち、正当なルートから少し逸したようなやり方でプロライセンスを取得しているために、一層そのような印象を強く持つでしょう。

しかし、様々な相手と対戦するに従って、ジョーのボクシング技術は当然のことながら向上していきます。そのため、段々とボクシングスタイルも、正統に近づきますが、そもそもジョーは、丹下団平によってはじめから正統なボクサーとして育てられていたのですから、彼が読者にもたらしていた異化作用は、物語冒頭の「ならず者」としてのジョーの名残によるものだと言えるでしょうし、さらにいえば、ジョーのボクサーとしての歩みを事細かに知る由のない観客が、未知の存在である彼を語り得るものにするための便利な表象としてそれらの属性は用いられています。

そのため、ジョーの成長はボクシングに馴染むことであると同時に「ボクシング」に対して与える異化作用を鎮静化させ、それによってジョーの個性をそれまで担っていた「属性」は次第に目立たなくなり、時折思い出したかのように実況や観客がそれを口にするにとどまっていきます。

物語がそれまで対戦してきた相手に対する「負い目」やボクシングそれ自体に対する狂おしいまでの情熱をジョーが抱いていたことを提示することで、読者は属性に還元しえないものをジョーにみることになるでしょう。このとき、ジョーは幾つかの属性を縫い合わせた、かませ犬のようなボクサーではなくなり、代替不可能なひとりのボクサーとしてリングに上がっているのです。

 確かに物語は様々な属性をキャラクターに付与します。しかし、その属性は必ずしもキャラクターの自己同一性を担保し続けるとは限らず、その属性のゆらぎや消滅によってかえってそこに「リアリティ」を感じる場合も考えられます。

 しかしながら、まずもって問題なのは、属性の付与からそのゆらぎ、消滅を動かすものは何によってなのかということですが、このことについて詳しくは秋文フリで書こうと思っています。恐らくこの作品に触れることはないと思いますが、「魔法少女」と「日常系」に関する問題の磁場を、別のジャンルの作品にも共鳴させることが出来るように、次号は書いていこうと勝手に考えています。

「明日の入り口」に残されたのは――『けいおん!』をめぐって(5・終)

時間という概念がきわめて重要なプルースト失われた時を求めて』では頻繁に文章の上にあらわれる細部がいくつもあるのですが、そのなかの代表的なものとして「窓」と「光」があります。窓はある隔たりを保ちながら外界を見るためのものであり、またプルーストにおいては人物を窓越しに見ることで物語の展開の契機にもなっているものです。そこから差し込む光が場面を照らしもします。

同じように、というわけではまったくないのですが、実は『けいおん!』のシリーズでも窓と光はかなり意識して書かれているように見受けられます。時間や天候、季節、あるいは場面の情景によって繊細に変化する京都アニメーションの光の描き方は特筆に価しますが、窓を使った演出もきわめて細やかです。音楽室の窓から外をのぞくカットはよく見かけられますが、『映画けいおん!』においては飛行機の楕円形の窓を唯がのぞくといったことで反復され、卒業式の日、梓に曲を披露する前に四人で屋上に集まったとき、唯が指で作る窓を空に向けてのぞくという印象的な場面へつながっていきます。

ほとんど最後のシーンでも窓はかなり隠喩的な意味合いを含んでいると言えます。梓に向けて四人が演奏したあと、画面はすぐに窓の外側からの視点に切り替わります。

 

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(『映画けいおん!』から)

 

このカットでは構図の中心に据えられた柱が画面のなかで大きな幅を占めています。人物の立ち位置に注目すると、梓だけが柱の左にいるのに対し、三年生は全員柱の右にいます。ここでも梓は三年生四人から切り離されているのであり、その分断を画面の上で担っているのが窓でありその柱なのです(ちなみに、これ以降本編では梓は出てこず、三年生四人が歩くシーンで本編が終わります)。さらに言えば、彼女たちはそれを見るこちらの視点とも窓によって分断されているとも言えます。

直線による分断は実は映画のなかで何度か映ります。その役を担っているのは飛行機雲です。『映画けいおん!』では飛行機雲は遠くに小さく描かれるのではなく、画面の上下を縦断し画面(空)を左右に分けるように(別の言い方をすれば、長方形の画面を台形ふたつに分割するように)描かれます。飛行機雲は当然海外旅行という物語の軸と関連をもち、さらに翼というモチーフとつながることによって最後に梓に向けて披露される曲の歌詞に影響してもくるのですが、構図から考えたとき、飛行機雲は何かとの――おそらく、卒業していく四人との――境界線となっているようにも見えてきます。

円的な時間の作用と対照されるように、線は時間の流れのなかに引かれる指標ともなっています。上の画像の窓のカットのあと、歩いていく三年生四人の足を視点は追って行くのですが、彼女たちの足は横断歩道の線を渡り、橋の柵の縦の線をいくつも通り過ぎていきます。やがて彼女たちは、橋の反対側へと歩いていきます。

映画けいおん!』では、前回記事で述べた吉田健一的な「ただ現在が流れていく」ような時間、円周のなかにいるような時間と、そこから抜けて別の反復へと移行するようなリニアな=線的な時間が共存しているように思われます。そこが、特に後者が存在するということが、ただ同じような毎日を反復するだけの日常系作品、あるいは永遠に時間がループしてしまういわゆる「サザエさん時空」の作品と『けいおん!』が一線を画しているところである所以ではないでしょうか。特に『映画けいおん!』ではおそらくシリーズ中で初めて人物が「過去」「未来」に言及する場面があり(唯が「日本から(時差で日本より時間が遅れている)イギリスに向かって送ったメールは過去に向かって送ってることになるの?」というような疑問を思いつく場面があります)、その意味でも基本的に現在が中心になる日常系の枠から一歩進んでいるように思えます。

しかし作中の人物たちは、卒業といった日常の終わりが訪れても今の日常と同じことが続くことを望んでいるかに見えます。それがいちばんはっきりわかるのは二期20話(最後の文化祭の回)ですが、『映画けいおん!』でも唯が「大学行ってもみんなでお茶できるよね?」と言ったり、最後の場面で四人が冗談交じりに来年の梓の卒業旅行でどこに行く?という話をしたり、といったところにそれが垣間見えます。

日常それ自体は彼女たちがある限り続くでしょう。しかし梓と分断され、あるいは観客と分断されて自立した四人の日常が本編で描かれたのと同じままに続くとは思われません。そこで行われるのはまた別の日常であり、別の物語であるはずです。梓という存在を視聴者のアバターにすることに成功した『けいおん!』において、視聴者が四人の新しい物語にふたたび参入するときの方法はかなり大幅に形が変わることが想定されます。それこそ卒業という日常の終わりに取り残された感覚になる視聴者もいるはずであり、それゆえに本編を繰り返し見ることによって何度もまた同じ日常の現在に戻ろうとする人や、いわゆる「ロス」になる人も多いはずです。

もちろんこうした見方は人物相互の関係やキャラクターの実存性に重きを置いている面が大きく(つまりファン心理が多分に入っているとも言えます)、キャラクターの実存性をとりあえず留保する場合や、あるいは桜高軽音部という「場」を主軸として見た場合はかなり見方が変わってくるだろうと思います。しかし日常系が関係(の不変性)に立脚した物語であることを考えると、批評的ではないかもしれませんが一定の説得力を有しているのではないでしょうか。

 

けいおん!』について断片的に長く書いてきました。余計なこともたくさん書いたような気もしますが、ここまでの議論が他の日常系作品や日常系そのものについて考えるときに何か役に立つことを願って、ここでいちど筆をおくことにします。

 

 

《補足》原作の『けいおん!』連載が終了したあと、新しく『けいおん!college』(大学生編)と『けいおん!highschool』(梓高3編)が始まり、双方とも次の文化祭を成功させるまでの様子が描かれました。「あずにゃんお元気ですか?」「唯先輩お元気ですか?」というモノローグがたまに挿入されるほか、梓に関してはかなり先輩達(特に唯)のことを気にかけている節がありますが、新しい人物たちとも新しく関係を作っています。

 

 

◆以上で連載を終わります。ありがとうございました。これからもドゥルガの定期更新は毎週水曜日に行われます。

◆前回までの記事はこちら↓

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(奈)

流れていく現在のただなかで――『けいおん!』をめぐって(4)

時計を見慣れた我々にとって、時間というものに循環性があることはすぐに了解されると思います。長針が一周することで一時間が経ち、短針が二周することで一日が経過します。あるいは太陽が昇っては沈むことで一日が経ち、一週間、一ヶ月と経っていって、春夏秋冬が一巡りするとまた新しい一年がやってきます。その繰り返しのなかを我々は生きています。

しかしもちろん、その繰り返しはずれを伴います。まったく同じ一日は存在せず、我々は刻一刻と死へ向かって変容し続けているからです。我々の日常における時間には、円環性と線状性が同時に存在しています。

けいおん!』のキャラクターたちの日常もまた、放課後のお茶とおしゃべりの反復と、卒業によるその終焉でできあがっていることはもはや言うまでもないでしょう。そしてそれに対する隠喩として画面にあらわれるのはやはり円なのです。

映画けいおん!』において円のモチーフは冒頭から反復されています。音楽室での日常のシーンにはティーカップ、バウムクーヘンが並びますし(もちろんこうした風景は『けいおん!』全編を通して常に見ることができます)、オープニングの曲のあいだに流れる映像はタルトがイメージされています。ロンドンに着いてからもいくつか円いものは見て取ることができますが、それらはみな、帰国直前に行うライブの最中に見えるビッグベンの時計につながっていきます。五人は帰国の飛行機の時間を気にしながら急遽参加することになったイベントで曲を披露するのですが、ここでロンドン滞在の期限が円形の時計によって表象されるわけです。

時計の針が回転するのと同じように、円はしばしば回転の運動をもたらします。澪が怖がりなのは今に始まったことではないのですが、『映画けいおん!』ではその対象が「回るもの」になります。ロンドンの空港に着いたとき、預けた手荷物を受け取るコンベアーがいくら回っていっても澪の手荷物が出てこず(実はわきによけられていたのですが)、それ以降澪は回転寿司を見ても観覧車を見ても「嫌な予感」を覚えるようになります。

しかしその観覧車に半ば強引に乗せられたとき、澪から「嫌な予感」はふっと去っていきます。なぜなら律の言うように「乗ったらぐるぐる回るのは見えないから」です。つまり循環を外から見ているのはおそろしいけれども、自分がその循環のなかに入ってしまえばただ楽しいばかりなのです。

この対比を時間の流れの考え方と対照させると、時間が流れている(流れていた)ことを見つめる在り方と、いま刻々と流れていく時間に常に身を任せる在り方との対比という風にも言えます。それは言ってみれば時間の「外側」に立つか、それとも時間の「内側」に立つかということでもあります。

時間の内側に立って常に現在性のただなかに身を置き続けるような存在の在り方を示したのは作家で英文学者の吉田健一でした。最晩年の書『時間』では彼の時間論が存分に展開されています。冒頭を引用してみます。

冬の朝が晴れていれば起きて木の枝の枯葉が朝日という水のように流れるものに洗われているのを見ているうちに時間がたって行く。どの位の時間がたつかというのでなくてただ確実にたって行くので長いのでも短いのでもなくてそれが時間というものなのである。(『時間』Ⅰ)(※1)

ここで書かれている時間の在り方は、過去も未来もなくただ現在が我々の前にあるというものです。吉田健一は一秒前が過去になり一秒先が未来となって現在をまさしくいまこの瞬間だけに限定するような時計の時間の在り方を否定します。時間というのはただ流れていくものであって、たとえ我々が歴史を紐解き史実を参照している場合においてさえ、その個としての人間の視点から考えれば、そこで流れているのはやはり常に現在なのです。

日常系の作品の世界を考えたとき、そのなかで流れている時間の在り方はまさしくこういうものなのではないでしょうか。なぜなら日常系には過去や未来との因果関係から生まれる物語はほとんど存在せず、人物たちの行動は過去や未来を起点にしたものよりも「いま、そのとき」を楽しむようなものの方が多く描かれるからです。現在の日常を称揚しているからこそ、日常系は「日常」系たりうるのです。

ちなみに、こうした時間観念と対になるような考えをもっていた作家として吉田健一が『時間』のなかで挙げたのはやはりプルーストでした。『失われた時を求めて』では当然、長く続くセンテンスによって時間の流動性はどのページにおいても担保されており、無数に描かれる日常行為の反復(および過去の反復を示すフランス語の半過去時制)がその場面場面の現在を産みだしてもいるのですが、しかしプルースト特有の「無意志的想起」によって、『失われた時を求めて』の本文にもある「時間の外に出る」ような感覚を語り手の「私」が得ていることも確かなのです。プルーストの語り方は極めて時間的な意味で重層的です。あるひとつの光景の裏にはいくつもの過去の時間が流れ、しかもそれを「私」は思い出し、あるいは書きつけているわけです。これは常に現在というひとつの流れのなかにいる吉田健一的存在とは対照的と言えるでしょう。(※2)

 

(※1)吉田健一『時間』の底本は、講談社文芸文庫の版(1998)に拠りました。

(※2)吉田健一プルーストの時間観の対比については、松浦寿輝プルーストから吉田健一へ」(鈴木道彦訳『失われた時を求めて1 第一篇 スワン家の方へⅠ』(集英社ヘリテージシリーズ、2006)所収)を主な参考としました。

 

 

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(奈)

円形を見つめるあずにゃん――『けいおん!』をめぐって(3)

二期13話「残暑見舞い!」でも、梓は夢を見ます。

 

(二期13話の紹介ページ↓)

www.tbs.co.jp

 

夏休み、三年生四人が勉強で忙しくしているなか、梓は暇を持て余していました。夏の熱に浮かされたように梓は憂や二人の同級生の純と遊びに出掛けた先でも居眠りを繰り返し、そのたびに三年生が登場する奇妙な夢を見てしまいます。

例えば今敏監督の作品ほど夢と現実の間が曖昧になるわけではありませんが、工夫の凝らされたカット割りや演出によって現実から夢への移入が極めてシームレスになっており、気づいたら夢のシーンに入っていたと一回目に見たときに感じる人は多いのではないかと思います。逆に夢から目覚めるときにも、細部同士の連関によって夢と現実のあいだはスムーズな連続性が保たれていきます。一つ目の夢では梓が唯の家にスイカを持っていくのですが、夢から目覚めたときにソファーで居眠りをしながら手に持っていたのはスイカバーでした。あるいは映画館で前に座った澪の携帯が鳴りやまないという夢の場面から、音楽室のテーブルの上に置いてあった携帯のバイブレーションで目を覚ますという風に場面がつながったりもします。

夕方、思いっきり遊んだあとの帰り道を歩いていると梓たち三人は三年生四人に偶然出くわし、七人は一緒に夏祭りに行くことになります。やっぱり先輩たちといると楽しいな、と梓がぼうっと考えていると、向こうの方で花火が始まります。唯が梓の手をとり、三年生たちと音の鳴る方へ走り出します。しかし梓は唯たちとはぐれてしまい、花火は終わってしまいました。梓と合流した憂と純は少し唯たちを心配するのですが、大丈夫だよ、きっと、と梓は答えます。

この話数で一貫しているのは三年生四人を梓が見るという視点の位置です。一人称的な梓の夢が繰り返される一方、三年生たちについては外面的な描写のみがなされます。モノローグがあるのも梓だけです。ここで梓は視点人物としての立ち位置を得ていることになります。

特にこのエピソード以降、梓は四人を横から見つめるような存在として描かれることが多くなっていくように思います。当然梓の視点ですべての物語が構成されているわけではありませんが、やがて卒業していってしまう四人の横顔と後ろ姿を見つめる位置は、『けいおん!』を観る視聴者の位置とも一致します。つまり、梓は視聴者のアバターとしての役割を物語のなかで担うことになっていくのです。

映画けいおん!』でも梓は特権的な位置に立っています。梓のために三年生四人がサプライズのプレゼント(楽曲)を贈ることが物語の主軸になっているからです。四人が何かしているところへ最後に梓が加わるという場面はとても多いのですが、劇中で特に繰り返されるのは、梓がいないときにこっそり四人がサプライズの計画や歌詞を考えているところへ梓が入ってきてしまって、四人がばれないように慌ててごまかすという場面です。その行為はもちろん梓への愛ゆえにということではあるのですが、ここで三年生四人は四人だけで自立した行動をとっており、梓はそこへ入らない(入れない)という構図になっています。そして最後の卒業式の日の演奏場面において、梓は四人と一緒に音を奏でるのではなく、四人の音を受け止める側に回ることになります。それはもちろん、ただ彼女たちの声をきく観客=視聴者の位置でもあるのです。

卒業によって、五人だった放課後ティータイムの関係は四人と一人に分かれます。四人は軽音部を去り、舞台の上から去っていきます。観客席には梓がひとり残り、また視聴者がひとり残るのです。

 

ところで、先の二期13話「残暑見舞い!」では、かなりたくさんの円のモチーフがカットのなかで使われています。夢のなかで唯の家に持って行ったスイカ、音楽室から見下ろせる前庭(校門と後者の間のスペース)にある大きな円形の噴水、また別の夢のなかで登場する福引のガラガラ(抽選器)、打ち上げ花火など円形のものが20分のなかでよくアップになります。こうした細部同士のつながりがこの話数をたゆまずに最初から最後まで見せる力を持っていることはもちろんなのですが、この円のモチーフは最後の場面でより深い意味をもつことになります。

夏祭りから帰ったあと、梓はシャワーを浴びながら一日の出来事を思い返していました。身体を洗った泡がシャボン玉のように丸く浮かんで上へのぼっていくのを目で追いながら、梓は一連の出来事がひょっとしてまた夢なのではないかとぼんやり考えます。そして梓は、「そっか、私、もうすぐひとりになっちゃうんだ」と気づくのです。円を目で追うことと三年生たちの卒業を目で追うことが、この場面ではぴったりと重なっています。

映画けいおん!』でもまた、円は重要な細部として画面のなかに頻繁にあらわれます。そのテマティックな演出はTVシリーズのなかでも特にこの「残暑見舞い!」を踏襲しているのではないかと思わされます。なぜなら、その形とつながっていくのはやはり、日常の時間とその終わりだからです。

 

 

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(奈)

逆の物語としての「解散ごっこ」――『けいおん!』をめぐって(2)

映画けいおん!』をめぐる議論のなかで(それはもちろんTVシリーズにも波及しますが)、重要だと思われることがらの一つとして「模倣」が挙げられました。

冒頭、前回言及した唯が目覚める場面のあと、シーンは三年生四人が音楽室で(彼女たちらしくもなく)メタルの曲を演奏しているところへ切り替わります。そこへ梓が入ってくると、四人はいがみあいをしています。梓が不審に思って尋ねると、どうやら四人は音楽性の違いで対立しているようでした。しかし実はメタルの音楽はカセットテープから流していたもので彼女たちはそれに当てふりをしていたのであり、いがみあいも結局「ごっこ」だったのでした。

ここにはいくつかの模倣を見て取ることができます。一つは「バンドが音楽性の違いによって対立・解散することの模倣」であり、また一つは「メタル音楽の当てふり=模倣」です。

前者はバンドのイメージの模倣として描かれます。イメージの模倣という意味では、「何か先輩らしいことをしよう」という考え方や、劇中歌「ごはんはおかず」の歌詞の前提が「お好み焼きとごはんを一緒に食べる関西人」のイメージに依拠しているところも関係があるかと思います。あるいは、バンドの解散の模倣はそのイメージを産みだした物語の模倣でもあります。「ごっこ」というのはある虚構の物語のなかに自己を組み込むことであり、すなわち虚構を借りて自己を物語化することだと言えます。理論立てるのが難しくそもそも何かに肩入れしすぎているかもしれないのですが、人物が他の物語に言及することでメタレベルがやや上がるといいますか、いわゆる普通の物語よりも人物が「こちら側」(視聴者側)にいるような印象を受けます。適当な例が出てきませんが、他の日常系作品でも時おりこうしたことが散見されるような気がします。

メタという意味で言えば、彼女たちは作中である種の「メタ聖地巡礼」をしているといえます。彼女たちが行き先をロンドンにした理由のひとつはUKロックの聖地巡礼でした。こうしたことは『けいおん!』が純粋な虚構よりも現実に近いように見えるのに一役買っているようにも思われます。京都アニメーションのある種の現実主義ともうまくかみ合っています。

けいおん!』に関してはまた、人間としての在り方から逸脱していないキャラクターは人間の模倣という要素が強いと言えます。そもそもアニメーションや絵という媒体はある対象の模倣です。あるいは前回記事で触れたようなキャラクターを写した写真についても、その初期が鏡としての役割をもっていることや、人間の鏡としてのキャラクターという考え方を鑑みれば、ある種鏡の前に立つ人間の模倣とも呼べるものです。

後者については、実は作中人物の模倣になっています。上述のシーンで使われたメタルの曲は、部の顧問である山中さわ子がかつて唯たちと同じ高校の軽音部に所属していたときに演奏していたものだからです。物語後半でもかつてさわ子がやったのと同様に卒業前の登校日にゲリラ的にライブを行う場面がありますが、ここでもやはり軽音部の過去の出来事が模倣されています(作中では軽音部の「伝統」という表現が使われます)。こうした出来事の反復は、「放課後ティータイム(唯たち五人のバンド)の物語」(人物の物語)が主軸である『けいおん!』に、「桜高軽音部の物語」(場の物語)を付与し、時間の流れに深みをもたせる作用も含んでいます。

さわ子と放課後ティータイムの関係は、先生と生徒の関係であるだけでなく、バンドとマネージャーの関係の模倣になってもいます。たとえロンドンという遠いところであっても、放課後ティータイムが演奏する場所にさわ子は居合わせています。回転寿司屋で演奏する場面や卒業式の日の梓に向けて演奏する場面など必ずしもさわ子が近くにいない場合もありますが、さわ子はバンドとは監督者の関係にあるとは言えると思います。

過去の記事でも触れましたが、日常系では人物同士の関係が維持されたまま時間が流れていきます。だからこそ「音楽性の対立ごっこ」がユーモアになりうるのです。逆に言えば関係の変化は作中の人物にとって一大事になります。『映画けいおん!』では中盤に、唯が留年してしまう夢を梓が見る場面があるのですが、そのなかで梓は唯をどう呼ぶべきか悩みます(「唯」と呼び捨てするのがしっくりこないのです)。先輩・後輩の関係が同級生の関係へと変質してしまうことは、彼女たちにとってはなおのこと困惑すべき事態となってくるのです。

もちろん、三年生四人が卒業によって桜高軽音部という場から離れ、放課後ティータイムのなかの関係が大きく変わることでこの物語が閉じられることは無関係ではありません。日常系にとってある関係の終焉は物語の終焉であり、いちど関係が変化してしまったらまた新しい別の物語を始めるほかないのです。

 

 

◆前回記事はこちら↓

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(奈)

細部の連関、写真と目覚めという契機――『けいおん!』をめぐって(1)

昨日、ドゥルガとしては初の勉強会を行いまして、いろいろと議論することができました。

扱ったのは『映画けいおん!』(2011)です。

 

映画 けいおん!  (Blu-ray 初回限定版)

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 ご存知の方も多いと思いますが、『けいおん!』(アニメ版一期2009、二期2010)は女子高生五人(唯・澪・律・紬とひとつ後輩の梓)の軽音部での日常を描いた作品で、いわゆる「日常系アニメ」と呼ばれるカテゴリーに入るものです。日常系作品うち多くの割合を占めるのは芳文社の『まんがタイムきらら』系列の雑誌に掲載された漫画が原作のものなのですが、『けいおん!』も『まんがタイムきらら』を中心に連載されていました。

(『まんがタイムきらら』系雑誌の作品にどのようなものがあるかについては以前『きららファンタジア』について紹介した記事(↓)をご参照いただくとよいかもしれません)

 

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次号の冊子で扱うテーマが日常系なので有名作のひとつをと思って選んだのですが、結果として日常系でありながらそこだけに収まらないような要素(クラスメイトや父母との関わりがあって中心人物だけの関係に収束しないこと、日常の「終わり」=卒業による関係の変化まで描き切ったことなど)を含んでおり、勉強会の題材としては好適だったと思います。

映画けいおん!』は、三年生四人が受験を終えて卒業も間近になった頃に卒業旅行として梓を入れた五人でロンドンに行くという出来事と、卒業旅行を挟みながら四人がひとり高校に残ってしまう梓のために楽曲を作っていく経緯が物語の中心となっています(出来上がった曲は卒業式の日に梓に披露されるのですが、その様子は二期のTV放送最終話とこの映画版の終盤で描かれます)。110分ありますが、あらすじにめくるめく展開といったものはやはり存在しません。TVシリーズで描かれていたのと同様に、音楽室兼部室でまったりお茶とケーキを味わい、機会を得て演奏し、最後に卒業を迎えるだけです。しかし細部において京都アニメーションおよび脚本の精髄がTVシリーズにも増して発揮されており、じゅうぶん完成度の高い作品と言えるものでした。

質の高さのひとつには、映画向きの凝ったカットが(特に序盤で)多用されていたことが挙げられます。例えば三年生四人が渡り廊下で「梓に何かをあげたい」と会話する場面であったり、あるいはそれに続く平沢家の食卓の場面で、唯の妹の憂が食事を用意しているテーブルがさまざまな角度で映され、そのカット同士が憂と唯の視線がつながることによって連続するところ(何というか言葉でお伝えしにくいので映像をご参照いただければ幸いです。冒頭から12分のあたりです)などに、平均的なTVアニメでは見られないようなコンテの技術があったように思われます。脚本も、ヘンゼルとグレーテルのように飴を落としておく場面、ドライヤーを変圧器なしでプラグに差してショートする場面、はさみにいたずらが仕掛けられていることに気づく場面など、一見他愛ない光景が間隔をおいて反復されており、物語全体がばらばらの断片にならずにうまく接続し合うようにできている印象を受けました。同じ吉田玲子さん脚本の作品では、例えば『劇場版ガールズ&パンツァー』などでもその丁寧な伏線の張り方に驚いた記憶があります。

映画のなかの場面同士の連関だけでなく、これまでのTVシリーズの場面との連関もかなり意識したつくりになっていました。それにより、TVシリーズを見てから映画版を見ると彼女たちの文脈というものを強く感じさせられます。二期の卒業式回との対照を抜きにしてもこれは挙げればきりがないのですが、いちばん強く意識されているのは、冒頭、写真のカットから始まり目覚まし時計が鳴って唯が起きるという一連の流れではないかと思います。一期および二期の冒頭でもほとんど同じように物語が始まっており、このパターンはほとんど物語の契機とも呼べるものです。

ただし、写真に写る光景や人物は、それぞれの場合で異なっています。写真に写る人物によってそれまでの人物関係および時間の流れが視聴者にすぐ了解されるという効果をこの冒頭は持ってもいます。卒業式回以後の話数(二期#25-27、TV未放送話)でも写真は多用されるのですが、それもやはりこれから語られる物語が時間軸のどの位置にあるのかを示しつつ視聴者にその時空間へ向かわせる方法として使われています。

けいおん!』の作品を通底する時間の問題や人物関係の問題が、この冒頭場面にもすでに象徴的に表れているといえます。それについて、次回以降の記事では詳しく書いていきたいと思います。

 

◆これからしばらく連載のような形で『けいおん!』について更新していきたいと思います。今週土曜日(8/5)には完結する予定です。お付き合いいただければ幸いです。

 

(奈)