web版アニメ批評ドゥルガ

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アニメに纏わる記事を書いています。定期更新は毎週水曜日。毎週担当者が異なります。

流れていく現在のただなかで――『けいおん!』をめぐって(4)

時計を見慣れた我々にとって、時間というものに循環性があることはすぐに了解されると思います。長針が一周することで一時間が経ち、短針が二周することで一日が経過します。あるいは太陽が昇っては沈むことで一日が経ち、一週間、一ヶ月と経っていって、春夏秋冬が一巡りするとまた新しい一年がやってきます。その繰り返しのなかを我々は生きています。

しかしもちろん、その繰り返しはずれを伴います。まったく同じ一日は存在せず、我々は刻一刻と死へ向かって変容し続けているからです。我々の日常における時間には、円環性と線状性が同時に存在しています。

けいおん!』のキャラクターたちの日常もまた、放課後のお茶とおしゃべりの反復と、卒業によるその終焉でできあがっていることはもはや言うまでもないでしょう。そしてそれに対する隠喩として画面にあらわれるのはやはり円なのです。

映画けいおん!』において円のモチーフは冒頭から反復されています。音楽室での日常のシーンにはティーカップ、バウムクーヘンが並びますし(もちろんこうした風景は『けいおん!』全編を通して常に見ることができます)、オープニングの曲のあいだに流れる映像はタルトがイメージされています。ロンドンに着いてからもいくつか円いものは見て取ることができますが、それらはみな、帰国直前に行うライブの最中に見えるビッグベンの時計につながっていきます。五人は帰国の飛行機の時間を気にしながら急遽参加することになったイベントで曲を披露するのですが、ここでロンドン滞在の期限が円形の時計によって表象されるわけです。

時計の針が回転するのと同じように、円はしばしば回転の運動をもたらします。澪が怖がりなのは今に始まったことではないのですが、『映画けいおん!』ではその対象が「回るもの」になります。ロンドンの空港に着いたとき、預けた手荷物を受け取るコンベアーがいくら回っていっても澪の手荷物が出てこず(実はわきによけられていたのですが)、それ以降澪は回転寿司を見ても観覧車を見ても「嫌な予感」を覚えるようになります。

しかしその観覧車に半ば強引に乗せられたとき、澪から「嫌な予感」はふっと去っていきます。なぜなら律の言うように「乗ったらぐるぐる回るのは見えないから」です。つまり循環を外から見ているのはおそろしいけれども、自分がその循環のなかに入ってしまえばただ楽しいばかりなのです。

この対比を時間の流れの考え方と対照させると、時間が流れている(流れていた)ことを見つめる在り方と、いま刻々と流れていく時間に常に身を任せる在り方との対比という風にも言えます。それは言ってみれば時間の「外側」に立つか、それとも時間の「内側」に立つかということでもあります。

時間の内側に立って常に現在性のただなかに身を置き続けるような存在の在り方を示したのは作家で英文学者の吉田健一でした。最晩年の書『時間』では彼の時間論が存分に展開されています。冒頭を引用してみます。

冬の朝が晴れていれば起きて木の枝の枯葉が朝日という水のように流れるものに洗われているのを見ているうちに時間がたって行く。どの位の時間がたつかというのでなくてただ確実にたって行くので長いのでも短いのでもなくてそれが時間というものなのである。(『時間』Ⅰ)(※1)

ここで書かれている時間の在り方は、過去も未来もなくただ現在が我々の前にあるというものです。吉田健一は一秒前が過去になり一秒先が未来となって現在をまさしくいまこの瞬間だけに限定するような時計の時間の在り方を否定します。時間というのはただ流れていくものであって、たとえ我々が歴史を紐解き史実を参照している場合においてさえ、その個としての人間の視点から考えれば、そこで流れているのはやはり常に現在なのです。

日常系の作品の世界を考えたとき、そのなかで流れている時間の在り方はまさしくこういうものなのではないでしょうか。なぜなら日常系には過去や未来との因果関係から生まれる物語はほとんど存在せず、人物たちの行動は過去や未来を起点にしたものよりも「いま、そのとき」を楽しむようなものの方が多く描かれるからです。現在の日常を称揚しているからこそ、日常系は「日常」系たりうるのです。

ちなみに、こうした時間観念と対になるような考えをもっていた作家として吉田健一が『時間』のなかで挙げたのはやはりプルーストでした。『失われた時を求めて』では当然、長く続くセンテンスによって時間の流動性はどのページにおいても担保されており、無数に描かれる日常行為の反復(および過去の反復を示すフランス語の半過去時制)がその場面場面の現在を産みだしてもいるのですが、しかしプルースト特有の「無意志的想起」によって、『失われた時を求めて』の本文にもある「時間の外に出る」ような感覚を語り手の「私」が得ていることも確かなのです。プルーストの語り方は極めて時間的な意味で重層的です。あるひとつの光景の裏にはいくつもの過去の時間が流れ、しかもそれを「私」は思い出し、あるいは書きつけているわけです。これは常に現在というひとつの流れのなかにいる吉田健一的存在とは対照的と言えるでしょう。(※2)

 

(※1)吉田健一『時間』の底本は、講談社文芸文庫の版(1998)に拠りました。

(※2)吉田健一プルーストの時間観の対比については、松浦寿輝プルーストから吉田健一へ」(鈴木道彦訳『失われた時を求めて1 第一篇 スワン家の方へⅠ』(集英社ヘリテージシリーズ、2006)所収)を主な参考としました。

 

 

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durga1907.hatenablog.com

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(奈)